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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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殻を破る音色と、恋に落ちた作曲家 4 〜最高傑作の旋律と、全てを懸けた愛の告白〜

4.


すっかり日の落ちた、村の小さな宿屋の一室。


備え付けられた粗末な木製の机の上で、ポツンと置かれたランタンの灯りが、オレンジ色の温かい光を揺らしていた。

窓の外からは夜風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く秋虫の声が微かに聞こえてくるだけの、静寂に包まれた夜。


その部屋の中で、エドワード・ハスウェルは一人、机に向かっていた。


いつもなら「ああでもない」「こうでもない」と大声を上げ、ボサボサの頭をさらに掻き毟りながら、狂ったように五線譜を書き直しているはずの彼が、今夜は全く違った。

一切の狂騒はなく、ただ静かに、淡々と。

まるで己の命を削ってインクに変えているかのような凄まじい集中力で、彼は真っ白な五線譜に向かって羽ペンを走らせていた。


――カリ、カリ、カリ……


部屋に響くのは、迷いのない羽ペンの音と、エドワードの静かで規則的な呼吸音だけ。

そして彼のすぐ手前、机の端に置かれた小さな空き瓶には、鈍色に輝く美しく鋭い『一枚の羽根』が大切そうに挿されていた。

それは、セリアが身だしなみを整えていた際に抜け落ちたものを、彼が「インスピレーションの源にしたい」と乞うて譲り受けたものだった。


エドワードの目は、もはや予定調和の音符など追っていなかった。

その瞳の奥に映っているのは、空を舞う美しいハルピュイアの姿と、彼女と奏でた魂のセッションの記憶だけ。

声を掛けることすら躊躇われるような、あまりにも神聖で、迫真に迫る後ろ姿だった。


「…………」

『…………』


開け放たれたドアの隙間から、そんな彼の背中を静かに見守っている影があった。


コロとウル、そして護衛の騎士だ。


いつもなら『うるさい阿呆だ』と呆れ顔で見下ろしていたはずのウルが、今はどこか感心したように耳をピンと立て、ポツリと低い喉を鳴らした。


『……どうやら、ただ騒がしいだけの阿呆ではなかったようだな』

「そうだね。私が余計なことを言っちゃったからかな」

『ん、何か言ったのか?ああ、あれか……』

「うん。前に作った曲とさ、ここ最近作った曲と、なんで手応えが全然違うのかね、ちょっと考えてみなよって。闇雲に作ってたんじゃ、それこそ『音楽を作り続ける魔導具』じゃないのってね。多分それじゃないかな」


ケロッとそう説明したコロに、騎士は小さく肩をすくめながら壁に寄りかかった。


「先生もお貴族様だからな。色恋沙汰に関してはその辺の平民のクソガキよりド素人な先生でも、ようやっと自分の心に気がついた……ってとこか」

『……あいつも、一つの道を究めようとする『職人』だったというわけか』

「そうだね。今までの先生とは、全然違うや」


コロもウルの言葉に同意し、静かに頷く。

そんな一人と一匹の横で、腕を組んで壁に寄りかかっていた騎士が、小さく息を吐き出して口を開いた。


「俺は、音楽にはこれっぽっちも興味はないし、造詣も浅い。剣を振ることしか知らない無骨者だが……」


騎士は、ランタンの光に照らされるエドワードの背中を、どこか誇らしげに見つめる。


「それでも分かる。あのハルピュイアのセリアに出会ってから先生が生み出した曲たちは、王都の劇場で聞かされていた、それまでの退屈でクソつまらん曲よりは……よっぽど心に響く、本物の『聴き応え』を感じた」

『フン。まぁ、少しはマシな音になったな。認めざるを得ん』

「そうだね。明日の曲、ちょっとだけ楽しみかも」


背後で交わされる、彼らなりの最大級の賛辞。

視線をエドワードから、壁に寄りかかっている騎士に向けたコロ。


「でもさ、先生は貴族なんでしょ?」

「ん、ああ。ラウワン王国のハスウェル伯爵家だ。三男坊だから家督を継ぐことはないが、ガキの頃から音楽の才能は突出してたらしい」

「どっち道、叶わぬ恋ってやつだ」

「あれだけの美声を持っているならば、どうだうな。先生はラウアン王国では屈指の人気を誇る音楽家だからな。俺のような荒事ばかりの男ですら知っているくらいだから……いや、美声も何も、そもそも相手がハルピュイアだったな」


