大波の予兆と、山上の捕食者たち 2 〜先祖の教えと、過去を忘れた群れ〜
2.
――ダンッッッ!!
鬱蒼とした広葉樹の森が広がる山の中腹。
巨木から伸びる太い枝の上に、凄まじい跳躍を連続させたウルが音もなく着地した。
「……うん、ここまでくれば流石に波も届かないね」
ウルの背から降りたコロは、眼下に広がる光景を見下ろして静かに息を吐いた。
先ほどまで活気に満ちていた港町は、もはや見る影もなかった。
地平線を埋め尽くすほどの異常な質量の水――常軌を逸した高さの『黒い壁』が、町を丸ごと飲み込もうとしている真っ最中だった。
ゴォォォォォォッという、大地の底から響くような波の破砕音が山の上までビリビリと伝わってくる。
重厚な石造りの建物がまるで薄い木箱のようにへし折られ、逃げ遅れた無数の人々が、抗う術もなく黒い渦の中へと消えていく。
それは、大自然がもたらす圧倒的で無慈悲な蹂躙だった。
しかし、コロとウルが降り立ったこの山の斜面には、眼下のパニックとは対照的な、異様で冷え切った静寂が漂っていた。
「目測通り。やっぱり山のあの辺りが境目だ」
『たしかに。ふむ、大したものだな』
「長年、あちこちをブラブラ旅してないからね。ウルが隣に居てくれるから、そういう所に気がつける余裕があるんだよ」
『フン。おだてても何もないぞ』
「ふふ、事実を述べたまでだよ」
吹き抜ける風には、潮の香りではなく、湿った腐葉土と……ひどく生臭い『獣の息遣い』が混じっている。
『……おい。妙な集まりができているな』
ウルの低い声に、コロは視線を周囲の暗がりへと向けた。
鬱蒼と生い茂る木々の影、切り立った岩場の上、あるいは身を潜めるような深い茂みの中。
そこには、普段なら互いの縄張りを巡って殺し合うはずの、別種の魔物たちの姿があった。
グレートウルフが率いるフォレストウルフたち、四本の腕を持つ樹海猿の群れ、漆黒の毛並みを持つ巨大な黒豹の魔物たち、さらには岩のように硬い皮膚を持つ猪の魔物たちまで。
彼らはそれぞれ数匹の小集団を作り、一定の距離を保ちながら、コロたちと同じように眼下の地獄絵図をジッと見下ろしている。
「本当だ」
コロとウルの存在に気づいてはいるものの、彼らは一切の敵意を向けてこない。
それは群れ同士でも、だ。
今は「その時」ではないと、本能と理知で完全に理解しているようだ。
『――俺たちの群れの長老が言っていた通りだ』
不意に、岩場に陣取っていた黒豹の魔物が、低く喉を鳴らした。
しかしそこには、ただの獣の唸り声とは次元の違う、高度に知的な情報交換の響きがある。
『ああ。大地が大きく揺れ、海が引いた後は、ああやって黒い水がすべてを飲み込む』
『そして、その後に何が起こるかも、教えの通りだな』
樹海猿の群れのボスが、酷薄な光を宿した瞳を港町へと向けながら同意する。
彼らの視線の先、黒い波から逃れようと、這々の体で山の斜面を登ってくる人間たちの姿があった。
武器も持たず、荷物も捨て、ただ命からがら逃げてきた丸腰の人間たち。
疲労困憊で足取りは重く、誰の目から見ても「最も狩りやすい獲物」だった。
『こういう時、人類は必ず、丸腰のまま巣から飛び出してくる』
『水から逃げて山に這い上がってきたところを、上から狩って喰らう。無駄な怪我をせず、最も効率よく腹を満たすための、古き教えだ』
黒豹の魔物が、ダラリと粘着質なよだれを垂らしながらも、極めて冷徹な声で語り継がれた教訓を口にする。
『だが、深追いはするな――』
群れの中で最も大きな体を持つ、年老いた猪の魔物が鼻を鳴らして釘を刺した。
『何度か夜が明けると、今度は全身を鉄で覆った『武装した人類』が、ワラワラと報復にやってくると聞いている。美味い肉にありつけるのは、水が引くまでの数日間だけだ。欲をかけば、我々が鉄の牙で狩られることになる』
『分かっている。我らが伝え聞いた話と同じだ。腹を満たしたら、さっさと山の奥深くまで引っ込むまでのこと』
