愚かなる復讐劇と、海の支配者 1 〜狂乱の定期船と、便利な海上の馬車〜
1.
空はどこまでも青く澄み渡り、太陽の光を反射した海面が砕けた宝石のようにキラキラと眩しく輝いている。
エドワードとセリアの旅立ちを見送った一人と一匹は、さらに南下して寂れた港町へと辿り着き、そこから目的の島へと向かう中型船に乗り込んでいた。
ちなみに目的とは案の定、その島にしか自生しないとされている珍しい薬草だ。
その名を『月魄蘭』といい、月の満ち欠け、特に新月の時期にのみ肉厚な葉を大きく広げる蘭の一種を狙っていた。
およそ一日で島へと到着する定期船。
ザパン、ザパンと規則的に波を裂いて進む船の甲板は心地よい潮風が吹き抜け、漁師や商人など十数人の乗客たちが思い思いにくつろいでいる。
「こんなもんかな。……ふぅ、乗る直前にバタバタと採取しちゃったから、少し鮮度が落ちちゃったね」
『まったく……なぜ寸前になるまで薬草を採取していたんだ。慌ただしくなるのは目に見えていただろうに』
「なぜって?ふふん、そこに薬草があるからだよ」
『聞いた俺が馬鹿だった』
甲板の隅に陣取ったコロは、麻袋から取り出した大量の薬草の選別と下処理を、ようやく終えたところだった。
手は泥や樹液で汚れ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「よし、待たせたね、ウル。私たちもお昼ご飯にしよっか」
『フン。遅いぞ』
コロの足元で退屈そうに大あくびをしていたウルが、のそりと首を持ち上げた。
お昼時、船長からの振る舞いとして乗客全員に配られていたのは、つい先程、海から引き揚げられたばかりの新鮮な魚を、船上の炉で香ばしく焼き上げたものだった。
パチパチと炭が爆ぜる音と共に、脂の焼ける香ばしい匂いと濃厚な潮の香りが混ざり合って甲板に漂っている。
乗客たちは皆、とうの昔に骨までしゃぶり尽くし、手についた脂を舐めながら満足げに腹を叩いている。
コロの作業が終わるまで食事を取りに行けないウルは、ずっとその強烈な匂いを嗅がされ続けていたのだ。
立ち上がって、大きく伸びをしたコロもつられて大きなあくびをしてしまう。
『おい、呑気にあくびなどしてないで、受け取りに行くぞ』
「えー?ウルだって散々あくびばかりしていたじゃないの」
『馬鹿言え、ずっと暇だったんだから当然だ』
「私は少しでも高く売れるように頑張っていたんだけどな」
『よもや俺が手先を器用に使う作業を手伝ったり、お前の代わりに飯を受け取りに行けると思ったか?』
マズルに少しだけシワを寄せ、ボフッと重い身体をぶつけてくるウル。
コロはよろけながらもクスッと笑い、ウルの角をつかんだ。
「ごめんごめん。それもそうだったね」
『さっきから堪らん匂いがして、余計に腹が空いていた』
そんなやりとりをしつつも、残り僅かとなった焼き魚を配っている男へと歩みを進める一人と一匹。
「お嬢ちゃんがせっせと仕事をしてんのを見てたからよ、デケェのを残しておいたからな!」
「ありがとう。わぁ、これは大きい。それにしても随分と大漁だったね。さっき採ったばかりなんでしょ?」
コロが男から受け取った二匹分の焼き魚。
串に刺さった白身魚は、パリッと黄金色に焼き上がった皮目に美しい焦げ目がつき、内側からジュワジュワと溢れ出す脂が、暴力的なまでに食欲をそそる音を立てている。
「ああ!ちょうど運よく魚の群れの真下に網を投げ込めたみたいでな!腕の立つ漁師並の大漁だったぜ!」
「へえ、私たちも良い船に乗れたもんだね」
「おかわりはねえけどよ、また早朝に網を降ろす予定だから楽しみにしといてくれや!」
そんな朗報に、コロの隣に大人しく座っていたウルがゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ほら、私たちの分」
先程まで座り込んでいた甲板の隅に腰を下ろした一人と一匹。
