愚かなる復讐劇と、海の支配者 3 〜滑稽な逢瀬と、苦いだけの猛毒〜
3.
すっかり日が落ちた、海沿いの細い道。
雲一つない澄み切った夜空には、細い三日月が心細げに浮かんでいる。
月明かりと無数の星々が黒い波間にキラキラと反射し、どこまでも続く暗い海は、恐ろしくも神秘的な美しさを湛えていた。
ザザーッ、と波が岩肌を打つ音が規則的に響き、冷たい夜風が磯の香りと共に吹き抜けていく。
遠くを見渡しても水平線と夜空の境界は曖昧で、まるで世界そのものが巨大なインク瓶の中に沈んでしまったかのようだ。
普通なら「夜の海は吸い込まれそうで不気味だね」とか「星空と海が綺麗だね」といった感傷の一つも飛び出しそうな情景だが、この道を歩く一人と一匹にそんな情緒は微塵もなかった。
「いやぁ、今日の収穫だけでもかなり儲かりそうだよ。借りた背負籠もパンパン。明日はもうちょっと東に行った所にあった山に入ってみようかな」
機嫌良さそうに背負籠を揺らしてみせるコロ。
籠の中には禍々しい紫色の不気味な斑点がある草がギッシリと詰まっている。
『ああ、あそこか』
「うん。あっちの方が、日陰を好む毒草がもっと群生してそうな地形だったしね」
『お前は本当にブレないな。キラキラ光る星空の下を歩きながら、頭の中はキラキラ光る銀貨のことばかりか』
そう漏らしたウルが、小さくため息をついた。
コロは口を尖らせつつウルに視線を向ける。
「えー?星は別にいつだってキラキラしているじゃない」
『身も蓋もないな』
「ウルはそんなロマンチックなことを思って歩いていたの?」
『フン、馬鹿言え。俺はアッシュウルフだぞ。アッシュウルフが『星空がキラキラしているな』などと、腑抜けたことを思うわけがないだろう』
ウルが優しくボフッと、隣を歩くコロに身体をぶつける。
一瞬、よろけたコロだったが、クスクスと笑いながら、今度はウルに身体をぶつけてみせた。
「忘れているかもしれないけど、私だって根はアッシュウルフなんだよ?星なんか見たって、ただの『そういう自然現象』だなとしか思えないよ。私はウルの年上のお姉さんウルフなの」
『抜かせ。俺だって人類でいうところの、百歳はとうに超えている。今さらお姉さんもお兄さんもあるか』
「ふふ。ま、とにかく。こんなお手軽に採取できる毒草が大金に化ける特需なんてそうそうないんだから、楽して稼げる時に稼いでおかないと」
『まぁ……探すのに苦労は無かったな』
「でしょ?それに、今日採った分だけでも、美味しいお肉がどっさり買えるよ」
『フン。まぁ、それは否定せんがな』
そんな他愛のない、そして極めて即物的な会話を交わしながら歩いていると、不意に、前方の海辺の岩場から人影が飛び出してきた。
――タッタッタッ。
暗がりの中、その人影は一人と一匹には目もくれず、軽い足取りで港町の方へと駆けていく。
「ん?あんな岩場から人が……夜釣りかな?」
『いや。釣り竿も網も持っていなかったぞ。それにしては随分と身軽だった。それに……』
ウルは不快そうに顔を背け、フンッと鼻を鳴らした。
『ひどい匂いだ。発情した人類のオスの、むせ返るような欲情と興奮の匂いがプンプンしていた』
「あはは。ウル、鼻が良いのも考えものだね」
『最悪の気分だ。不愉快の境地のような臭さだ』
「逢引でもしていたのかな。一人で飛び出してきたってことは――」
呆れたように肩をすくめ、コロは男が走ってきた波打ち際の岩場へとふと視線を向けた。
そこには、月明かりに照らされて艶やかに輝く、美しいシルエットが岩に腰掛けていた。
『やはり首輪をしておくべきだな』
「ははは、だね」
海水を滴らせた長い髪をかき上げ、夜の海を背にしたその妖艶な姿。
濡れた白い肌は真珠のように滑らかで、月の光を弾いて妖しく発光しているようにすら見える。
その整いすぎた目鼻立ちと、豊満な胸、そして人を惑わすような甘い体臭は、確かに人類の男の理性をたやすく焼き切るだけの猛毒を秘めている。
それは昨日、沈む定期船から一人と一匹をこの島まで運んでくれたマーメイドのうちの一体だった。
岩場に腰掛けていたマーメイドは、コロとウルに気がつくと、ふわりと艶やかな笑みを浮かべて手招きをした。
一人と一匹は顔を見合わせ、言われるがまま波打ち際の岩陰へと歩みを進める。
「こんばんは」
『昨日は世話になったな』
「ね、本当。昨日は島まで運んでくれてありがとう」
軽い感じで感謝の言葉を述べつつ、岩陰の適当な岩に腰を掛けたコロ。
ウルは砂がつくのが嫌なのか、コロの側で立ったままだ。