『役割を決めるとしよう。我らの祖先もそうして手を組んだと聞く』
『うむ。人類を誘導するのは我らに任せろ。木の上から誘い出してやろう』
『最適だな。では、我ら狼は人類どもが散らないように横から圧をかける』
『では我々は背後から追い立てるか』
それは、あまりにも痛烈な皮肉だった。
人類の若者たちは「過去の厄災」を全く知らず、警鐘を鳴らした老人たちを罵倒し、彼らの言葉を『迷信だ』と鼻で笑い、自らの無知によって波に飲まれるか、魔物の餌食になろうとしている。
一方で、野蛮だと思われている魔物たちは、先祖の教えを忠実に語り継ぎ、その教訓に従って最も合理的で安全な狩りの算段を立てていた。
それも、普段は決して手を組まないような、多種族間、群れを越えて。
自分たちの積み上げてきた歴史を軽んじて、自滅していく人類。
本能の中にある教えを遵守し、したたかに生き残る魔物。
『……なんとも、賢いヤツらだ』
「うん。人類よりもずっと、過去の教訓を大切にしてるね」
『先祖の教え、か』
眼下の惨状も、暗がりで目を光らせる魔物たちの恐ろしい企みも。
コロとウルは、どこか遠い世界の出来事のように淡々と眺めていた。
「……こんな波が来るって知っていたら、纏めて数日分の宿代なんて払わなかったのにな」
『次からは、前払いで得をしようと思わんことだな』
「そうだね。少し安くなるからって、欲張っちゃダメだね」
絶望の悲鳴と波の轟音が遠く響く中。
一人と一匹は、これから始まる「自然界の合理的な食事風景」に付き合う義理はないとばかりに踵を返し、魔物たちの潜む暗く深い森の奥へと、静かに足を踏み入れていくのだった。
その日の夕刻。
港町を囲む山を越え、さらに『潮見の峠』を抜けて半日ほど歩いた内陸の小さな村に、一人と一匹の姿があった。
村を包むのは、むせ返るような潮の香りではなく、乾いた土と青青とした牧草の匂い。
村人たちの間でも今朝の不気味な地震は話題の中心になっていたが、地盤が強固な内陸部ということもあり、古い納屋の壁にヒビが入った程度の被害で済んだらしい。
港町から逃げてきたとおぼしき避難民の姿もまだなく、コロはあっさりと宿の部屋を確保することに成功した。
「ほらウル、お待たせ。残念ながら海鮮じゃなくて、ちゃんと丸々と太った家畜肉の香草焼きだよ」
『残念じゃない。むしろホッとしている』
「ふふ、私は釣りができなくて残念だけどね」
『フン。上質な家畜肉にありつけて感謝だ』
宿の一階に併設されたこぢんまりとした酒場には、香ばしく焼かれた肉の脂と、エール酒の甘ったるい匂いが漂っていた。
ウルが機嫌よく骨付き肉に齧り付き、コロが温かい野菜スープを啜っていた、その時。
バンッ!!と、酒場の扉が乱暴に開け放たれた。
「……お、おい、大丈夫か!?」
「あんたら、ひどい怪我じゃないか。一体何があったんだ!?」
なだれ込んできたのは、数人の武装した男たちだった。
彼らの姿を見た村人たちが、息を呑んで立ち上がる。
男たちの革鎧は無残に引き裂かれ、全身は泥と血に塗れ、その瞳は正気を失ったように虚ろに濁りきっていた。
彼らは、幾多の死線を潜り抜けてきたはずの歴戦の傭兵たちのようだ。
「……セルンが……港町が、消えた……」
「消えた?そりゃ、どういう意味だ?」
震える手で差し出されたエールを呷り、傭兵の一人が吐き捨てるように言った。
「今朝の揺れがあったろ……?」
「お、おう。たしかに揺れたが、ここはそんなでもなかった」
「セルンも揺れ自体は大した問題じゃなかった。だがな、問題はその後だ。その後に……海が干上がって海底が見えたと思ったら、とんでもねえ高さの黒い波が来やがったんだ。俺たちは商人たちといち早く逃げたから助かったが……今頃、町はもう、瓦礫の山しか残ってねえだろうよ」
「な、なんだって……!?」
「海ではそんな事が起きていたのか……?」
