毒の華と、群れの鎖 3 〜廃墟の温室と、研がれる牙〜
3.
さらに季節は進み、コロとウルの滞在する王都は本格的な冬の真っ只中にあった。
早朝の光はどこまでも薄暗く、鉛色の空からは大粒の雪がシンシンと音もなく降り積もっている。
数日前から降り続いた雪は、白亜の学院の屋根を分厚く覆い、幾何学的だった庭園を不格好な白い起伏へと変え、世界から色彩と音を奪い去っていた。
カビと薬品の匂いに、ストーブの薪が爆ぜる匂いが混じり合う薬草学の講師準備室。
コロは外套についた雪をパパッと払い落としながら、机の上に乾燥させた青白い草の束を並べた。
「はい、先生。これがリストにあった『氷藍草』だよ」
「来た来た!いやー、助かるぜ、ホント」
「雪を掘り返して根を傷つけずに抜くの、結構コツがいるんだからね」
「アホみてえに雪が降って、クソさみいもんな。ちょっとやそっとのコツじゃこうはならねえよ」
そうボヤくように呟きながら、コロが納品した氷藍草をチェックするヴィンセント。
「……よし、数も品質も言わずもがな。毎度!」
「腕には自信があるからね」
「ハンッ、相変わらず鼻と融通がよく利くな。並の採取家なら、指が凍傷になるって泣き言を言うところだ」
ヴィンセントは相変わらず無精髭をボリボリと掻きながら、窓の外の雪景色に視線を向け、机の上に銀貨の袋を放り投げる。
『コロも泣き言は言っているぞ』
「それでも結果が伴ってるだろうがよ。これがピーピー泣き言をほざく奴が持ってくる品質かよ」
一人と一匹のやりとりを鼻で笑いながら、氷藍草に鼻を近づけてスンスンと嗅ぐヴィンセント。
「心外だね。それを言うならウルだって泣き言を言うじゃないの。『早く焼いた肉が食いたい』とか『なぜわざわざ真冬の夜中に出歩く』とか」
『ぬぅ……真似するな』
「ははは、まるで私だけが泣き言を言うみたいに言うからだよ」
コロが手際よく銀貨を数えている間、足元で暖炉の熱気に丸くなっていたウルが、ふと耳をピクリと動かした。
『おい、忘れていたが、ここにも大げさな檻があっただろう』
「あれ?そういえば。ねえ、先生」
「ん、なんだ?」
「その氷藍草ってさ、わざわざ外に採りに行かなくても、この学院の裏手にある、やたらとデカい温室で昔栽培してたでしょ?別にあそこなら雪を掘り返さなくてもいいんじゃない?」
思い出したように尋ねたコロの言葉に、ヴィンセントは窓ガラスに肘をついたまま、鼻でフンと笑った。
「あー……あの旧温室か。懐かしいな」
「あれ?……旧?」
「だな。あそこはもう、数年前から完全に閉鎖されて使われてねえよ」
『ほう、あんな立派な檻を放置しているのか?人類は物持ちが悪いな』
「檻じゃねえよ。……まあ、あそこはガラス張りの天井が高級すぎてな、冬場の魔法的な維持費が馬鹿にならねえんだ」
「あー、やっぱり」
『だな。魔物の俺ですら第一印象でそう感じた』
視線を合わせたコロとウルがそう言って小さく頷きあった。
肩をすくめたヴィンセントが、軽く天井を仰いで言葉を続けた。
「まぁな。暖めるだけの魔石の費用が採算に合わなくなってよ、しかも年がら年中『こっちの修繕が必要だ』だの『あっちを改修する必要がある』だの、とんだ金食い虫だったんだな。んで、学長室のジジイどもが速攻で予算を切りやがった。今じゃ建物の老朽化も進んで、風が吹くたびに天井から巨大なガラスの刃が降ってくるような自殺志願者の特攻先だ。もう誰も入りゃしねえよ」
「へえ、もったいないね。珍しい草とかは残ってないの?」
「あるわけねえだろ。目ぼしい高級薬草は、閉鎖される時に俺が粗方ぜんぶ植え替えて退避させたから、中にはもう雑草くらいしか残ってねえよ。……まあ、もし暇なら、冬の散歩がてら見てくるか?立ち入り禁止の看板はあるが、鍵は錆びて壊れてるからな」
「ふーん、気が向いたらね」
コロが肩をすくめた、その時だった。
窓の外、雪が激しく降り注ぐ中庭の片隅で、何人かの人影が動くのがヴィンセントの目に留まった。
「チッ……朝っぱらから、クソ寒い中よくやるぜ」
ヴィンセントが吐き捨てるように呟く。
コロもその視線を追って、凍りついた窓ガラスの向こうを見つめた。
興味が惹かれたのか、丸くなっていたウルものっそりと起き出して、コロに寄り添うようにして窓ガラスの向こうへ視線を送る。