『ふふっ、いいのよ。それにしても奇遇ね。こんな夜更けに海辺を散歩かしら?』
「明日の下見がてらね。それより、こんなところで人類のオスと何をしていたの?」
コロが素直な疑問を口にすると、マーメイドは濡れた唇をペロリと舐め、まるで極上のスイーツでも堪能した後のようなホクホク顔を見せた。
『ふふっ。その『何』をしていたのよ。情報も引き出したし、新鮮な子種も貰ったし、用済みだから次はもう食べちゃってもいいかしらね』
「なるほどね。情報も子種も全部貰っちゃえば、後は何も必要ないもんね」
『そんな感じ。あぁ、そうだわ。私、「リリィ」って名前らしいの』
「へえ、リリィ?」
『さっきのオスが、私に名前を付けてくれたのよ。一体どういう意味かしらね』
マーメイド――リリィは、まるで新しい玩具でも見せびらかすようにクツクツと喉を鳴らして笑った。
その言葉に、コロは不思議そうに首を傾げる。
「陸や空を縄張りにするサキュバスとかハルピュイアは、獲物に近づくために予め『人類のメスの名前』を自分から名乗るけど、海のマーメイドは違うんだ?」
『ええ、そうよ』
リリィは波間に尾びれを揺らしながら、事も無げに答えた。
『私たちマーメイドは、昔から群れの長にこう教えられるの。人類のオスを誑かす時は、上目遣いで「私も人類みたいな名前が欲しい」って言いなさい、って。そうすれば、人類のオスの馬鹿に拍車がかかるってね』
「……なるほど」
『賢いな。ふむ、よく考えられている。素直に感心してしまう』
「だね。理にかなっているよ。名付け親になることで『所有している』って錯覚させるんだ」
マーメイドなりの知恵に、素直に感心してしまうコロとウル。
『ふふ、その通り。そうするとね、より簡単に命も情報も差し出してくれるのよ。現にさっきのオスも、七日後の新月の夜に、毒を積んだ囮の船を流すって計画をペラペラと誇らしげに喋っていったわ。私たちマーメイドがまんまと船に誘われてきたところを、沖から更に毒を流して、魔法使いたちが大魔法をぶっ放すって』
「へえ、魔法使いのくだりは初耳だったな」
『人類は阿呆だな。それは教えてはいけない『作戦の肝』ではないのか?』
「だね……」
あまりのお粗末さに呆れ返ってしまうコロとウル。
『君だけは近づいてはいけないって、事細かに教えてくれたわ』
リリィが優雅に笑っていると、ザパンッ、と波が割れる音がして、すぐ隣にもう一体のマーメイドが海面から顔を出した。
昨日、ウルを神輿のように担いでいたマーメイドのうちの一体だ。
『あら。昨日の魔狼の彼と、不思議な子じゃない』
『ええ、偶然通りかかったの。こっちは、さっきの馬鹿な人類を帰したところよ。新月の夜に毒を撒く計画、本当みたいね』
『まあ。私もたった今、人類のオスからそれを聞き出したところよ』
『ふふっ、これで裏が取れたわね。小賢しい計画の情報は、かなり正確ってことだわ』
美しい水飛沫を上げながら、キャッキャと楽しげに笑い合う二体の魔物。
それは、その辺の街角で見かけるような、ごく普通の年頃の少女たちの立ち話にも似た、あまりにも無邪気な光景だった。
『ねえ、聞いて。そういえば私ね、「ヘンリエッタ」だって』
『ヘンリエッタ?なにそれ、なんだか長くて言いにくい名前ね』
リリィが呆れたように言うと、ヘンリエッタと呼ばれたマーメイドは、クツクツと笑った。
『ふふっ、そうなんだけどね。でも、この慣れない名前を舌足らずに、ちょっと言いにくそうに呼ぶ感じが、人類には効果的なのよ。「ああっ、俺が守ってやらなきゃ!」って、庇護欲をビンビンに刺激するみたいでね』
『あははっ!さすがね、勉強になるわ』
『ヘンリエッタ、お前だけは船に近づいちゃダメだ!って言ってたわ』
『ふふ、私の方も!』
コロとウルは、波間に響く彼女たちの他愛のない『女子会』を静かに見つめながら、魔物という種族の極めて合理的な恐ろしさに感心して頷き合っていた。
ふと、笑い合っていたヘンリエッタが、コロの背負っているパンパンの背負籠に目を留める。
『あら。ねえ、お嬢ちゃん。その籠からはみ出てる草、なぁに?』
「ああ、これ?」
コロは背負籠から、紫色の不気味な斑点がある草を一株引き抜いて見せた。
「人類があなたたちを一網打尽にするために集めている、猛毒の毒草だよ。町で高値で買い取ってくれるから、山でごっそり集めてきたの」
『フン。新月の夜の引き潮に毒薬を流すらしいぞ。海の広さを舐めているとしか思えん愚かさだ』