苦笑いを浮かべ、頬をポリポリとかく騎士。

コロは「ふぅん」と言いながら、再びエドワードの背中を見つめる。


しかし、そんなやりとりはエドワードの耳には一切届いていなかった。


――カリ、カリ、カリ……


彼はただひたすらに、己の魂と向き合い、五線譜に刻み込み続けていた。

明日、彼女の元へ届ける『最高傑作』を完成させるために。




そして翌日。


いつもの森の奥の開けた場所で、エドワードは静かにアコーディオンを構えていた。


無精髭が若干伸びていて、目の下には真っ黒な隈ができている。

しかし、その瞳だけは今までにないほど澄み切った光を宿していた。


切り株に腰掛けたセリアが、小鳥のように首を傾げて彼を見つめている。


「……セリア。聞いてくれ」

「なあに?今日もなんだか、ひどい顔をしているわね」

「私はようやく分かったんだ。……私の曲に、一体何が足りなかったのかが」

「あら、そうなの?ふふ、何が足りなかったのかしら」


エドワードは自嘲するように、しかし晴れやかな声で語り始めた。


「とても簡単な事だった。『魂』だ」

「魂?」

「ああ。ここに来るまでに作った私の曲には、全くと言っていいほど、魂というものが籠もっていなかった。いや、その込め方すらも、私には分かっていなかったんだ。……手応えの差。その魂の込め方……それは嘗ての私には難しかったが、今となってはとても簡単なこと。それは――」

「それは?」

「それは……私の心の中に、『セリア』、君が居たか、居なかったか。ただそれだけのことだったんだ」

「私が……?」


セリアが小さく首をかしげる。

そんなセリアの後ろでは、コロとウル、そして騎士はジッとエドワードの様子を見守っている。

エドワードの瞳はただ一人、セリアだけを映していた。


「王都の民衆は、空虚で耳障りの良い曲たちを手放しで称賛し、受け入れた。そのせいで私の目はすっかり曇り、予定調和の音符を並べるだけの魔導具になり下がっていた。……だが、私は君という一人のハルピュイアに出会い……恋をした」


真っ直ぐな、一片の嘘もない告白。

その言葉に、セリアの瞳がわずかに見開かれた。


背後で話を聞いていた騎士が、ゴクリと息を呑む音が聞こえる。


「セリア。私に魂を与えてくれた、私の女神。……どうか聞いてほしい。君のためだけに創り上げた、私の最高傑作を」


言葉もなく、小さく頷くセリアの様子を見ていたエドワードが、ゆっくりと目を閉じ、震える手で蛇腹を引き伸ばす。


魔の森の静寂を打ち破るように、彼が命を削って生み出した旋律が響き渡り始めた。




――それは、ひどく物悲しく、儚いメロディからの幕開けだった。


序盤はまるで冷たい雨に打たれているかのような、孤独で静かな旋律。

その中には、あえて耳障りな『不協和音』が幾つも混ざり込んでいた。

それは間違いなく、安全な鳥籠の中で息を詰まらせていた彼自身の苦悩と、絶望の表現だった。


しかし、曲調は突如として転調する。


不協和音が完璧な調和へと軌道修正された瞬間、視界が一気に開けるような明るさと、燃え上がるような情熱的なメロディが森を駆け抜けたのだ。


激しく、楽しげに弾む鍵盤の音色。

それはセリアという『風』に出会い、音楽の喜びを取り戻した歓喜の爆発そのものだった。


「あっ……」


セリアの唇から、小さく吐息が漏れる。


彼女は堪えきれなくなったように空へ舞い上がると、その愛と情熱の旋律を優しく包み込むように、今までで一番美しいハミングを響かせた。


エドワードのアコーディオンと、セリアの歌声。


二つの魂が完全に共鳴し、鬱蒼とした森に極上の爽快感と幸福な音が満ち溢れていく。


だが、曲の終盤。


燃え上がっていた熱狂が嘘だったかのように、旋律は再び静かで、ひどく物悲しい音色へと帰着していった。


情熱の余韻を残しながらも、どこか諦念を含んだような、儚くて切ないアウトロ。

それは、どれだけ心が通じ合おうとも決して結ばれることのない『種族の壁』への理解か、あるいは、この奇跡のような時間が一瞬で過ぎ去ってしまうことへの哀愁か。


――プァァン……


最後に残されたひとつの切ない和音が、夕暮れの空へと溶け、やがて森に静寂が戻った。


エドワードは肩で息をしながら、空に浮かぶセリアを見つめている。

セリアの冷たい魔物の瞳からは、ポロリ、ポロリと、大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「……とても、とても美しい曲だったわ、エドワード」

