偽りの鎖と、魂の番 2 〜三流の誘拐劇と、揺れる荷馬車〜
2.
その日の午後。
太陽が西に傾き、長く伸びた影が荒野の街道を黒く塗りつぶし始めた頃。
コロとウルは、宿場町から少し離れた人気のない道幅を、わざと無防備な足取りで歩いていた。
乾いた風が吹き抜けるたび、ウルの首に巻かれた『くたびれた赤いバンダナ』がパタパタと安っぽくはためく。
狙う犯人にとっては「隷属の媒介」、背後から空で監視する領主にとっては「盤上を彩る完璧な駒」。
そしてコロにとっては、「ウルの汚れを拭くためのただの実用的な布切れ」。
たった一枚の布に対する認識の差が、そのまま彼らの持つ格の違いを表している。
『全くもって気に入らん。ここまで不愉快な気分になれるのかと、我ながら驚いている』
「参ったね。とんでもない人類に目をつけられたものだよ」
『なんだ、その……アレだ』
ウルはどことなくバツが悪そうに俯き、ズシン、ズシンと重々しい足音を立てながら歩みを進めている。
誇り高き魔狼の銀毛は心なしか逆立ち、その太い尻尾は重力に完全服従したようにダラリと土埃を擦っていた。
コロはそんなしょんぼりした相棒の首元に、ポンと優しく手を置く。
「ウルが黙っていたとしてもね、辺境伯にはバレていたよ。だって、人類のテイマー程度じゃアッシュウルフを従えるなんて不可能だもん」
『まぁ……』
「ふふ、でもウルの口の悪さが少しは改善されるのであれば、悪くなかったかもね」
小さくクスクスと笑うコロの身体に、優しくボフッと身体をぶつけるウル。
コロは軽くよろめきつつも、優しい笑みをウルへと向けた。
「少しは元気が出た?」
『フン。調子に乗るな』
「――そろそろ来る頃だね」
『面倒な茶番だ』
その時、街道脇の深く生い茂った茂みの奥から、シュゥゥッという不気味な音と共に、どぎつい紫色の煙が蛇のように這い出してきた。
鼻の奥にへばりつくような、脳が痺れるほど甘ったるい香り。
広範囲に展開された強力な睡眠魔法だ。
その紫煙は夕暮れの空気を瞬時に汚染し、煙を吸い込んだ瞬間、普通の人間や魔物であれば、たちまち意識を刈り取られるだろう。
「あっ……ウル、逃げ……」
コロは事前に服用していた『状態異常無効化ポーション』の恩恵で全く眠気を感じていなかったが、完璧な芝居でバタリと乾いた土の上に崩れ落ちた。
ウルもまた、退屈そうに目を閉じ、大きな体をドスリと地面に横たえる。
「ひひっ!かかったぞ!まさか本当にアッシュウルフの極上品が手に入るとはなぁ!」
茂みから、安い酒と獣脂の臭いを漂わせた脱法テイマーの男たちが下劣な歓声を上げて飛び出してきた。
ガチャガチャン!と耳障りな金属音を立てて巨大な鉄の檻が引きずり出され、狂喜乱舞する男たちの手によってウルが収容される。
コロもまた、荒々しく荷馬車の木の床に乱暴に放り込まれた。
「このガキはどうする?殺して森に捨てるか?」
「バッカ野郎、見つかったらどうするつもりだ!?アジトに持ち帰ってからゆっくり始末してやる。さっさと馬を出せ!隠蔽をかけろ!」
男たちの怒号と共に、鞭を打たれた馬がいななき、車輪が乱暴に土を蹴り上げる。
彼らがアジトへと向けて荒っぽい運転で走り出した直後。
遥か上空の雲の隙間から、アールマン辺境伯の放った隠密ワイバーンが、音もなくその軌跡を追従し始めていた。
ガタガタと、車輪が石を拾うたびに酷く内臓を揺さぶる荷馬車の荷台。
薄暗い幌の隙間から差し込む夕光の筋の中、土埃に塗れて死んだように横たわっていたコロは、薄く瞼を開け、鉄格子の中にいるウルへと視線を送った。
ウルもまた、薄らと金色の瞳を開いてコロを見返している。
言葉は必要ない。
相手は腐ってもテイマー。
下手に喋れば、気付かれるリスクがある。
しかし、長い時を共に歩んできた一人と一匹の間には、視線の交差と僅かな息遣いだけで成立する『会話』があった。
(大丈夫?)
