偽りの鎖と、魂の番 1 〜霊峰の関所と、狂気なる観察眼〜
1.
天を衝く刃のごとく、天空の彼方へと鋭くそびえ立つ霊峰『アイゼン』。
それは単一の山ではない。
半島の東西を力任せに両断するようにして連なるその巨大な山脈は、まるで世界の端を区切る絶望的な障壁の如く、そこに鎮座していた。
地表から巻き上がる湿った大気は、悉く山肌にぶつかって巨大な雲海となり、年中その中腹を分厚い白の蓋で閉ざしている。
人類の往来はおろか、視線すらも拒絶するかのように、アイゼンの峻険なる峰々は常に雲を突き抜けた遙か高みで、絶対的な静寂と冷気を孕んでいる。
稀に吹き荒れる烈風が雲を押し流し、その全貌が剥き出しになる日、麓から見上げる山々は、見る者の心をただただ圧倒的な恐怖で支配した。
そこには、生命の営みを予感させる緑の調和など一切存在しない。
木々はおろか、地を這う草の一株さえも見当たらない、ただただ黒々と光る冷徹な片岩と、永久凍土の氷壁が剥き出しになった、荒涼たる死の様相を醸し出している。
陽光を浴びても暖かさを吸い込むことはなく、ただ乱反射して鋭い白光を放つだけの、切り立った岩の怪物。
時折、山頂の凍てつく高空から吹き下ろす寒風が、ヒューヒューと甲高い風鳴りを上げながら関所まで届き、そこにいる者たちの肌を刺すように刻んでいく。
そんな、世界の拒絶そのものである巨大な壁の麓。
重々しい石造りの防壁と鉄の門で固められた関所の街で、コロとウルは足止めを食らっていた。
「――なるほど。このアイゼン峠を越えるには、ここの領主が発行する『通行許可証』が必要なんだね」
「ああ、そうだ。最近は特に物騒だからな。許可証のないよそ者は通せねえんだわ」
「そっか。前は普通に通れたんだけどね」
「つい最近、な。悪ぃな」
門番の素っ気ない返答に、コロは小さく息を吐いた。
物理的な話をすれば、ウルの身体能力をもってすれば、こんな関所など夜陰に乗じて容易く飛び越えることができる。
しかし、無許可での突破は後々『指名手配』という巨大なノイズを招く。
長く平穏な旅を続けるためには、ここは正規ルートを通るのが最も効率的だった。
「困ったね。昔はそんなもの無くても行き来できたんだけど……」
『フン。その『通行許可証』とやらで小銭稼ぎというわけか。人類が考えつきそうな嫌がらせだ』
「だね。せっかくここまで来たけど、海路で大回りするしかないかなぁ」
『おい、海なんて出ずとも、俺の背中に乗って適当に超えてしまえばいいだろう』
広場の隅に移動し、適当なベンチに腰を降ろしたコロ。
ウルもコロの脇で控えるようにして、地べたにペタンと腰を下ろした。
「この手のね、『通行許可証』が必要になるような区域で、その手を使うのは悪手だよ」
『む、なぜだ?』
「無許可で超えたなんてバレたら面倒だからだよ。悪目立ちしちゃう」
『人類の中で生きるのは、ほとほと面倒臭いな……』
「来た道を引き返すのは非効率の極みだけど、この場合はしょうがないね。その許可証が貰えるのなら、貰えるに越したことはないけどさ」
『どうすれば貰える?』
「どうすればって……うーん」
どうやって許可証を手配するかと思案していた時だ。
「お困りのようだね、旅のお嬢さん」
ふと、柔和な声とともに一人の男が歩み寄ってきた。
仕立ての良い、しかしどこにでもあるような平民の麻服を着た、人の良さそうな壮年の男だ。
「私はこの街で商いをしている者だが、もしよければ――」
「これはご丁寧に。お声がけいただき、光栄の至りに存じます」
コロは男の言葉を遮るように、流れるような動作で深く、そして完璧な最敬礼の姿勢をとった。
「……おや」
「私のような自由民に、一体どうかされましたか?」
男の目が、僅かに見開かれる。
コロの氷藍色の瞳は、男の『平民の芝居』など一瞬で見抜いていた。
歩く際の無駄のなさ、周囲に溶け込んでいる護衛たちが放つ隠しきれない緊張感。
そして何より、これほど立派な体格でありながら、彼自身の身体からは労働の汗や血の匂いが一切しない。