ウルが呆れ果てたように吐き捨てると、マーメイドたちも顔を見合わせ、それからお腹を抱えて笑い出した。
『あははははっ!本当に馬鹿ね!そんな草の汁で私たちが死ぬと思ってるの!?』
『傑作だわ!海を水溜まりか何かと勘違いしてるんじゃないかしら!』
ひとしきり笑い転げた後、リリィはスッと手を伸ばし、コロが持っていた毒草の株をひったくるように受け取った。
そして、まじまじと紫色の斑点を見つめる。
『へえ……人類には、こんな道端の草が「猛毒」になるのね。ふうん』
言うが早いか。
リリィは、人間であれば一口齧っただけで口から泡を吹いて死に至るその猛毒の草を、まるで新鮮なレタスでも食べるかのように、シャクッ、と良い音を立てて齧った。
青臭い汁が艶やかな唇の端からツツーッと伝い落ちる。
致死性の毒液を舌の上で転がし、彼女は微かに眉をひそめた。
『んー……苦いわね、これ。全然美味しくないわ』
ペッ、と残りの葉を海に吐き出すリリィ。
猛毒を直接胃袋に入れておきながら、彼女の美しい顔色にはただの一つの変化もなく、ケロッとしたままだ。
「まぁ、人類には効果バツグンなんだろうけど、やっぱりマーメイドくらいにもなると全然効かないんだね、その毒」
『当たり前ね。私たちを殺したかったら、せめて海竜の胃液くらい持ってくるべきね』
リリィが捨てた毒草の残りをヒョイと拾い上げたヘンリエッタも、パクっと口に含んでみたが『まぁ苦い』と言って吐き捨てる。
『で、それが高く売れるの?』
「うん。いつもの三倍だってさ」
『へぇ、人類からしっかりお金を巻き上げてやりなさいな』
コロコロと笑いながら、二体のマーメイドは「じゃあね」と優雅に手を振り、ザパンッ!と暗い波間へと潜って消えていった。
残されたのは、月明かりに照らされた岩場と、波間にプカプカと浮いている噛み千切られた毒草の残骸だけ。
「……人類の計画、完璧に終わってるね」
『だろうな。徒労もいいところだ』
一人と一匹は同情の余地もないという顔で肩をすくめると、再びキラキラと光る銀貨のことを考えながら、宿のある町への帰路につくのだった。
町への帰路についた一人と一匹。
潮騒の音が遠のき、やがて港町の石畳と、夜の酒場や宿屋から漏れるオレンジ色の灯りが近づいてきた。
その目抜き通りへ続く路地を歩いていた時のこと。
前から、ひどく上機嫌な足取りで歩いてくる人間の男の姿があった。
ニヤニヤとだらしなく締まりのない笑顔を浮かべ、まるで夢心地のように足元をフワフワとふらつかせている。
「ん?あっ」
『チッ。さっきの阿呆だ』
「だね」
ウルが忌々しそうに鼻先を前脚で擦った。
すれ違いざま、男から強烈に漂ってきたのは酒の匂いなどではない。
先ほど岩場で嫌というほど嗅がされた、マーメイドの甘ったるい体臭と、オスとしての欲情の残り香だった。
「ああ、……俺の可愛いお姫様。俺が絶対に君を守ってみせる……新月の夜は俺が……ふふふ……燃え上がるような愛を君に……」
男はコロたちには全く気づく様子もなく、虚空を見つめながらブツブツと幸せそうに呟いている。
どうやら完全に、自分を『種族の壁を越えて悲劇のヒロインを救う、ただ一人の騎士』だと錯覚しきっているようだ。
彼が命を懸けて守ろうとしている「お姫様」が、ついさっき致死性の猛毒草をサラダ感覚でかじり、自分のことを『用済みのエサ』として嘲笑っていたことなど、知る由もないのだろう。
「……幸せな頭だね」
『あんな阿呆のために命を張る魔法使いどもが不憫でならん』
「ほんとだね」
『「燃え上がるような愛を君に」などと抜かしていたぞ』
「差し出すのは愛じゃなくて、餌としての身体丸ごとなんだけどね」
『俺たちは壮大な喜劇を見せられているのか?』
「一応、人類からすれば悲劇なんじゃない?」
『フン。あまりの馬鹿さ加減に泣けてくるから、悲劇と言えなくもない』
「言い過ぎだよ」
『俺に言わせ過ぎる方が悪い』
「口が悪いなぁ」
コロは、幸せの絶頂といった顔で夜の町をほっつき歩く男の背中を、ただ冷たく見送った。
「まぁ、私たちには関係ないことだね。さ、薬草店の店主が寝ちゃう前に、この背負籠の中身をキラキラ光る銀貨に変えに行こうか」
『フン。せいぜいぼったくってやれ』
「こんな毒草を山盛りにした籠、朝まで部屋の中に置いておきたくないしね」
すれ違っただけの哀れな男にはそれ以上関心を向けることなく、一人と一匹は夜の港町へと歩みを進めるのだった。
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