特需の街と、徴兵のバグ 1 〜開戦前夜と、無責任な投資〜
1.
天を衝くような絶対的な拒絶。
極寒の氷壁と死の岩肌が連なる霊峰『アイゼン』をようやく抜け、一人と一匹は新たな景色の中にいた。
数日にわたる過酷なモノクロームの世界を背後に退け、足元の感触は氷のように冷たい片岩から、すっかり踏みならされた土へと変わっている。
なだらかな下り坂がどこまでも続く別の街道へと差し掛かる頃には、足元に疎らに生える雑草が、世界に少しずつ色彩を取り戻させていた。
頭上を重く覆っていた分厚い雲海はすっかり晴れ渡り、高く澄み切った空からは乾いた初夏の陽光が惜しみなく降り注いでいる。
しかし、背後にそびえる巨大な山脈から吹き下ろす風には、未だアイゼンの鋭い冷気がたっぷりと孕まれていた。
初夏の日差しに温められた土の匂いと、肺を刺すような冬の残り香。
二つの季節が混ざり合う奇妙な風が、コロのくたびれた外套の裾と、ウルの誇り高き銀の毛並みをヒンヤリと撫でるように揺らしていく。
そして、眼下の荒野を切り裂くように真っ直ぐ伸びるのは一本道。
遥か彼方に霞む国境近くの街へと続くその動脈は、平時とは明らかに異なる異様な空気を纏っている。
ひっきりなしに巻き上がる土埃が、陽光を乱反射しているのか、白く霞んでいるように見える。
遠くからでも微かに響いてくる、車輪が軋むけたたましい音と、焦燥に駆られた足音。
そこにあるのは平和な街の活気などではない。
巨大な暴力の予感に急き立てられ、血眼になって餌を奪い合うような、どこか殺気立った熱を孕んでいた。
『……おい、コロ』
「ん、なに?」
『さっきからお前の同業者をやたらと見かけるな』
ウルが歩調を緩めることなく、街道の左右に広がる鬱蒼とした雑木林の斜面に金色の瞳を向けながら、低く鼻を鳴らした。
「やっぱりウルも気づいた?うん、そうだね」
コロは歩きながら、すれ違う荷馬車や、林の奥へと分け入っていく人々の姿を静かに観察していた。
彼らの多くは、泥に汚れた前掛けをし、背中には使い古された巨大な背負い籠を背負っている。
腰に下げた鎌をチャカチャカと鳴らしながら、誰もが血相を変えて足早に歩いていた。
普段ならのんびりと野山を歩くはずの採取家たちが、まるで何かに追われるように、あるいは獲物を奪い合う獣のように目を血走らせている。
『フン。どいつもこいつも、籠の中に安っぽい草を限界まで詰め込んで、血相を変えてまたどこかへ走っていく。酷く落ち着きのない様子だ』
「あれはね、ただの草じゃないよ。……あの籠から漂ってくる強い青臭さ、あれは全部、この辺で使われる『止血の草』と『鎮痛の根』だね」
コロは鼻腔をくすぐる特有の匂いに氷藍色の瞳を細めつつ、近隣の情勢に思考を巡らせた。
『そんなに集めてどうするつもりだ?』
「次の街はまた別の国との国境も近いしね。ほら、もうすぐその隣国との間で大きな戦が始まるっていう噂があったでしょ?」
『ああ、そういえばそうだったかもしれんな……』
ウルは遠い目をしながら、一本道の向こうをボンヤリと眺めた。
「だからさ、きっと、次の街の薬師ギルドや薬草店は、傷薬の原料になる薬草の特需に沸いているのかもしれないね」
『人類の喧嘩の準備か。毎度のことながら、つくづく、小細工と無駄の多い種族だな』
「まぁね。アイゼンを超えるのに通行許可証が必要になるわけだよ。でも、特需があるなら今のうちに稼いでおくのが現場の正しい判断かな」
『お前の鼻には金の匂いがしている、というわけか』
「ねえウル、せっかく同業者があれだけ手前の林に集まってるんだ。しばらくあの町を拠点にしてさ、誰も近づかないような奥地で、群を抜いて高値になる極上品を集めようか」
『フン、好きにしろ。人類の雑踏に付き合わされるよりは、奥地で言葉の通じん魔物でも叩き潰している方が幾分マシだ』
そう言い合っている間にも、街道を走る荷馬車の数は増えていく。
熱病に浮かされたような街道を抜け、重々しい石造りの城門をくぐると、予想通りの狂乱が一人と一匹を出迎えた。
国境の防衛拠点としての無骨な顔を持つその街。
今や開戦前夜の特需という巨大な渦に飲み込まれ、完全に許容量を超過していた。
