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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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愚かなる復讐劇と、海の支配者 4 〜新月の静寂と、紫色の喜劇〜

4.


作戦決行の前夜。


薬草店の店内は、島中から集められた毒草を煮詰める大釜の熱気と、鼻を突く毒煙でさながら地獄で営んでいる工房のようになっていた。

むせ返るような酸っぱい異臭と、視界を遮る赤紫色の不気味な蒸気。

グツグツと泥のように泡立つ鍋の周りでは、何人もの従業員たちが布で口元を覆い、汗まみれになりながら薪をくべ続けている。


「これだけあれば十分だ!奴らを根絶やしにできるぞ!」


隈の浮き出た目を血走らせた店主は、コロが持ち込んだパンパンの背負籠を見て狂喜乱舞し、約束通り相場の三倍――いや、色をつけてそれ以上の大金を支払った。


「凄いことになっているね。ここの薬草店だけで何樽分くらい作ったの?」


貰った報酬を数えながらそう店主に尋ねると、店主はコロが持ち込んだ背負籠を抱きかかえながら口を開いた。


「んー?うちだけで十五樽だぞ!いやぁ、コロちゃんが毎日、うちに最高品質の毒草、『斑目(まだらめ)モドキ』を卸してくれたからな!それがあったから他の町や村より効率よく作れたんだよ!」

「そっかそっか。それは良かったよ」

「ははは!もう一生分は毒薬を作ったなぁ!よーし、毒薬作りも今日が最後!頑張るぞ!」


アンデッドのように虚ろな表情で、せっせと毒薬を生成する従業員たちに発破をかけた店主。

コロの革袋は、人類の復讐心と引き換えに、ずっしりとした銀貨の山で膨れ上がることになった。




そして迎えた、翌日の新月の夜。


夜空には星すら見えず、海は光を一切反射しない完璧な漆黒の闇に包まれていた。


港の裏手からは、罪人や奴隷たちを文字通り「生け贄」として閉じ込めた囮の船が、ぽつんと沖合へと流されていく。

「生け贄」である彼らに拒否権などなかった。


船の周囲からは、島民たちが数人がかりで抱えて運んだ巨大な樽数十個分の猛毒薬が、どろどろとした紫色の濁流となって海へと注がれ、じわじわと沖へ向けて広がっていく。

粘り気のある毒液は、黒い海面に触れた途端にジュウッという不気味な音を立てて泡立ち、本来の澄んだ海水を汚染しながら、どす黒い染みのように広がっていった。

そして港の岸壁や岩陰には、息を潜めた魔法使いたちが杖を構えて、今か今かとスタンバイしている。

いつでも大魔法をぶっ放せるよう、その指先は緊張で強張っている。




しかし。




一時間、二時間と過ぎても、海は不気味なほどシンと静まり返ったままだった。

波の音すら、毒に毒されて死に絶えたかのように静か。

沖の方へ流されていった船も、ただただ静かに夜の海に浮かんでいるだけだ。


「……やっぱりね。時間の無駄だったね」

『フン。だから言ったろう。さっさと寝るぞ』


港の様子を遠巻きに眺めていたコロとウルは、あまりの馬鹿々々しさに完全に興奮が冷め、さっさと宿の部屋に戻って温かいベッドに潜り込むのだった。




翌朝。


新月の闇が去り、どんよりとした曇り空の下で、港には相変わらず重苦しい空気が漂っていた。

海面は、流し込まれた猛毒のせいで不気味な紫のまだらに染まり、油のような膜があちこちに浮いている。

打ち上げられた小魚の死骸が波打ち際でツンとした腐臭を放ち、虹色にギラつく毒の油膜が、波の動きに合わせてヌメヌメと形を変えていた。


「ちくしょう、あのクソアマども、昨夜は一匹も姿を現さなかったな!」

「それより見ろよ、この海を!マーメイドどもは一匹も仕留められなかったうえに、毒薬のせいでしばらくは近くで漁もできやしねえ。当分は干物暮らしだぞ!」


作戦が空振りに終わり、港では行き場のない怒りを抱えた漁師たちが燻っていた。

朝食を終えて宿をチェックアウトしたコロとウルは、宛もなく港をブラブラと散歩している。


「あーあ、海がとんでもないことになってる」

『これだけ派手に汚しておいて、仇のマーメイドは一匹も仕留められず、か』

「まぁ筒抜け、それも精度の高すぎる情報が渡ってたわけだしね……」

『見ろ。あの沖の船を回収するのか?』

「まぁ、船って、おいそれと捨てるようなものじゃないからね」


一人と一匹の視線の先。

沖合にぽつんと漂ったままの囮の船を回収するため、数人の水夫を乗せた小型の船が、紫色の海面を滑るようにして近づいていく。


緊迫感の抜けた、どこか弛緩した朝の空気。

町の人々は興味津々にまだらに紫色の毒に染まってしまった海を覗き込んでいる。

大半の口から出てくる言葉は、マーメイドへの憎しみの言葉ではなく、『これで暫くは魚は採れない』『いつになったら元に戻るのか』という、目先の心配ばかり。


だが、小型船が囮の船の真横へと接近し、ロープをかけようとした、その瞬間だった。


――ギギギィィィッ!!ドッ、バキィィッッ!!