ウルの前に串を外した焼き魚を皿の上に置き、コロが口を開け、自分の分の焼き魚にかぶりつこうとした、その瞬間だった。
「炭火、堪らないね。さてさて――」
『待て』
ピクッ、とウルの耳が動き、その鼻先が魚へと近づけられた。
スンスン、と何度か匂いを嗅いだウルの喉の奥から、微かに警戒するような低い唸り声が漏れる。
周囲ののどかな空気を一変させるような、魔狼としての鋭い本能の警鐘だった。
『……これは、お前は食わん方がいい』
「え?そうなの?」
ウルのただならぬ気配に、コロはピタリと動きを止め、素直に魚を串ごと皿に戻した。
「傷んでる?それとも、誰かが毒でも盛ったかな」
『いや。匂いも見た目も普通だ。だが、これは人類がどうこうする類の細工ではないな』
「人類がどうこうできない……じゃあ、魔物?」
『だな。何らかの良からぬ細工が施されている』
ウルはそう言うと、コロが皿に戻した魚までまとめて咥え込み、骨ごとバリバリと音を立てて呑み込んでしまった。
「あ、ウルは食べちゃうんだ」
『フン。こんな小細工、俺には何の影響もない。ただの焼き魚だ』
そう言って、器用にコロの分の焼き魚に刺さっていた串だけをプッと皿に吐き出したウル。
コロは肩を竦めて、斜めがけのカバンに手を突っ込んだ。
「ズルいな。私は干し肉とナッツでも食べるかな」
アッシュウルフの強靭な消化器官を前にしては、いかなる細工も無意味らしい。
コロが空っぽになった皿を見て小さく肩をすくめた、その時だった。
「――ぁ、あ゛、ア゛アァァァッ!!」
突如として、甲板の反対側から男の奇声が上がった。
それを皮切りに、先ほどまで満腹で微睡んでいた乗客や船乗りたちが、一様に虚ろな表情を浮かべ、ピクピクと痙攣するように首を傾げ始めたのだ。
「あはは……海だぁ、母なる海が、呼んでるぅ……っ」
「ア゛アアァァッ!!ヒィィィッ!!」
「かえらきゃっ!うみにぃ……がぁえらなぎゃぁぁぁっ!!」
ある者は焦点の合わない白濁した瞳で不気味に笑い、ある者は自らの顔から血が滲むほど掻き毟りながら恐怖に泣き叫び、ある者は口からボロボロと泡を吹きながら、虚空に向かって意味不明な言葉を呟いている。
彼らの視線はただ一点、船縁の向こう側に広がる、底知れぬ深い群青の海へと縫い付けられていた。
「おー……なるほどね」
『呑気に齧り付いていたら、お前も今頃、同じ事をして海に飛び込んでいたぞ』
「ウルさまさまだよ」
一人と一匹が、いつものように淡々と言葉を交わした直後。
――ザパーーーンッ!!
一人の船乗りが、まるで何かに引き寄せられるかのように、甲板から海へと勢いよく飛び込んだ。
続いて商人、他の船乗り、乗客たちが、次々と狂ったように柵を乗り越え、自ら海へと身を投じていく。
――バシャァッ!バシャバシャッ!
海面に無数の水柱が上がる。
飛び込んだ彼らは海水を飲んで苦しむ様子も、立ち泳ぎで浮かび上がろうとする素振りすら見せない。
その足元には、太陽の光が決して届かない真っ黒な海中から、青白い無数の『這い寄る影』がぬるりと群がり……狂人に成り果てた乗客たちを、一つ、また一つと、光の届かない深い深い海底へと引きずり込んでいった。
「あの魚は撒き餌だったって訳だ」
『そういうことだな』
「どうも引っかかってはいたんだよ。本来なら深い岩礁に隠れているはずの回遊魚でもないムギワラウオが、こんな真昼間、こんな好天の海面近くで大漁なんて、凄いこともあるもんだって」
『ふむ、だから受け取る時に聞いていたのか』
「うん。やっぱそんな『凄いこと』なんて無いってことだね。魚もそこまで馬鹿じゃないもんね」
狂乱の残した生温かい空気と、食い散らかされた魚の骨だけが転がる甲板。
コロは硬い干し肉をかじりながら、事も無げにそう呟いた。
ものの数分。
あれだけ賑やかだった甲板からは、コロとウルを除いて、一切の人影が消え失せてしまった。
波の音と、微かな血の匂いだけが残された凄惨な光景。
――バシャァッ!!