石畳のメインストリートは、前線へと急ぐ軍の物資馬車や、一攫千金を狙って押し寄せた商人、そして血走った目をした傭兵たちでごった返し、まともに真っ直ぐ歩くことすら困難な有様。
車輪が軋む音と、怒号のような怒声がひっきりなしで、まるで町が鼓膜を打っているようだった。
そんな街の中心。
広場に急造されたかの如く乱立している巨大な薬草市場は、むせ返るような青臭さと、人類の欲望が放つ熱気で満ちていた。
広場の至る所には、この辺りの土地ではポピュラーな、大量の『止血の草』や『鎮痛の根』が文字通りの小山を作っている。
土のついたままの泥臭い根や、急ごしらえで乱雑に乾燥させられた葉が山盛りの木箱から溢れ出し、あたり一帯に鼻の奥をツンと突く強烈な青臭い匂いを撒き散らしていた。
通常なら大銅貨数枚程度で取引されるような、この地域で最もありふれた薬草たち。
それが今や、まるで黄金の砂でも扱うかのように、通常の五倍、物によっては十倍という異常な高値で右から左へと買い叩かれていく。
汗と泥にまみれた採取家たちが次々と巨大な背負い籠をひっくり返し、商人が銀貨や金貨の入った袋を惜しげもなく秤の横に叩きつける。
狂乱のバブルが生み出した異常な熱量が、街全体をぐらぐらと煮えたぎらせていた。
「さあ、持ってきた分は全部買うぞ!出せるだけ出せ!」
「緑珠草の根はうちの商会が買い取る!買取価格の相談に乗れるぞ!」
買い付け業者たちの怒号が飛び交う中、コロは涼しい顔で市場の掲示板に張り出された買い取りリストを眺めている。
掲示板に貼られている紙も乱雑に貼られており、そんな乱雑さがこの街の熱狂を代弁しているようだった。
「案の定だ。今は『採り時』だし『売り時』だね」
『フン。そんなに無駄な金を払ってまで欲しければ、自分で籠でも背負って採りにいけばいいものを』
「ははは、それをやられちゃったら商売上がったりだよ」
『まぁ、鍛えていない人類のひ弱さは想像を絶するからな』
ウルがそう言ってフンと鼻を鳴らすと、コロはリストを眺めたままウルの頭にポンと手を置いた。
「たとえ街道沿いに自生するような薬草採取でさえね、街の中でしか生きていないような人類にとっては『死と隣り合わせ』なんだ。護衛を付けるにもお金が掛かるし、そもそも護衛に裏切られるリスクだって無いわけじゃない」
『そうしてお前はがっぽり稼げるわけだな』
「それもこれもウルのお陰だよ。そこに居てくれるだけで、大抵の動物も寄り付こうとしないし、魔物だって初めから戦おうなんて思わない」
『まるで俺が厄災のような口ぶりだな』
「褒めているんだよ。ほら、日頃は銅貨や大銅貨くらいにしかならないものも、今なら値がつり上がってるよ。へえ、小瓶の下取り価格まで?これは凄いね」
『やはり人類どもが『戦争』などと呼んでいる喧嘩は、ただただ効率が悪いだけだな』
「戦争っていうのはとっても効率の悪い大規模な『廃棄処分』だけど、その間だけは、私の鞄の中身が瞬く間に金貨に化ける。特需ってやつだね」
口を動かしつつも、氷藍色の瞳に焼き付けるように、次から次へと掲示された買い取りリストを眺めているコロ。
ウルはそんな相棒の様子を横目に、呆れた様子で鼻を鳴らした。
『フン、死地に赴く連中から巻き上げる小銭がそんなに美味いか』
「薬草を欲しがっているんだもん。欲しがっているから、それを提供してあげる。ただそれだけのことだよ」
『それなら、毎日『戦争』をしてほしいものだな。なんせ、動物も魔物も、様子を伺っているだけで勝手に肉が積み上がっていくんだからな』
「それだけ長く戦争が続いたら、市場に集まるお金も集まらなくなってきて、今度は私たちにとっての特需がどんどん減っていくよ」
『肝心の人類もさすがに減っていくか』
「最後の方なんてさ、『あんまり美味しくない肉』ばっかりが積み上がるんじゃないかな。魔物だって食べたがらないよ」
狂乱のバブルに沸く市場。
コロの氷藍色の瞳とウルの金色の瞳は、冷徹に、そして静かに、熱病に浮かされているような市場の養子を見つめていた。
その日の夜。
コロとウルが部屋を取った宿の一階に併設された酒場は、むせ返るような熱気と脂の匂い、そして昼間の市場から持ち込まれた薬草の青臭さが入り混じり、独特の空気を醸し出していた。