突如として、静かな海に船体が激しく破壊される轟音が響き渡った。


海中から何者かによって同時に船底を突き破られたようだ。

二艘の船は一瞬にしてバランスを崩し、激しい白煙と不気味な泡を上げながら、まるで底なし沼に引きずり込まれるかのように、あっという間に海の底へと沈没していった。


乗っていた水夫も、閉じ込められていた奴隷たちも、悲鳴を上げる間すらなかったと分かるくらいに、あっという間の出来事だった。


「な、なんだ!?何が起きた!?」

「おい!ふ、船がなくなってるぞ!!」

「マーメイドだ!奴ら、船の下にいやがったんだ!!」


港で待機していた魔法使いたちが、色めき立って慌てて立ち上がる。

杖を掲げ、迎撃の魔法を唱えようとした――その時。


『おい、乗れ』

「うん」

『しっかり掴んでろ』

「お願い」


たったそれだけのやりとり。

しかし、何の躊躇もなく、パッとウルの背中に飛び乗ったコロ。

ウルはコロが毛並みをガシッと掴んだその瞬間、引力の鎖から解き放たれたかの如く、建物の屋上伝いに跳躍し始めた。


ウルだけではない。

魔物たちの行動は、人類たちよりも圧倒的に早かった。


――ザバァァァッッ!!!


港の至る所から、十数体のマーメイドたちが一斉に海面へと跳ね上がったのだ。

彼女たちは美しい尾びれを扇のように翻すと、抜群の連携をもって、強大な水魔法を一斉に発動させる。


巻き上げられたのは、人類が自ら海へと流し込んだ、あの『紫色に濁った猛毒の海水』だった。

巨大な紫色の水の塊が、まるで意思を持つ大蛇のように虚空へと舞い上がり、次の瞬間、港町に向けて一気にぶち撒けられた。

幾重にもうねる紫色の水の壁が、太陽の光を遮って町全体に巨大な影を落とす。

それは単なる波ではなく、石造りの家屋を粉砕し、逃げ惑う人々を丸呑みにして圧殺する、圧倒的な質量を持った死の鉄槌だった。


凄まじい質量の海水の塊が、バシャアァァッ!!と激しい音を立てて建物を叩き、路地を濁流となって駆け抜ける。


「――ガ、ァ、ア゛アァァァッ!!」


ウルはこの『嫌な予感』を察知していたのだ。

水飛沫が上がる前にコロをその背へと乗せ、強靭な脚力でピョンピョンと建物の屋上を伝っていたお陰で、あっという間に町で最も高い場所にある石造りの灯台へと避難していた。