直後、静まり返った船の側面に立てられた水しぶきと共に、何体かの『何か』が甲板へとぴょんと飛び乗ってきた。
陽光に照らされてギラギラと七色に反射する分厚い鱗。
水掻きのついた指先からは、先ほどまで甲板にいた乗客たちのものと思われる赤黒い血が、ポタポタと滴り落ちている。
下半身は美しい魚の鱗に覆われ、上半身は濡れた髪を肌に張り付かせた、妖艶で残酷な美しさを持つ人類の姿。
海を支配し、人類を水底へと引きずり込む魔物――マーメイドの群れだった。
血の滴る唇を舐めながら甲板を見渡したマーメイドたちは、コロの足元に鎮座するウルを捉えると、少しだけ目を丸くして首を傾げた。
『あら。人類の船にまさか、魔狼の上位種が乗っているなんてね』
『ごめんなさいね。知らなかったとはいえ、お食事の邪魔をしちゃったかしら?』
彼女たちの態度に、微塵の恐怖も卑屈さもない。
ここは海。
彼女たちにとっての絶対的なテリトリーであり、群れでの連携に絶対の自信を持つ彼女たちにとって、陸の上位種は警戒すべき相手であっても、無条件に平伏す相手ではないようだ。
対するウルもまた、ただ退屈そうに鼻を鳴らすだけだった。
足場の悪い海上で、海を根城とする彼女たちの群れと好戦的にやり合うなど、合理的判断から外れている。
互いに実力を理解しているからこその、日頃顔を突き合わせない類の魔物同士の不干渉のサインだった。
「お昼ご飯の邪魔はされてないんだけど……困ったね」
コロは血の滴る甲板を眺めながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「皆いなくなっちゃった。こんな大きな船、私ひとりじゃ動かせないんだけどね」
『あなたは不思議な人類ね。人類の見た目をしているのに、そっちの魔狼と同じ匂いがするわ』
「わかりやすく言うとね、人類の器を借りているだけで、この子と同族なんだ」
『不思議なこともあるのね。ふうん……』
そう言いつつ、不思議そうにピチピチと跳ねながら一人と一匹に近寄ってくるマーメイドたち。
彼女たちは品定めをするようにコロの周囲をぐるりと回ると、その鼻先をコロの首筋に近づけ、スンスンと匂いを嗅いだ。
『……本当。薄皮一枚の下には、そこの恐ろしい魔狼の彼と同じ、濃密な魔物の血の匂いがする。ふふっ、これじゃあ海に引きずり込んでも美味しくいただけないわね』
『それにしてもごめんなさいね。お詫びと言ってはなんだけれど、私たちが向こうの島まで運んであげるわ』
マーメイドの一人が優雅に微笑みながらそう申し出ると、コロは「それは助かるよ」と素直に頷いた。
数体のマーメイドたちが連携し、コロは数体のマーメイドたちに担ぎ上げられる。
ウルに関しては、会場で待ち構えていた数体のマーメイドたちに向かって甲板から跳躍し、誘導されるままに、マーメイドたちの元へ着地する。
人類を海に引きずり込むための強靭な腕力と、抜群のチームワーク。
彼女たちは海面を滑るように進み、二人を『絶対に濡らさないための神輿』のように、見事に運び続けた。
ザザザーーッ!と、まるで帆に強風を受けた高速船にでも乗っているかのような、凄まじい水しぶきが上がる。
何体ものマーメイドたちが幾何学的な陣形を組み、強靭な尾びれで力強く海水を蹴立てて進む。
彼女たちの細腕のどこにそんな力が隠されているのか、巨大なウルの体重を支えながらも、そのスピードは一切落ちることがなかった。
海風がコロの銀色の髪や狼の耳を激しく揺らす。
周囲を見渡せば、太陽が徐々に西へと傾き始め、徐々にオレンジ色に染まりゆく空と、どこまでも広がる群青の海が美しいコントラストを描いていた。
海面を滑るように進むこと数時間。
目的の島であった岩肌の切り立った岸壁に、一人と一匹は無事に下ろされた。
そこは正規の港から遠く離れた、荒々しい波が打ち付ける自然の防波堤だ。
約束通り、コロの靴の先も、ウルの毛先も、一滴の海水に濡れることもなく、船で向かうよりも圧倒的に早く到着してしまった。
「ありがとう。本当に助かったよ」
『いいのよ。あ、そういえば……さっきの人類の船はどうするの?』
帰り際にふと尋ねてきたマーメイドに、コロは背中のリュックサックを直しながらケロッとした顔で振り返った。
「あー、あの船?放っておけば、勝手にどっかに行くんじゃない?もう誰も乗ってないしね」
『ふふふ、それもそうね。じゃあ、良い旅を』
コロの言葉にマーメイドたちはコロコロと楽しげに笑うと、ザパンッ、という水音とともに、海中へと姿を消していった。
「想像以上に強靭だったし、想像以上に早く着いたね」
『だな』
「彼女たちが友好的な魔物で良かったよ」
『だな。海の中でアイツらに勝てる気はせんな』
「海の中で黒雷なんて放ったら、ウルまでビリビリしちゃうよ」
『フン。陸では負けんがな』
「ははは、彼女たちだって『海では負けないわ』って言うよ」
『くだらん。ほれ、夜が来る前に移動するぞ』
「だね」
一人と一匹は、ただの「便利な海上の馬車」を見送ったかのような顔で、目の前に広がる新たな島の景色へと向き直るのだった。
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