殻を破る音色と、恋に落ちた作曲家 3 〜不協和音の教えと、見失った魂の行方〜
3.
それから数日間。
奇妙な一行は、毎日欠かさず森の奥深くへと通い詰めた。
コロが淡々と希少な薬草を採取し、ウルと騎士が暇つぶしの高度な手合わせを繰り広げる中、エドワードは寝食も忘れてアコーディオンを弾き続け、そして、羽ペン片手に五線譜に向かい続けた。
森のどこへ行こうとも、異様に目立つエドワードのアコーディオンの音色を聞きつけたハルピュイアのセリア。
毎日欠かさず空からふわりと舞い降りては、彼の傍らで楽しそうに歌い、踊っていた。
木漏れ日が差し込む森の空き地には、音符がびっしりと書き込まれ、くしゃくしゃに丸められた羊皮紙がいくつも散乱している。
「……ストップ、ストップだ。セリア、今のは少し違う」
「あら、違う?」
アコーディオンの演奏を止め、エドワードが真剣な眼差しのまま、確認するように静かにアコーディオンを弾いてみせた。
「ここの旋律、君のハミングが少し急ぎすぎていた。もっとこう、風に身を委ねるように……」
「そう言われても、エドワード。あそこのリズムのままだと、少し息継ぎが窮屈なの」
セリアもまた、ただの人類を誑かす魔物としてではなく、一人の表現者として忌憚のない意見をぶつけていた。
「寧ろあれよ。こう、少しだけタメを作って、テンポを遅らせてくれる?そうしてくれた方が、私ももっと気持ちよく、高く歌いやすくなるかもしれないわ」
「……タメを作る?ここで、あえてリズムを崩すのか?」
「ええ。人類の歌い手たちがどう歌うかは知らないけれど、私の翼には、少し窮屈なの」
その言葉に、エドワードはハッと目を見開いた後、歓喜に満ちた笑い声を上げた。
「ははっ……なるほど!その通りだ!どれ、ちょっとやってみる!」
まるで新しい玩具を与えられた子供のように、エドワードは目を輝かせてアコーディオンを演奏してみせる。
セリアと視線を交えたまま、お互いに満面の笑みを浮かべて頷き合っている。
「そうそう!そっちの方が私は好きよ」
「これは良い!素晴らしいじゃないか!斬新でゾクゾクしたぞ!」
「ふふ!そうね!」
「王都の歌手たちは皆、私の書いた退屈な譜面にただ従うだけだった!だが、生きた音楽には、君の言う『風』が必要なんだ!」
嬉々として羽ペンを走らせ、譜面を修正していくエドワード。
そして彼は、修正したばかりの旋律を弾き始め、その途中でわざと耳障りな『不協和音』を強く鳴らした。
――ジャアァァン……
「……ひどい音ね。なんだか胸がざわざわして、羽が逆立ちそうになるわ」
セリアが不快そうに眉をひそめると、エドワードはアコーディオンを抱えたまま、音楽家としての熱を帯びた瞳で彼女を見つめ返した。
「ふふ、恐れてはいけないよ、セリア。それが狙いなんだ」
「まあ!知っててわざとやるのね」
「ははは!不協和音は、たしかに聴く者に不安や不快感を与える。……しかしだね」
彼は蛇腹を静かに引き伸ばし、先ほどの不協和音から、完璧な調和を保った美しい和音へと見事に旋律を着地させてみせた。
「そこから軌道修正し、調和へと導いた先に待っているのは……『浄化による極上の爽快感』なんだ。影が濃いほど、光が眩しく感じるようにね」
「浄化による、爽快感……」
「ああ。軌道修正した音色を耳にしたとき、ホッとしなかったか?恐れずにぶつかり、不協和音を受け入れた者だけが辿り着ける、至高の領域さ」
「なるほど……!凄いわ、エドワード!」
エドワードの熱烈な言葉に、セリアの冷たい魔物の瞳に、はっきりとした熱と愛着の色が灯るのが分かった。
彼らはもう、ただの「誑かす魔物」と「愚かな人類」ではなかった。魂の底から共鳴し合う、たった二人の音楽家だった。
熱を帯びたセッションが一段落し、木陰で短い休息を取っていた時のことだった。
エドワードは水筒の水を呷りながら、切り株で翼を休めてハミングで歌うセリアの美しい横顔を、どこか眩しそうに見つめていた。
「そんなに熱っぽく見つめて、ふふ、どうしたの?」
エドワードの視線に気がついたセリアが、いたずらっぽく微笑む。
しかしエドワードは苦笑いを浮かべたままだ。
「……王都での私は、まるで純金でできた、趣味の悪い鳥籠の中にいるようだったよ……」
ぽつり、と。
エドワードが自嘲気味にこぼした。
首をかしげるセリアの翼を見つめたまま、エドワードは言葉を継いだ。
「誰にも批判されない安全な場所で、お行儀の良い、決まりきった、型にはまった歌を囀るだけの……本当の空の広さも、嵐の恐ろしさも、何も知らない小鳥だった。だから、こんな空の果てまで自由に飛んでいける君の翼が、私にはたまらなく羨ましい」
