大波の予兆と、山上の捕食者たち 1 〜弛緩した港町と、届かない警告〜
1.
むせ返るような薬草の匂いと、狂気に満ちた国境の街を遠く離れ、一人と一匹は、活気あふれる巨大な港町へとやってきていた。
その港町は山を背にしているせいか、むせ返るような潮の香りが街中に滞留しているように感じる。
髪を揺らす風には強い潮の香りが混じり、頭上では旋回するカモメたちの鳴き声がのどかに響いていた。
どこまでも高く澄み切った青空の下、強い日差しを反射して海面がチカチカと眩しく煌めいている。
石畳が敷き詰められた海沿いの大通りには、水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を乗せた荷馬車が行き交い、商人や屈強な漁師たちの威勢の良い声が飛び交っている。
特需の街のような殺気立った熱は微塵もなく、そこにあるのは、豊かな海がもたらす平和で弛緩した、日常の活気だけだった。
「……うん、いい匂いだね」
『磯臭い』
「ものは言いよう。健全な港町に来たって感じがするでしょ?」
『人類の臭さが相まっているからな。この臭さは、たしかに港町に来たという感じがする』
「ものは言いよう、だなぁ」
クスッと笑いながら、コロは多くの船が係留されている港に視線を送る。
「たまには釣りでもしようかな」
そして、木箱に山積みされた銀色の魚たちに視線を向け、コロがぽつりと漏らす。
すると、隣を歩いていたウルが、ピクッと耳を動かして忌々しそうに鼻を鳴らした。
『……おい。いつぞやのように、三食すべて魚になるのだけは御免だぞ』
「えー、ウルだって魚好きでしょ?」
コロが氷藍色の瞳を細めて笑うと、ウルは大きなため息を吐き出した。
『たまに食うから美味いのだ。ひたすら魚ばかり食わされてみろ、海に潜むクラーケンにでもなった気分になる』
「あはは、あの時はね、あんなに下手くそだったはずの釣りが上手になってさ、ちょっと楽しくなっちゃって、釣りすぎちゃったからね」
『まぁ……下手くそだったからな』
「それに、自分で釣った新鮮なお魚を塩焼きにして食べるのは、やっぱり格別だよ」
『フン。ならば俺は、その魚を食って丸々と太った家畜の肉を所望する』
「大抵の家畜は魚なんて食べないと思うよ。家畜は大抵草を食む動物だからね。草じゃないものなんて与えたら、変な病気になるよ」
『面倒臭いな』
「面倒臭くて手間がかかるからこそ、値が張るんだよ」
『その辺の野良とは比べ物にならんくらい美味いしな……そんなものか』
「そんなものだよ」
そんな他愛のない軽口を叩き合いながら、一人と一匹は潮風の吹く港町をのんびりと散策していた。
誰もが今日の晩酌のことや、明日の商売のことしか考えていない、穏やかな昼下がり。
突如として、足元の分厚い石畳がゴゴゴゴと不気味な地鳴りを上げ始めたのは、そんな平和な空気が頂点に達していた、まさにその時だった。
――ゴゴゴゴゴ……ッ!!
突如として足元から這い上がってきた不気味な地鳴りに続き、分厚い石畳が生き物のように激しく波打った。
「うわぁっ!?」
「な、なんだ!?地面が……っ!」
この海沿いの地域では滅多に起こらない、未知の大地の揺れ。
荷馬車を引いていた馬がいななき、積み上げられた木箱が崩れ落ちて銀色の魚たちが石畳に散乱する。
「ま、魔物か!?」
「地中の魔物じゃねえかっ……!?」
「危ない!!瓦が落ちてくるわ!!」
建物の瓦が数枚滑り落ち、悲鳴を上げた町民たちは次々とその場にしゃがみ込み、頭を抱えて震えていた。
そんなパニックに陥る群衆の中で、コロとウルだけが、微動だにせず周囲を観察していた。
『地震か』
「だね。この辺りだとあんまり無いはずなんだけどね」
『言われてみればそうかもしれん』
「揺れやすい土地では、こんな重厚な石造りの建物なんて建てないからね」
ウルの四肢は強固に大地を掴んで揺れを完全に殺しており、その背に軽く手を添えたコロもまた、いつもの平熱の瞳で崩れそうな建物がないか冷静に計算している。
『なるほどな。倒壊したら虫けらみたいにぺしゃっと潰れるからか』
「そうだね。私だって、急に石材が落ちてきたら即死だよ」
『フン。俺が黒雷で砂利にするまでだ』
「ふふ、だから私はこんな落ち着いていられるんだよ」
彼らにとって、これ程度の地震は旅の途中で何度も経験してきた事象に過ぎない。
やがて、数分ほど続いた激しい揺れは、徐々に波を打つように小さくなり、そして完全に収まった。
「……お、収まったか……?」
「い、今の揺れはなんだ……?こんなの、俺は生まれて初めて経験したぞ……?」