「建物の屋上に行きゃ、なんとかなるだろ?」
「ならねえ。高台から見てたけどな……ありゃ二階建てだとか三階建てだとかそういう問題じゃなくてな、そもそも俺たち人類が建てた建物なんざ全部押し流しちまう……」
その言葉に、居合わせた者たちがゴクリと生唾を飲み込む音すら聞こえるくらい、酒場の中は静まり返っていた。
「それだけでも地獄みてえだったけどな……本当の地獄はそこからだった……」
そんな傭兵の言葉に、ざわつき始めた酒場の中は再び、しんと静まり返る。
宿の主人や、給仕、厨房で調理をしていた者まで手を止め、固唾を飲んで傭兵の言葉を待っていた。
傭兵の男はガタガタと震える手で、自身の引き裂かれた肩口を強く押さえた。
「俺たちの後から、何十人って町民が一緒になって山に逃げてきたんだ。固まって峠を越えるぞってなった。だがな……普段は絶対に連れ立って行動しねえような別種の魔物どもが、山の中で巧みに連携して待ち構えてやがった……」
「連携、だと……?」
「ああ。猿が木の上から岩を投げて俺たちが散り散りに逃げるのを防いでな、横からは狼の群れが退路を塞ぎ、背後から巨大な猪が追い立てる……。誘導されるままに突っ走って、待ち構えているのは黒豹どもの鋭い爪と牙だ。……戦い慣れしてねえ丸腰の町民たちは、ただ喚きながら、綺麗に森の奥へと誘導されちまった」
凄惨な地獄絵図を思い出したのか、傭兵たちは顔を青ざめさせながら首を横に振った。
「あれはただの狩りじゃねえ。効率的な『収穫作業』だ。……少なくとも、あの潮見の峠を越えてこっちに逃げてこられる奴は、もう他にはいねえよ……」
酒場は水を打ったように静まり返り、パチパチと爆ぜる暖炉の薪の音だけが響いた。
やがて、居合わせた中年の行商人が、信じられないというように呟く。
「……しかし、おかしいな。そういう大波が来るような天災ってのは、大抵どっかの高台に石碑とかがあって、そこに『これより下に家を建てるな』みたいな先人の教えが書かれてるもんだけどなぁ。町民の奴ら、誰もそれを知らなかったのか?」
その言葉に、傭兵の一人が自嘲気味に口角を歪めた。
「……なあ、あんた。魔物たちのあの異常な連携を見た後だと、俺にはこうとしか思えねえんだよ」
「え?」
「もし仮に、そんな警告の石碑が山にあったとしてもだ。俺たち人類どもが警戒して逃げ出さないように、ずっと昔に、魔物どもが『その石碑をぶっ壊しておく』までが、奴らの狩りの連携のうちだったんじゃないか――ってな……」
酒場の空気が完全に凍りついた。
たまたま居合わせた一時的な共闘などではない。
彼らは何百年も前から、人類の習性を理解し、その伝承を群れのなかで伝え続け、最も効率的な狩場を維持し続けていたのだとしたら。
「……やつらは、俺たちが思っている以上に、ずっと強かだ……。ちょっとそっとの思いつきで……その場の勢いだけで出来るような連携じゃなかったんだよ……」
村人たちが恐怖に顔を引きつらせ、沈黙が落ちる中。
酒場の隅のテーブルでは、そんな彼らの絶望など意に介さない一人と一匹が、淡々と食事を続けていた。
『……人類が勝手に、その石碑とやらの教えを忘れたのか、魔物どもが石碑を壊したのか。どちらにせよ、結果は同じだな』
骨をボリボリと噛み砕きながら、ウルが退屈そうに鼻を鳴らす。
「そうだね。過去を忘れた群れは、過去を覚えている群れに食べられる。……ただそれだけの、当たり前の算数じゃないかな」
『そもそもだ。そういう教訓じみた何かを一言一句覚えていて、それが守れるような利口な生き物なら、戦争などという不毛な縄張り争いなど起きん』
「ははは、そうだね。残念ながらウルの言うとおりじゃないかな」
コロは氷藍色の瞳を伏せ、冷めてしまった野菜スープを最後の一口まで飲み干すと、ふうと小さく息を吐き出した。
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