「ありがとう、セリア。君のために作ったんだ」


エドワードは静かに微笑み、アコーディオンを下ろした。

しかし、セリアはどこか悲しげに首を横に振る。


「嬉しい。……嬉しいけれど、忘れないで。私は人類のオスを歌で誑かし、その命を喰らう魔物なのよ。あなたも、私の獲物の一人に過ぎないの」


それは彼女なりの、精一杯の強がりであり、彼を突き放すための嘘だった。

しかし、エドワードは微塵も揺らがなかった。


「獲物で構わない。いや、すでに私は君に完全に誑かされているよ。……君という、この世で最も美しく、気高い魂を持った女性にね」

「エドワード……っ」

「私は君を愛している」

「それ以上は言わないで……!」

「いいや、言わせてくれ。残りの人生の全てを懸けて、君と伴に生きたい」


熱烈で、一片の嘘もない真っ直ぐな愛の告白。

セリアの瞳が激しく揺れ動く。しかし、彼女が再び拒絶の言葉を紡ごうとした、その時だった。


「まぁ、この大陸では専ら『人類を誑かす魔物』ってことになってるけどさ」


傍らで薬草を袋に詰めていたコロが、顔も上げずに淡々と口を開いた。

一同の視線が一気にコロに集まる。

ウルもまさかコロが口を挟むと思っていなかったのか、口をぽかんと開けて相棒へ視線を向けていた。

しかし、手元に視線を向けたまま、コロは言葉を続けた。


「この大陸のハルピュイアであるセリアは魔物のつもりだろうから知らないと思うけどね、別の大陸の特定の地方ではね、音楽をこよなく愛するハルピュイアは『ハーピー』っていう種族の名前で呼ばれていて、亜人として普通に人類の街で暮らしているんだよ。知ってた?」

「えっ……?」


コロの予期せぬ補足に、セリアが目を丸くする。


「勿論、歌で食べているハーピーもいれば、ちょっとした荷物を届ける仕事を生業としているハーピーもいる。傭兵としての腕っぷしなんてさ、その辺の人類より圧倒的だよ。当たり前だよね。詠唱無しで魔法が使えるうえに、空を飛べるんだから」


すると、エドワードが深く頷き、力強く言葉を引き継いだ。


「ああ、そうだ!私もそういう文化を持つ土地があると聞いたことがある!海を隔てた別の大陸では、彼女たちは優れた歌唱力を持つ芸術の徒として、人類と共存し、当たり前のことように愛し合っていると!」

「でも、ここは……この国では、私はただの魔物よ……!」

「ならば、常識の方を変えればいいだけだ!」


エドワードは一歩、セリアへと歩み寄り、彼女の翼を両手でしっかりと握りしめた。


「たしかに、私には剣も魔法の才能もない。腕っ節の力では、恐ろしい魔物たちから君を守ることは到底できないだろう。……しかし!私のラウワン王国の名門ハスウェル伯爵家としての地位と、音楽家エドワード・ハスウェルとしての名誉や財力、そのすべてを懸ければ!この社会の不条理から君を守り抜くことは、他のどの騎士よりも、他のどの貴族よりもできると約束しよう!」


その言葉に、背後で控えていた騎士が雷に打たれたように目を見開いた。


彼は知っている。

貴族がその地位と名誉を懸けるということが、どれほどの覚悟と重みを持つのかを。


「エドワード……」

「私の奏でる音色に、君の女神のような歌声が重なる。……私は君と出逢ってから、誰よりも幸せだと言い切れる!」


セリアの瞳から、再びポロリと涙がこぼれ落ちた。

だが、彼女は最後の抵抗とばかりに、魔物としての冷たい瞳を作って彼を睨みつけた。


「……バカね。いつかは他のハルピュイアに食べられるかもしれないし……私自身が、ある日突然、本能に負けてあなたを食べてしまうかもしれないのよ?」

「それは怖い。ああ、包み隠さず言えば、とてつもなく怖い」

「なら……!」

「だがしかし!君という運命に見て見ぬふりを決め、また泥沼を這うような、退屈で物足りない音楽しか生み出せなくなる日々に帰るのと比べたら……君の傍で全力で生きて、全力で魂の籠もった曲を生み出し、そして死んだ方がいいに決まっている!比べるまでもない!」


エドワードの放った圧倒的な芸術家の「業」と、一人の男としての完璧な覚悟。

その熱烈な叫びに、騎士はついに説得の言葉を失い、剣の柄から完全に手を離した。


『……真性の狂人だが、見事だな』


ウルも呆れ半分、感心半分で目を細めてそう呟いた。


沈黙が落ちた。

セリアは呆然とエドワードを見つめていたが、やがて、堪えきれないといった様子で吹き出した。


「……ふふっ、あははははっ!本当に、大馬鹿な人類のオスね!」


彼女は泣き笑いのような表情で、その鋭い鉤爪のある腕で、エドワードの首に勢いよく抱きついた。


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