腰を抜かしていた漁師や商人たちが、恐る恐る立ち上がり、衣服についた土埃を払う。
そして、周囲を見回して決定的な建物の倒壊などがないことを確認すると、町中に「ふぅ」と安堵の吐息が広がっていった。
「いやぁ、珍しいこともあるもんだなぁ!」
「ははは、驚かされたぜ!うちの棚の酒瓶が何本か割れちまったかもしれないな!」
「怪我はないか?よしよし、散らばった魚を拾い集めるぞ!」
「坊や、怪我はなかったかしら?」
「うん、平気!」
「本当に魔物じゃなかったのか?」
「衛兵が調べるだろうよ。海も見てみろよ、元通りだ」
一度はパニックに陥ったものの、彼らの中に「地震」という天災に対する深刻な経験は存在しないようだ。
揺れが収まったというただ一点の事実だけで、彼らは「珍しい天災が終わった」と完全に錯覚し、のんきに被害状況を報告し合いながら笑い合っている。
『おい。……ひどく弛緩した群れだな。警戒の欠片もない』
「そうだね。経験がないから、これで終わりだと思っちゃってるんだね」
ウルが呆れたように鼻を鳴らす横で、コロはふと、広場から見える港の様子に氷藍色の瞳を細めた。
「……ねえ、ウル」
『なんだ』
「海を見て。なんか、おかしい」
『やはり、か』
「うん。やっぱりだね」
コロの視線の先。
先ほどまで陽光を反射して煌めいていた海面が、異常な速度で沖へと後退し始めていた。
ザザーッという穏やかな波の音が消え去り、代わりに、海底の砂利や岩をズズズ……と無理やり引きずるような不気味な音が響いている。
係留されていた船は急激な水位の低下で傾き、港の岸壁からは水が消え失せ、普段は決して見ることのない黒々とした岩肌や海底のヘドロが不気味に露出していた。干上がった水たまりでは、取り残された小魚たちがピチピチと虚しく跳ねている。
それに、先ほどまで空にあれほど群れ飛んでいたカモメの姿が、一羽残らず消え失せていた。
『ひどく潮が引いているな。港の底が見えそうだ』
「うん。……それに、風の匂いも変わった。なんだか、海の底の冷たい泥みたいな匂いがする」
ジッと、その不気味なほど静まり返った異常な海を見つめていたコロが、海から視線を外し、港町をすり鉢状に囲む、鬱蒼とした背後の山へと氷藍色の瞳を向けた。
「ねえ、ウル。あの山を見て」
『ん、人類が寄り付かない、魔物がうろついているあの山か?』
「うん。あの山の斜面、中腹あたりで土の色と植生がくっきりと変わってるでしょ?」
『……ふむ。確かに色が違うな』
「下の方は塩害に強い背の低い草木ばかりだけど、そこから上は樹齢数百年はありそうな太い広葉樹の森になってる」
『言われてみれば、たしかにそうだな』
「つまり、過去何百年もの間、どんな巨大な波が来てもあのラインから上には水が到達していないっていう確固たる証拠だよ」
コロは目を細め、山の地形の起伏と、所々に露出している岩肌の層を素早く視線でなぞっていく。
「それに、あの露出した岩盤の走り方なら、波の凄まじい衝撃がぶつかっても斜面ごと崩落するような脆い地盤じゃない。海抜からざっと見積もっても、あの広葉樹の尾根まで登れば十分にお釣りが来る高さだね。あそこなら確実だ」
『なるほどな。お前はただの草むしりだけでなく、地形を見る目も確かなようだな』
「安全な仕事はね、確実な安全確認からだよ。……ウル、背中を借りるから、身体を動かす準備をしておいて。たぶん、もうすぐ一斉にパニックになる」
これは「終わり」ではない。
この引き波は、途方もなく巨大なエネルギーが押し寄せてくる前の、不気味な『溜め』だ。
しかし、弛緩しきった群衆は誰一人として、これから海が牙を剥くことに気がついていない。
「おい!見ろよ!!海が引いて魚が取り放題だぞ!!」
「バケツを持って海に行くぞ!!誰でも大漁だ!!」
「魚が取り残されてるわ!!タダでおかずが手に入るチャンスよ!!」
いつもは海水があるはずのそこは、海底がすっかり露出し、打ち上げられたように魚がピチピチと跳ね、海藻類が黒光りしている。
しかし、彼らの油断しきった空気を切り裂くように、広場の奥から血相を変えた叫び声が響き渡ったのは、まさにその直後のことだった。
「馬鹿者どもッッッ!!何をのんきに笑っておるかッッッ!!!」
広場の空気を切り裂いたのは、血相を変え、顔を真っ青にひきつらせた老人たちの絶叫だった。
「海から離れろ!今すぐ全員で山へ逃げろ!!クラーケンの大波が来るぞォォッ!!」
その悲痛な叫び声に、一瞬だけ広場が静まり返る。
しかし、数秒後。
若い漁師や商人たちの間から、下品な嘲笑が巻き起こった。