それは、他者の命を盤上で動かす『統治者』特有の匂いだった。
「ははっ、これは驚いた。ただの平民として扱ってほしかったのだがね」
『フン。芝居が上手すぎて浮いている。下賤の者の動きを完全に模倣するなど、悪趣味な人類だ』
ウルが鼻を鳴らして一蹴すると、男は隠す気もない底知れぬ笑みを浮かべ、コロの前に立った。
「申し遅れたね。私がこの地を治める、アールマン辺境伯だ。……君たちのように優秀な『テイマー』に、少しばかり頼みたい仕事があってね」
「仕事、ですか?」
『フン。騙し討ちのように接してきたヤツがよく言う。寝言は寝床でしか聞かんぞ』
最初に騙すように話しかけてきた事がよほど気に入らなかったのか、ウルがマズルを顰めたままそう言い放つ。
すると、アールマン辺境伯は不快がるどころか、底しれぬ笑みを深め、その眼光をウルへ、そしてコロへと交互に向けた。
その視線は、単なる貴族のものではない。
極上の武具の『瑕疵』を値踏みするような、冷徹でねっとりとした観察者の目。
「寝言は寝床で――はは、これは手厳しいね。どうかそんなに構えないで欲しい」
『ぬぅ、コイツ――「この子が失礼しました。人類ではありませんので、どうかご容赦を」
コロはウルのマズルにサッと手を乗せ、その口を物理的に塞いだ。
鼓動が、僅かに跳ねる。
しまった、とコロの思考が警鐘を鳴らした。
本来、テイミングによって魂を縛られた『従魔』の自我は、主の魔力によって平定され、従順な獣へと作り変えられる。
しかし、主であるはずの自分が最敬礼をしているにも関わらず、背後の従魔が平然と貴族に向かって牙を剥き、あまつさえ人類と同等の知能で皮肉を吐き捨てている。
この不自然極まりない状況は、素人なら「しつけのなっていない獰猛な魔物」で済むかもしれない。しかし――
「私はね、テイマーとしての心得があるんだよ」
辺境伯のその一言で、コロの危惧は確信へと変わった。
「……そのようですね。大変失礼いたしました」
「聡明そうな君なら、私の意図が理解できるかな」
辺境伯は、ウルの首に巻かれた赤いバンダナを意味ありげに見つめている。
『この魔物は、本当に君の従魔なのか?』――そう暗に突きつけられたも同然だった。
ここで下手に躱せば、彼は領主の権限で『違法な魔物の連れ込み』として、ウルの徹底的な調査に乗り出してくるかもしれない。
決して表情を崩そうとしないアールマン辺境伯に、キュッと結ばれていたコロの唇に、ほんの僅かに力が籠もる。
そんなコロの仕草をジッと見ていたウルの唸り声が止まる気配はない。
「……要件を伺います」
「感謝するよ。旅路というものは、常に平穏であったほうが良いだろうからね」
従う以外の選択肢を巧妙に奪い去り、作り物のような笑みを浮かべるアールマン辺境伯。
「では行こうか、レディ?」
コロは氷藍色の瞳を静かに伏せ、心の中で深くため息をつきながら、効率と妥協の天秤を傾けるしかなかった。
街の喧騒から隔絶された、辺境伯の別邸。
豪奢な調度品に囲まれた応接室で、上質な茶器から立ち上る湯気を挟み、一人と一匹はアールマン辺境伯と対峙していた。
「ここは人払いが出来ているよ」
手に持ったティーカップから漂ってくる紅茶の香りを楽しみながら、アールマン辺境伯は言葉を継いだ。
「単刀直入に言おう。君たちに『他人の従魔を強奪する脱法テイマー』の排除を依頼したい」
辺境伯の切り出しに、コロは静かに耳を傾ける。
「最近、この街道沿いでタチの悪い輩が横行していてね」
「タチの悪い輩ですか」
「ああ。強力な睡眠魔法で主ごと眠らせ、従魔の契約を違法な手段により強制的に上書きして奪い去るという手口だ。……そこでだ。極上のアッシュウルフを連れた、可憐で無防備そうに見える少女。これ以上ない『最高級の撒き餌』になってくれないかな」
「私たちが、囮になるということですね」
底の知れない笑みを浮かべたまま、辺境伯は紅茶を口に含み、音もなく一口飲んでから再び口を開いた。