激しい吹雪の中、数人の貴族の生徒たちが、一人の少年を雪の中に押し倒し、冷酷な笑い声を上げながら、何度も何度も分厚い冬靴で踏みつけている。
踏みにじられているのは、あの、いつかの氷の池で泥を漁っていた小柄な少年だった。
制服はボロボロに引き裂かれ、白い雪の上が少年の血で赤黒く染まっていく。
「ああ、あの子ね」
『執拗だな。寄って集って……ヤツら、あのひ弱そうなボロ切れに、親でも殺されたのか?』
コロもウルも呆れ顔に呆れ口調で、イジメの現場を観察している。
「なんだ、お前らも知ってたんかよ」
「まぁね。毎日ように虐められているでしょ。あの子、男爵家とか言われてたね」
「……トビアスだよ。トビアス・オードラン。しがない下級貴族の男爵家の長男坊らしいぜ」
ヴィンセントはパイプに火をつけ、紫煙を燻らせながら冷めた目でその光景を見下ろしていた。
「先生は、やっぱり助けないんだね」
「はぁ?『やっぱり』じゃねえよ。普通に助けるわけねえだろ」
『おい、お前は講師だろうが。普通は仲裁に入るのではないのか?』
「馬鹿言えよ。んな事まで首を突っ込むような高え給料を貰ってねえから、薬草でピンハネしてんだろうがよ」
ヴィンセントの心底嫌そうなその言葉に、コロはクスッと笑ってしまう。
そして、呆れながら『フン』と鼻を鳴らすウル。
ヴィンセントは窓の外に視線を落としつつ言葉を継いだ。
「そもそもな。あいつを助けたって、俺には圧倒的に『得』がねえよ。それどころか、主犯の侯爵家のガキを怒らせて俺の立場が悪くなるだけだ」
「そうだね。その辺の平民の子供たちのイザコザではないもんね」
「……いいかウル、この学院じゃな、教師どころか学長すらあいつを助けやしねえよ」
ヴィンセントは窓を指先でトントンと叩き、貴族社会の歪んだ現実を吐き捨てる。
「あいつの男爵家はな、宮廷の派閥争いで尻尾切りされちまって、完全に孤立して破綻しかけてるって聞く」
「あ、そういう感じなんだ」
『親も子も似たような境遇か』
「じゃねえの?そんな『死に体の家柄』のガキを一人助けたところで、俺どころか学院にも何のメリットもねえよ。むしろ侯爵家に恩を売っておくほうが、どれだけ多額の寄付金が転がり込んでくるかって話さ。……まあ、俺は平民だしエルフだからな。人間族のくだらねえ身分制度のゴタゴタなんざ、知ったこっちゃねえよ」
ウルの鼻が、窓の隙間から漏れ聞こえるかすかな悪臭を捉えた。
『……狂気だな。以前の澱んだ匂いが、ついに形を成し始めている。あの踏まれている個体、いつ喉笛を噛みちぎりに行ってもおかしくはないぞ』
「そうだね。目に見えない鎖が、もうボロボロに錆びて千切れかけてる」
コロとウルが冷徹に観察している中、ヴィンセントはパイプを机の灰皿でトントンと叩き、羊皮紙の書類を整理し始めた。
「ま、人間族のガキどもが殺し合おうが知ったことじゃないが……そうだ、コロ。急で悪いんだが、明日から十日間ほど、俺は王都を離れて中央の薬師学会に出席することになってな。しばらくここを空ける」
「へえ、学会なんて行くんだ。先生、偉いんだね」
「うるせえよ。体裁ってやつだ、体裁。クソつまんねえ会合で、居眠りしねえように精神を鍛える荒業だぜ。というわけで、お前らに新しいリストを渡しておく。この『寒根木』の皮なんかは長持ちするから、俺がいねえ十日間の間に、のんびり、ゆっくり採取しておいてくれや。帰ってきたらまとめて金にしてやるからな」
「はーい。じゃあ、しばらく先生とはお別れだね」
ヴィンセントから分厚い羊皮紙の束を受け取り、コロはニッコリと笑った。
「さてと。宿に帰る前に、旧温室でも覗いてみようかな」
『フン、物好きめ』
ヴィンセントが不在となる十日間。
それは、いじめの主犯たちを嗜める大人の目が、この学院から完全に消えることを意味していた。
そして同時に、コロとウルという「最強の傍観者」たちもまた、その凄惨な日常から少し距離を置くことになる。
一人と一匹、そして一人のエルフ。
それぞれの合理的な事情によって作られた小さな「不在」の空白が、壊れかけた少年の心を、引き返せない奈落へと加速させていく。
雪が激しさを増す中、一人と一匹は、白く煙る学院の廊下を静かに歩み去るのだった。
ヴィンセントの準備室を後にした一人と一匹。