「なんだよジジイ、腰を抜かして頭までおかしくなったのか?」
「クラーケンの大波だって?昔話のしすぎだぜ! 山には凶暴な魔物がいるってのに、そっちに逃げるなんて狂ってる!」
「寝言は寝て言えよ!ほら、海を見てみろ。水がすっからかんに引いちまってる。その大波を起こせるだけの海水が、そもそもどこにもねえじゃねえか!」
「落っこちてきた瓦の打ち所が、余程悪かったみてえだな!頭がすっかりパアになっちまってらァ!」
若者の一人が干上がった港を指差してゲラゲラと笑うと、周囲の者たちも同調して笑い声を上げた。
彼らの頭の中には、目の前の『海だったところ』には、誰でも拾い放題の宝の山があるようにしか見えていない。
「あー、わかったぞ!?ジジイども、適当な嘘を抜かして俺たちを追い払い、港に落ちてる魚を独占しようって魂胆だな!!」
「汚えぞ!誰がジジイなんかに渡すか!拾え拾え!!」
誰もが、この珍しい光景を前に、狂っている。
「地震」という天災の経験がない無知な彼らは、警告を嘲笑い、あろうことか干上がった海底へと我先にと殺到し始めた。
ピチピチと虚しく跳ねる魚を拾い集め、泥だらけになりながら歓声を上げている。
しかし、その地獄のような喜劇の傍らで。
危機管理能力に長けた経験者たちは、一切の猶予を許さず動き出していた。
「おい、馬車と荷物は全部置いていけ!馬を外せ!走れ!!」
「ちくしょう、あのバカどもに構ってる暇なんかねえぞ!!」
各国の情報を知る行商人や、幾多の死線を潜り抜けてきた傭兵たちが、顔面を蒼白にしながら商品も馬車も放り出し、町の出口――山側へと全速力で駆け出していく。
彼らは知っていたのだ。あの異常な引き波の後に、何がやってくるのかを。
「ええい、勝手に死に晒せ馬鹿共が!!行くぞ、早く走らんか!!」
若者たちの説得を諦めた老人たちもまた、悔しげに吐き捨てながら、困惑して立ち尽くす家族の腕を乱暴に引っ張り、商人たちの後を追うように必死で山へと逃げ始めた。
港へ殺到する無知なる者たちの波と、山へ逃げ出す経験者たちの波。
二つの波が完全に分かれたその時。
「……ん?なんだ……?おい、見ろよ」
「なんだよ!こっちはお宝に大忙しなんだよ!!」
「待てよ!ほれ!行商人どもがすげえ勢いで逃げていくぞ……?」
「馬鹿言え――おい、馬を外して……?積荷が残ってんぞ……?」
干上がった海底で魚を拾っていた者たちのうちの何人かが、逃げ惑う人々の姿と、耳を圧迫するような異常な静けさに気づき、ハッと泥だらけの手を止めた。
「……お、おい。なんか、沖の方から、変な音が聞こえねえか……?」
――ゴォォォォォォォォ…………ッ!!
地鳴りとも獣の咆哮ともつかない、途方もない質量の水がうねる異音が、地平線の彼方から響き始めていた。
『ほれ、時間だ。行くぞ』
「だね。ウル、お願い」
『しっかりと捕まっていろ。くれぐれも舌を噛むなよ?』
ウルの言葉を受け、コロはウルの背中にへばりつくようにして、ギュッと銀色の毛並みをつかんだ。
その直後、足元から響く轟音が大地を激しく震わせ、海底に殺到していた若者の一人が沖を指差して悲鳴を上げた。
「な、なんだ、あれは……!?」
「黒い……壁……?そ、空が、隠れていくぞ……っ!」
「おい嘘だろ……波なんてもんじゃねえ!海そのものが持ち上がって――」
「ヒィィッ!!逃げろッ!!間に合わねえぞォッ!!」
水平線を完全に埋め尽くす、常軌を逸した高さの『黒い壁』。
それが「波」であることすら理解できないまま、完全にパニックに陥り、我先にと押し合いへし合いする無知なる群衆たち。
しかし、ウルはその阿鼻叫喚のど真ん中で、低く沈み込ませた四肢に膨大な魔力を集中させた。
――ダンッッッ!!
石畳を粉砕するほどの爆発的な踏み込みと共に、銀色の巨体が空高く舞い上がる。
悲鳴を上げて逃げ惑う町民たちの頭上を、文字通り「飛び越えて」いく。
建物の屋根から屋根へ、あるいは広場の端から端へ。
ただの野生動物とは次元の違う、アッシュウルフの規格外の跳躍力と身体能力。
それは、重力や混乱といった地上のしがらみを一切無視した、絶対的な強者だけが許される美しく残酷な逃避行だった。
眼下で押し潰されるように逃げ惑う人々の姿は、あっという間に芥子粒のように小さくなっていく。
タンッ!タンッ!と、強靭な脚力が建物の屋根を蹴るたびに、一人と一匹は瞬く間に安全圏である「山の斜面」へと接近していくのだった。
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