その言葉に、セリアは少しだけ呆れたように、ふふっと笑った。
「自由?……そうね、人類の貴族様にはそう見えるのかもしれないわね」
「違うのか……?」
「ふふ、それはそうよ。この森の空はね、いつ別の恐ろしい魔物に喉を食いちぎられるか分からない、とっても冷たくて殺伐とした場所なのよ。自由の代償は、常に明日の命も分からないことなの」
「ま、私は腕が立つほうだけど」と、クスッと笑いながら、さらりと残酷な日常を語るセリア。
エドワードはハッとして、彼女の美しい翼や透き通るような肌に、小さな傷跡がいくつも刻まれていることに初めて気がついた。
それは、彼女が「音楽を完成させるための都合の良い女神」などではなく、この過酷な世界を必死に生き抜いている、一つの気高い魂である証だった。
「……そうか。君も、もがきながら必死に生きているんだな。私の悩みの何とちっぽけなことか……」
エドワードの声から、先ほどまでの芸術家としての狂気がスッと抜け落ちる。
代わりに彼の瞳に宿ったのは、一人の女性に対する、どうしようもなく深く、純粋な慈しみの色だった。
「私はね、あなたの悩みがちっぽけだとは思わないわ」
「そんなことはない。私は命を脅かされることのない、安全な鳥籠の中に――」
「でも、あなたは音楽に対して、もがき苦しみながら、必死で向き合っている。それは妥協してしまえば、抱える必要のない苦悩よ」
「そうかな……」
「ええ。安全な鳥籠の中で、ただお行儀よく囀るだけの楽な生き方を拒んだんでしょう?自分の誇りを、魂を、死なせないために、必死にもがいて翼を広げようとするあなたの姿は……今の私には、とても誇り高く映るわ」
いたずらっぽさはどこかに行ってしまい、代わりに穏やかで優しい微笑みを浮かべたセリア。
惚けたような顔をしたエドワードは、セリアの目をジッと見つめていた。
少し離れた場所で、そんな二人の様子を眺めながら、コロは淡々と薬草を摘み続けている。
「ねえ、ウル。騎士さん」
「ん、なんだいお嬢ちゃん」
「先生、アコーディオンを弾いてない時も……ずっとセリアのこと、目で追うようになったね」
「…………はぁ」
コロの平熱な指摘に、背後に立っていた騎士が深々と、ひどく疲れたようなため息を吐き出した。
「護衛任務の契約書には、道中の命の保証は明記されているが……流石に、ハスウェル先生の色恋沙汰の面倒までは範疇外だぞ」
『フン。己の命を天秤にかけてまで、ハルピュイアに発情するとはな。救いようのない阿呆だ』
地面に伏せって丸くなっていた姿勢のまま、ウルがそう吐き捨てる。
そして、尻尾がバフンと地面を叩いた。
「いや、魔狼殿の言う通りなんだがな……。しかし、相手が魔物、しかもハルピュイアとは。……まぁ、今まで安全な鳥籠の中しか知らなかった世間知らずのお貴族様だ。初めて本気で恋した相手が、鳥籠の外を自由に飛び回る美しいハルピュイアとなれば……やむ無し、か」
半ばヤケクソ気味に、しかしどこか妙な説得力を持って吐き捨てた騎士の言葉にコロとウルは顔を見合わせ、スッと腑に落ちたような顔をした。
『……なるほど。理にかなっているな。無知ゆえの暴走か』
「そうだね。騎士さんの言う通りだ。納得しちゃったよ」
「納得してほしくはなかったんだがな……頭が痛い……」
もはや言い逃れのできないエドワードの「恋心」を突きつけられ、騎士はこめかみを押さえてしゃがみ込んでしまった。
コロはそんな騎士の背中を、慰めるようにポンポンと軽く叩く。
また別の日。
狂ったようなセッションの合間の、ふとした静寂の時間。
セリアが切り株に座り、自らの美しい翼を指先で丁寧に梳いていた時のことだ。
エドワードはふと、彼女の翼の端にある、一枚の羽根が僅かに折れ曲がり、土と血の跡のようなもので汚れているのを見つけた。
「なぁ、セリア」
「ん、なぁに?」
「そこ……痛まないのか?」
「え?ああ、これ?」
折れ曲がった羽根が見やすいように、腕をクイッと上げてみせるセリア。
「だ、大丈夫なのか……?」
「ふふ、心配してくれるのね。これは、数日前に縄張りを荒らしに来た大蝙蝠とやり合った時の名残。痛くはないけれど、少し風の乗り具合が悪くなるの」
気に留める風でもなく言うセリアに対し、エドワードはそっと手を伸ばした。
「少し、触らせてもらってもいいかな。いや、レディの身体に触れていいかなんて……」