気遣うようなコロの視線。
それに答えるように、ウルは鼻先でフン、とごく僅かに息を吐く。
(お前こそ大丈夫か)
とでも言いたげな静かだが力強い眼光。
コロが小さく瞬きをして微笑むと、ウルは忌々しそうに目を閉じた。
僅かにシワが寄っているマズルから、物騒な感情がありありと伝わってくる。
コロがもう一度ゆっくりと瞼を閉じると、ウルも小さく喉を鳴らして再び動かなくなった。
幌をすり抜ける冷たい夜風と、死と隣り合わせの誘拐劇の最中。
しかし、究極のアイコンタクトによる二人の内緒話は、まるで近所に散歩にでも出かけるかのような平熱を保っていた。
やがて荷馬車は、陽の光すら届かない鬱蒼とした森の最奥、湿った苔とカビの匂いが立ち込める巨大な洞窟――脱法テイマーたちのアジトの前で停車した。
「さあ、運び込め!早くこの極上の魔物を、俺のコレクションに書き換えてやる!」
松明の炎が揺れる中、男たちの下品な笑い声が岩肌に反響する。
閉ざされた洞窟の中で、いよいよ「存在しない鎖」を巡る、滑稽な断罪の幕が上がろうとしていた。
「グハハハハッ!乾杯だ!俺たちの輝かしい未来と、新国家の誕生に!」
松明の炎が岩肌を赤く照らし出す、鬱蒼とした洞窟の最奥。
カビと湿った土の匂いが立ち込める空間は、今や安酒の饐えた臭いと、脱法テイマーたちの下劣な歓声で満たされていた。
荷馬車の荷台に転がされたままのコロと、堅牢な鉄の檻に放り込まれたウルは、依然として深い眠りに落ちている『演技』を続けている。
そんな一人と一匹が、薄く目を開けて視線を交わし合っていることなど夢にも思わず、リーダー格の脱法テイマーは片手にエールが入った木杯を持ち、もう片手で檻の中のウルを指差しながら熱弁を振るっていた。
「見ろ、この銀毛!この巨体!この立派な角!間違いねえ、神話クラスの極上品だぞ!こいつの支配権さえ奪っちまえれば、辺境の領主だの騎士団だの、赤子の手をひねるようなもんよ!」
「その狼って、そんなにすげえもんなのかよ?」
「バッカ野郎!すげえなんてもんじゃねえよ!アッシュウルフがテイミングできるなんてよ、養成所では教わってねえっつんだよ!」
「そりゃ頭領が真面目に通ってなかっただけじゃ……」
「う、うるせえ!アッシュウルフを従えているテイマーなんざ見たことねえよ!お前ら、あの極悪アールマンがこんな狼を連れてる姿なんて見たことねえだろ!?」
「ま、まあ……?」
「でもよ、フォレストウルフの色違いに、ヤギの角が生えただけじゃねえの?」
「全然ちげえよ!!ソイツを討伐するのに、俺達人類は何百……いや、何千人犠牲にすりゃ相討ちに持ち込めるんですかって話よ!」
「えっ!?!?の、乗っ取りに失敗したら、どうするんですかい!?」
「失敗しねえから従魔を盗んで売り捌いてるんだろうが!!」
男は興奮で顔を真っ赤に紅潮させ、唾を飛ばしながら自身の壮大な夢物語を語り続ける。
「細けえ事ぁどうだっていい!!まずはな、極悪アールマンの首を取って、この国を乗っ取る!俺が王だ!いや、それだけじゃ足りねえな、このアッシュウルフがいりゃあ、一気に大陸の半分を掌握することだって夢じゃねえ!」
「おおーっ!すげえ!さすが頭領!」
「うへへへ、俺たちも将軍様になれるってわけだ!」
「毎晩女を買えるな……!」
「みみっちいこと言ってんじゃねえよ!ハーレムだバッカ野郎!!」
「やべえ!すげえ!!」
取り巻きの男たちがドンチャン騒ぎを続ける中。
檻の中で死んだように横たわるウルのマズルに、ピキリ、と深いシワが寄った。
薄く開かれた金色の瞳が、圧倒的な不快感と、明確な殺意を帯びて荷馬車のコロを睨む。
しかし、コロは静かに瞬きを一つして、視線だけでそれを制止した。
コロの宥めるような視線を受け、ウルは忌々しそうに鼻からフンと息を抜き、こみ上げてきた特大の欠伸を必死に噛み殺した。
「さあて、祝杯も済んだし、いよいよメインイベントだ!」
「いよっ!待ってましたぁっ!」
「夢への第一歩だなぁ!頭領!」
男はようやく重い腰を上げると、懐からどろりとしたインクが入った小瓶を取り出し、ガチャリと音を立ててウルの檻の鍵を開けた。
極上の魔狼が完全に熟睡していると信じ込んでいる男は、無防備にも檻の中へ足を踏み入れ、ウルの鼻先の地面にしゃがみ込む。