雪がシンシンと降り積もる並木道を抜けて、学院の敷地の外れにある旧温室へとやってきた。
かつては白亜の骨組みと美しいガラスで覆われていたであろう広大な温室は、ヴィンセントの言葉通り、見る影もない廃墟へと変わり果てていた。
天井のガラスはあちこちが割れ落ち、吹き込んだ雪が床に真っ白な吹きだまりを作っている。
本来は温かな熱気を保っていたはずの空間には、ひんやりとした湿気と、朽ちた植物や腐葉土の重苦しい匂いが立ち込めていた。
「うわぁ、本当にボロボロだね」
『酷いものだな』
「前回来た時は、あんなに綺麗で手入れが届いていたのに」
『人類の作る箱庭など、こんなものだな』
「だね」
『手を入れる者がいなくなれば、あっという間に本来の自然に飲み込まれる』
足元に散らばるガラスの破片をサクサクと踏みしめながら、ウルが鼻で笑う。
かつて貴重な薬草や色鮮やかな花々が美しく整列していた花壇は、今や鬱蒼とした蔦と逞しい野生の雑草たちに完全に覆い尽くされていた。
「うーん、たしかに雑草ばっかりだね。良い頃合いの薬草なんて残ってなさそう」
コロは氷藍色の瞳を細め、荒れ果てた花壇をぐるりと見渡す。
そして、ふと感心したように声を上げた。
「あ、でも、あっちの日の当たらない場所……腐食羊歯とか、毒草の類なら結構生い茂ってるね」
『――待て、コロ』
一歩進もうとしたコロを、ウルが低く抑えた声で制止した。
ウルは鋭い眼光を温室のさらに奥――割れたガラスの向こうの、薄暗い死角へと向けている。
「どうしたの、ウル?」
『……気配だ。それに、先ほどからその毒草の匂いがやたらと強く漂ってくると思っていたが、どうやら自然に生えているだけの匂いではないようだぞ』
「腐食羊歯のこと?」
『ああ、それだ』
ウルの視線を追い、コロもそっと瓦礫の陰に身を潜めて奥を見つめた。
少し離れた蔦の陰。
冷たい風が吹き込む壊れた温室の最奥で、一人の少年が背を丸めて作業をしていた。
先ほど中庭で踏みにじられていた、あの男爵家の少年――トビアスだ。
少年の制服は血と泥で汚れたままで、寒さで肩が小刻みに震えている。
だが、その手つきだけは、異常なほどに迷いがなかった。
彼は素手で、毒薬の原料となる危険な毒草をひたすらむしり取り、携帯用の小さなすり鉢と瓶に詰め込み、何らかの濃縮液を無言で抽出し続けていた。
『あのボロ切れ、ただのパシリで草を集めているわけではなさそうだぞ』
「……そうだね。あの子の目は、もうどこも見ていないよ」
遠目からでも分かった。
少年の瞳には、恐怖も、悲しみも、絶望すらも残っていなかった。
あるのは、すべてを終わらせることを決めた生物が持つ、冷たくて純粋な『殺意』の炎だけだ。
守るべき巣も群れも失った獣が、死なば諸共と敵の喉笛に喰らいつくための牙を、たった一人で静かに研いでいる。
「……見た感じ、私たちの探している有用な薬草は本当にもう残ってなさそうだね」
コロはそれ以上少年を観察することをやめ、くるりと背を向けた。
「あの毒草も、私たちがわざわざ採るほど価値の高いものじゃないし。あーあ、毒草のオンパレードだ。薬効を引き上げる工夫までしっかりしてる」
『む。意外だな。聡明なのか』
「そうだね。そのまま暗殺者にでもスカウトされたら、期待の薬師になれるよ」
『斡旋する宛は……残念ながらないな』
「この辺りではね。ま、面倒事に巻き込まれる前に、さっさと帰ろうかな」
『賢明だな。これ以上ここに長居すれば、腐った肉の悪臭と毒草の臭いで鼻が曲がりそうだ』
「うん。温かい宿でお肉でも食べつつ、先生から貰ったリストを確認しようかな」
『寒根木の皮がどうとか言ってたな』
「そう、それ。時間はあるから、遠出しようかな」
『フン。結局は遠出か』
絶望の果てに自ら毒の華を咲かせようとしている復讐者に、一人と一匹は言葉をかけることもなく、ましてや止めることなど一切しなかった。
ただの『風景』の一部としてその場を立ち去る。
サク、サク、とガラスと雪を踏む音だけを微かに残し、コロとウルは誰にも気づかれることなく、廃墟のような温室を後にした。
これからそこで作り出されるかもしれない惨劇の芽を、完全に放置したまま。
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