壁掛けの油ランプが放つ薄暗いオレンジ色の光の中、テーブルはどこも満席で、客同士の肩がぶつかり合うほどの人口密度だ。
薬草バブルで潤った採取家や商人たちでごった返しているが、その熱狂のどんちゃん騒ぎの中には、明確に質の異なる『不協和音』が混じり込んでいる。
「いいか!?若いの!俺たちの頃はなぁ、もっと勇敢だったぞォ?憎き隣国を叩き潰して、我が国の誇りを取り戻すんだッッッ!」
「そうだそうだァッ!軟弱なツラァしてるんじゃねえ!国のために血を流すのはナァ!男の誉れだぞォッッッ!」
薄くなった頭髪を振り乱し、欠けた歯を見せながらわめき散らす老人たち。
ドンッ!と分厚い木製ジョッキを乱暴にテーブルに叩きつけ、エールの飛沫を撒き散らして若者たちを叱咤している。
彼らのテーブルには豪勢な肉料理と酒が並び、戦場に行かないという『絶対的な安全圏』にいる特権をこれでもかと謳歌しているようだった。
どうやら、彼らは自身が兵役から外れているという絶対的な安心感から、自らの『威勢のいい言葉』と安酒にすっかり酔いしれ、まるで自分たちが英雄にでもなったかのような高揚感に浸っているようだ。
一方、そんな安全圏で胡座をかいている彼らから飛沫と唾を飛ばされている若者たちの顔には、一切の生気がない。
テーブルの上に置かれた豆のスープはすっかり冷めきっているというのに、誰もそれに手を付けようとはしない。
彼らの手には、夕刻に領主の使いから配られたばかりの、粗末な羊皮紙の『徴兵票』が握りしめられている。
シワだらけになるほど強く握られたその紙切れは、彼らにとって死刑宣告も同然だった。
戦場という、自らの命が強制的に消費される「未知の地獄」に対する純粋な生存本能が、彼らの顔面を蒼白にさせ、小刻みに震えさせている。
彼らが持ち合わせているのは『若さ』のみで、街で生まれ、街で育った彼らは武力など持ち合わせていないから無理もない。
視線は虚空を彷徨い、老人たちの勇ましい言葉など一言も耳に入っていないのは明白だった。
コロの足元で、周囲の喧騒から隔離されたように床に顎を乗せていたウルが、ピクピクと黒い鼻を動かし、忌々しそうに息を吐いた。
『……酷い悪臭だ。飯が不味くなる』
「ん、どうしたの、ウル。お肉、あんまり美味しくなかった?」
コロは、ウル用に追加注文した骨付き肉の皿を覗き込んだ。
その骨付き肉からはまだわずかに、香ばしい湯気が立っている。
『肉はいい。そっちの人類どもだ』
「ああ、ははは、そっちね」
『あっちの老いぼれからは、安全な場所から吠えるだけの『腐った自尊心』の匂い。片や、あっちのガキからは、死の恐怖に支配された『冷や汗』の匂いがぷんぷんする。どっちも群れを維持する役には立たん。弱者の群れ特有の、吐き気を催す臭いだ』
「ふふ、手厳しいね」
コロは温かいスープを木のスプーンですくいながら、冷めた氷藍色の瞳で酒場の狂騒を眺めた。
熱狂と絶望が入り混じる喧騒に巻き込まれることもなく、ただ一枚の滑稽な絵画でも鑑賞するかのように淡々と言葉を継いだ。
「でも、ウルの言う通りだね。……ああやって他人に発破をかける『威勢のいい言葉』っていうのはね、一番安上がりな投資だから」
『投資、だと?』
「うん、投資。自分は絶対にリソース……つまり『自分の命』を支払わないっていう大前提があるから、いくらでも無責任に言える」
『人類の老いぼれなど、牙も爪もなく、戦いに向かないだろうからな。無責任極まりない』
「ね。自分は痛い思いをせずに、他人の血と命を使って『愛国心』や『自尊心』っていう利益だけをタダで掠め取ろうとしているんだよ。口先だけで戦った気になって、気持ちよくなれるんだから、そりゃあ安い買い物だよ」
コトリ、と空になったスープ皿にスプーンを置き、コロは小さく肩をすくめた。
「でもまぁ、ウルの言う通り。現に年老いていたら戦場では役に立たないだろうしさ、あの老人たちの無責任な投資も安心して続けられるんだろうね。支払いの請求書が自分に回ってくることは絶対にないって、信じ切ってるから。不公平だけど、それが人類の社会ってやつだから」
コロの言葉に再びフンと鼻を鳴らしたウルは、皿に乗せられた骨付き肉に齧り付いた。
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