「頭領は養成所ってのを中退したのに、なんでそんなに魔法に精通してるんですかい?」
「バッカ野郎!俺ほどの天才がな、金を払ってまで通うような場所じゃなかったんだよ!」
「すげえ!」
「色街で金を使い果たしちまって、通えなくなったって聞いたぜ」
「しーっ!聞こえるぞ!」
「聞こえてるよバッカ野郎!いいか?俺が王になった暁にはよぉ、まずは王都の金庫を空にして、若い女は全員強制徴収だな!あ、美人だけな!美人だけ!……っと、いけねぇ。線の角度が違った」
男はしょうもない夢物語の続きをベラベラと喋り続けながら、筆でスルスルと魔法陣を描いていく。
しかし、酒が入っているせいか、あるいは元々三流の腕しかないのか、一向に作業が終わらない。
それどころか、「あ、ここも違うな」と途中で袖口を使ってインクを擦り消し、何度も描き直す始末である。
その間も延々と語られる『大陸制覇の妄想』に、ウルの瞼は退屈と苛立ちでヒクヒクと痙攣し始めていた。
「よしっ、完成だ!食らいな、俺の特製『強制上書き』だ!!」
男が叫び、魔法陣に魔力を注ぎ込む。
その瞬間、地面に描かれた複雑な幾何学模様が毒々しい赤黒い光を放ち始めた。
バチバチと不気味な火花が散り、やがてそれはドス黒い光の柱となって、ウルの巨体を包み込むように爛々と輝き上がる。
禍々しい魔力の奔流が洞窟内に吹き荒れ、取り巻きの男たちも「おおっ!」と期待に身を乗り出した。
――しかし。
シュー……という間の抜けた音と共に赤黒い光が霧散した後、檻の中には、ただ退屈そうに寝そべっているアッシュウルフの姿があるだけだった。
魔力のパスが繋がった手応えも、主従関係が結ばれた証である刻印の光も、何一つ起きない。
圧倒的な、虚無。
「……お、おい頭領。よく分かんねえけど、今のって……どっか魔法陣の書き損じとかがあるんじゃねえのか?」
取り巻きの一人が、静まり返った洞窟の中でポツリと疑問を口にした。
「バ、バッカ野郎!俺の魔法陣は完璧だ!!」
図星を突かれたのか、男は慌てて怒鳴り返す。
しかし、どれだけ魔力を注いでも、眼の前の魔狼には一切の干渉ができない。
「……完璧か?いや、完璧――だな。じゃあ、なぜだ!?なぜ契約のパスが見つからない!? ……そうか、この首に巻かれている小汚い『赤いバンダナ』!これが前の主の媒介になっているから弾かれるのか!?なんか養成所で、そういう古臭い手段もあるとかないとか……」
「モタモタしてっと、起きるんじゃねえのか?」
「うるせえ!ちょっと黙ってろ!!」
男は血相を変え、震える手でウルの首元に巻かれたバンダナを掴み取ろうと身を乗り出した。
『――おい。もういいか?』
突然。 洞窟の冷たい空気を一瞬で凍りつかせるような、地鳴りのごとく低く、威厳に満ちた声が響き渡った。
「だからうるせえなって!」
「へ?誰も喋ってねえよ?」
「まだ解決して…………へ?」
男が間抜けな声を漏らした目の前。
絶対に起きるはずのない、強力な睡眠魔法を喰らったはずの極上の魔狼が、ゆっくりと、そして退屈そうに金色の瞳を開いた。
『もういいだろう』
「ひっ……!?あ、ああああっ!!」
男は短い悲鳴を上げ、這いずるようにして檻から飛び退いた。 そして半狂乱になりながら、ガチャンッ!と檻の鉄扉を閉め、震える手で二重、三重に鍵をかける。
「あわわわわ……!!マ、マズい……!!」
『ふぁぁぁぁ…………眠い』
ガチャガチャと鍵をかける滑稽な音をBGMに、ウルはゆっくりと立ち上がった。
そして、前足をグッと前に突き出し、背中を反らせて気持ちよさそうに特大の欠伸と伸びをする。
『下賤な臭いと、つまらん妄想話で酷く疲れたぞ』
ウルが面倒くさそうに片足を上げた瞬間。
――バチッ……!バチバチバチッ!!
その巨体から、周囲の空間ごと焼き尽くすような恐ろしい『黒雷』が迸った。
悲鳴を上げる間もなかった。
堅牢な鉄の檻は、一瞬にして飴細工のようにドロドロに溶け落ち、白煙を上げて赤熱の鉄溜まりへと変わる。
「ヒィッ……!?」
「な、なんだよこれ……檻が、一瞬で……!」
絶望的な暴力の顕現。
溶け落ちた檻の残骸を踏み越え、黒い稲妻を纏ったアッシュウルフが、愚かな脱法テイマーたちを見下ろしていた。
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