灯台の最上階から、一人と一匹は眼下の地獄絵図を見下ろしていた。


猛毒を含んだ海水を頭から浴びせかけられた人類たちが、一人、また一人と、地面に倒れ伏していく。

ただの打ち付けた波ではなく、マーメイドたちが放った水魔法による意思を持った濁流。

そして、その濁流が含んでいるものは、人類がマーメイドを殺すために調合した、相場の三倍以上の価値がある特製の猛毒。

ありったけの憎悪がたっぷりとこもっている、特製の猛毒。


効果は抜群過ぎるほど、そう――悲しいほどに抜群だった。


皮膚は焼けただれ、口からはボロボロと紫色の泡が溢れ出す。

男も女も、兵士も魔法使いも関係なく、誰もが己の喉を掻き毟りながら、狂ったようにもがき苦しみ、泥水をすするようにのたうち回っている。

猛毒を含んだ水流が石畳の隙間に染み込み、そこかしこからジュウジュウと不気味な白煙が立ち上る。

劇薬を肺まで吸い込んだ者たちは、断末魔の叫びすら声にならず、ただ血反吐と紫色の泡を撒き散らしながら痙攣を続けていた。


その凄惨な光景の向こう側。


引いていく紫色の波間で、リリィやヘンリエッタをはじめとするマーメイドたちが、上半身を揺らしながらクツクツと、実におかしそうに笑っていた。


『あははは!本当に馬鹿な生き物!』

『自分たちの作った毒で死ぬなんて、最高の喜劇だわ!』


彼女たちはひとしきり人類の末路を嘲笑うと、美しい尾びれでパシャリと水飛沫を上げ、悠々と沖の方へと去っていった。

あとに残されたのは、紫色の毒液に塗れ、絶叫と呻き声だけが響き渡る、文字通り壊滅した港町だけだった。


「……うわぁ。本当に完璧に終わっちゃったね、この町」


コロはウルのふかふかの背中の上で、あいた口が塞がらないといった様子で肩をすくめた。


『自業自得だな。陸の者が海の広さを侮り、独善的な罠を仕掛けた報いだ』

「ほんとだね。マーメイドたちは人類の小細工を知って、侮辱されたと感じたのかも」

『かもしれんな』

「……薬草店のおじさんに薬草代、先払いで貰っておいて本当に良かったよ。今更回収なんてできないもんね」

『おい、お前というやつは……』

「それより本来の目的の月魄蘭(げっぱくらん)の採取がまだだったね。別の町を拠点にして採取したら、さっさと内地に戻ろうかな」

『毒草で十分過ぎるほど儲けただろうが』


ウルが呆れたように鼻を鳴らす。

壊滅した町には目もくれず、コロは麻袋の中の銀貨の音をチリンと響かせた。


「……まったく、とんでもねえ嬢ちゃんだな」


不意に、背後の螺旋階段の影から、ひどくしゃがれた野太い声が響いた。

コロとウルが振り返ると、そこにはこの石造りの灯台を管理していると思しき、小柄だが岩のように筋骨隆々なドワーフの老人が立っていた。


潮風に焼かれた浅黒い肌に、顔を縦に走る古傷。

両腕にはビッシリと薄くなった入れ墨が彫られており、片足は木製の義足。

口にくわえた古びたパイプからは細く紫煙が立ち上っている。


ただの海辺の老人ではない。

死線をくぐり抜けてきた強者の匂いを醸し出していた。


「あれ、おじいさん。おじいさんはこんなところに逃げていたの?」

「ん?いや、逃げてたわけじゃねえ。ここは俺の職場だ」

「ああ、灯台守ってわけか」

「だな。それより嬢ちゃん、その魔狼……あんた、タダの幼い旅人ってわけじゃねえな?」


老人はウルの姿を見ても取り乱すことなく、鋭い隻眼で一人と一匹を値踏みするように見つめた。

コロは「ただのしがない採取家(ギャザラー)だよ」とだけ言って、眼下で紫色の地獄と化している町へと視線を戻す。


「で、おじいさんは町の人たちを止めなかったの?」

「俺は止めたぞ」


ドワーフの老人は鼻からフンと煙を吐き出し、忌々しそうに海を睨みつけた。


「親切心でな、人類なんかが、海でマーメイドの群れを一掃するなど、できる訳がねえと散々言ってやったんだ」

『まともな人類がいたのに、この体たらくか……』


ウルのボヤきは、どうやらこの老ドワーフには聞き取れていないようだ。

老ドワーフはパイプを燻らせつつ、言葉を続けた。


「だが、復讐に目が眩んだ馬鹿どもの耳には届かなかった。……漁師なんてのは、所詮は沿岸をちょろちょろするだけの『海の素人』に過ぎねえんだよ」

「素人……まあ、そうだね」

「海賊として世界の海を渡り歩いた俺から言わせりゃ、マーメイドにちょっかいをかけるなんて自殺志願者のやることだ。奴らは美しい女なんかじゃねえ。ただの『人類の皮を被った化け物』だ」


海賊。

その言葉に、コロとウルは納得したように顔を見合わせた。

本当の海の恐ろしさ、そして魔物の生態を身を以て知っているリアリストだからこそ、彼は最初から町の計画に見切りをつけ、この高台の灯台から一歩も動かなかったのだ。


「なるほどね。海を知り尽くした人が言うと説得力があるよ」

『まったくだな。馬鹿の集まりの中で、元ならず者だけがまともだったわけだ』


コロの言葉を受け、老人は自嘲気味に笑った。


「まあ……じきに隣町の奴らが様子を見に来るだろうから、俺はこの後、そいつらと今後の対応について相談しなきゃならん。片付けが大変だ」

「そっか。お仕事頑張ってね、おじいさん」


コロはリュックサックを背負い直すと、ウルの背中からひらりと飛び降りた。


「私たちはもう行くよ。ここの真反対にあるグラーデの町から内地に戻ろうかな」

「賢明だな。この島で唯一、この馬鹿げた作戦に加担しなかったマトモな町だ。マーメイド共も知ってるだろうから、お目溢ししてくれるだろうよ」

「だね。それじゃあね」


そう言って、一人と一匹は螺旋階段へと向かう。

ドワーフの老人は、滅びゆく町を背にして飄々と去っていくその後ろ姿に声をかけた。


「その賢そうな魔狼なら、海でマーメイドに喧嘩を売ることはねえだろうが、せいぜい気をつけるんだな」

「大丈夫。ちゃんと分かっているよ」


ヒラヒラと手を振り、コロとウルは灯台を後にした。


人類の滑稽な復讐劇と、海を支配する魔物たちの残酷な笑い声。


一つの町を地図から消し去ったその騒動の余韻を背に、一人と一匹は新たな旅路へと歩みを進めるのだった。

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