「私の羽は、刃物みたいに鋭いわよ?王都の貴族様の、その白くて綺麗な指先がスパッと切れちゃうかもしれないわ」
いたずらっぽくクスッと微笑むセリアだったが、エドワードは穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「構わないよ。それに、今の私の指先は、君が言うほど綺麗じゃない」
エドワードは優しく、ひどく慎重な手つきで、汚れた羽根に触れた。
そして、懐から清潔なハンカチを取り出し、そっと汚れを拭う。
そして折れ曲がった羽の筋を、大切な楽器のメンテナンスをするかのような繊細さで撫でて、丁寧に整えていく。
人類のオスに背後を取られ、翼というハルピュイアの急所を触らせる。
それは彼女の生態からすればあり得ないほどの無防備な状態だったが、セリアは不思議と抵抗する気が起きなかったようだ。
寧ろ、エドワードの不器用で優しい手つきが、ひどく心地よかったのか、気持ち良さそうに目を閉じている。
やがて手入れを終えると、セリアは振り返り、今度はエドワードの手をジッと見つめた。
彼の指先は、連日の狂ったような演奏と、徹夜の作曲でペンを握り続けたせいでマメが潰れ、インクで黒く汚れ、ひどく荒れ果てていた。
「……本当に、綺麗じゃないわね。ボロボロじゃないの」
「ははは、お恥ずかしい。でも、私にとっては誇り高い勲章のつもりだよ」
セリアはそっと、自身の人を容易く引き裂く鋭い鉤爪を、エドワードのボロボロの指先に這わせた。
薄皮一枚すら傷つけない、羽毛で撫でるような、極限まで優しく繊細なタッチ。
「……痛くないの?」
「ああ。寧ろ、君の鉤爪の冷たさが、火照った指に心地いいくらいだ」
種族も、生きる世界も全く違う二人。
人類の柔らかな指が魔物の鋭い翼を労わり、魔物の恐ろしい鉤爪が人類の傷ついた指先を慈しむ。
言葉による対話以上に、雄弁で、決定的な『触れ合い』だった。
エドワードはセリアのキラキラと美しく瞬く瞳を見つめ、セリアもまた、エドワードの澄み切った瞳から目を逸らさなかった。
「……先生とセリアの世界に入り込む余地はないね」
「ああ。魔物と人間という関係性だってことを忘れている時がある……」
『フン。見せつけおってからに。さっさと交尾でもなんでもしてしまえ』
「こ、こらっ!魔狼殿!一応、お嬢ちゃんもいるんだから言葉を選んでくれ!」
「私は平気だよ。生き物の営みだし」
「私が平気じゃないんだ!」
少し離れた場所で、騎士とコロ、そしてウルがヒソヒソと囁き合っていた。
そんな無粋なヒソヒソも、二人の世界には全く届かない。
それから再びセッションが再開されたが、エドワードの様子はどこか焦っているようだった。
二人の息が完璧に合った演奏が終わるたび、彼は五線譜を前に、掻き毟るようにして頭を抱えるのだ。
「……まだだ。この曲も、これまでの私の曲に比べれば満足感は遥かに高い。しかし、この曲の『向こう側』が、まだあると思えてしまうんだ……」
「それでも、あなたの曲は輝いているわ」
「違うんだ……!ここじゃない。ここはまだ、道の途中なんだ……!こんな曲は終着点とは程遠い筈だ……」
決して妥協を許さない、所謂『芸術家の業』というやつだ。
しかし、彼が本当に悩んでいるのは「曲の完成度」なのか、それとも「セリアへの溢れ出す感情をどう音にすればいいのか分からない」からなのか。
一度や二度、それどころか昨日や今日だけではない。
ここ数十日、昼も夜も同じような苦悩を延々と見せられ続け、いい加減ウンザリしてきたコロ。
採取している薬草の束を麻袋に詰めながら適当に言い放つ。
「……あのさ、先生」
「ん、なんだ?コロ……」
「今までの『王都で作ってた曲』とね、『最近ここで作った曲』と、なんでその手応えとやらに差が出るのか、一回冷静に考えてみなよ」
「手応えに……差が出る、理由……?」
羽ペンを持つ手がピタリと止まる。
「そう。原因が分かれば、これからどうすればいいのか分かるんだし、向こう側とやらにも行きやすくなるんじゃないの?知らないけど……。今みたいに、闇雲に曲をホイホイ作っていたんじゃ、それこそ先生が言ってた『音楽を作り続ける魔導具』に見えるけどね」
『ズバッと言ったな』
「だって……まぁ、ねえ?」
コロの痛烈な一言に、エドワードは雷に打たれたように固まった。
そしてその日は、アコーディオンを抱えたまま、一言も発することなく大人しくすごすごと村へと引き返していった。
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