「その通り。もちろん、タダとは言わない。報酬として、アイゼン霊峰の『永久通行証』を即時発行しよう。今後の君たちの旅が、劇的に快適になる魔法の紙だ」
その提案に、コロの足元で控えていたウルが低く、地鳴りのような唸り声を上げた。
『おい。俺が餌になるのは勝手だがな。コロに万が一の事があれば、俺はこの街の人間を端から食い殺して更地にすることになるぞ』
「ウル、静かに」
コロがウルのマズルを軽く叩いて宥めると、辺境伯はティーカップを置き、ふふっと楽しげに笑った。
「君の相棒は随分と過保護で、血の気が多い。だが、困るな」
辺境伯の目が、スッと細められる。
「ここアールマン辺境伯領だけでなく、この王国自体、テイミングしていない魔物を町に入れるのは限りなくグレーなことだ。私の言葉一つで、白にも黒にもなる、といった現状かな」
「…………」
「君の相棒が、実はテイマーと従魔の関係ではない件について、公にするのは忍びないんだけどね」
それは、明確な脅迫だった。
ここで断れば、ただちに騎士団を動かし、「違法な魔物の持ち込み」として徹底的に排除するぞという宣言。
コロは氷藍色の瞳を冷たく光らせ、脳内で効率の計算を弾き出す。
ここでこの領主と全面衝突すれば、指名手配犯として王国全土を敵に回すことになる。
「……なるほど。国によって入国できない場所が出来てくると、色々と不便ですからね」
『おい、コロ』
「ウル」
『……チッ』
不機嫌さを僅かに滲ませながらも、コロが了承の意を示すと、辺境伯は満足げに頷いた。
「分かってくれて嬉しいよ。安全性は保証する。君たちが連れ去られた後は、私が用意した小型の『隠密ワイバーン』に乗せた諜報員が、空から確実にアジトを特定するからね」
「隠密ワイバーン。随分と金のかかる手駒をお持ちで」
「実のところ、最近思わぬ『臨時収入』があってね。そのお陰で、こういった手配がとても楽に出来るようになったというわけさ。後は誰が囮になって確実に一網打尽にするか。そこだけが足りなかったんだ」
臨時収入。
アールマン辺境伯。
その言葉の響きから、つい先日、森の奥で惨たらしく捨てられていたマリアの血の匂いが漂ってきた気がして、コロは思わず目を細めた。
「……一つ、お伺いしても?」
「なんだい?」
「なぜ、私たちでなければならなかったのですか?」
「ふむ」
「騎士団の腕利きを偽装させるなり、金で雇った傭兵を使うなり、他にも手はあったはずです。それに、正面から金銭や名誉を提示して依頼をすればいいものを、なぜ最初からこのような手段を選んだのですか?」
コロの率直な問いに、辺境伯の張り付いたような笑みが、初めて僅かに歪んだ。
それは歓喜の歪みだった。
「ふふっ……君は素晴らしいね。そこが気になるわけだ」
辺境伯は身を乗り出し、陶酔したような瞳でコロを見つめた。
「もちろん、他の手はいくらでもあった。騎士を使うのも、傭兵を雇うのもね。しかし……それでは『美しくない』だろう?」
「……美しくない?」
「私の理想とする盤上において、駒は最もふさわしい位置に、最も自然な形で置かれなければならない。脱法テイマーの異常な欲望を引きずり出すには、騎士の不自然な偽装や、安い傭兵の使い古された魔物ではダメなんだ。野生の誇りを完全に残した極上のアッシュウルフと、それを連れた無防備な少女。これほど彼らの食指を動かす完璧な『芸術』はない」
辺境伯は自らの言葉に酔うように両手を広げた。
「そして、金や名誉で動くような俗物は、途中で欲をかいて私の盤面を台無しにする。だからこそ、私が完全に『支配』できる確実な鎖が必要だったんだ。君たちのその美しくも脆弱な『秘密』という鎖がね」
ただの効率主義者ではない。
自分の思い描く完璧な盤面と美学のためなら、他者の命も尊厳も平然と使い潰す、純度の高い狂気。
『…………イカれている』
「ウル」
「ふふ、それでこそ魔狼の頂点に君臨する、誇り高きアッシュウルフだね」
辺境伯の言葉を受けても、ウルのマズルが緩むことはない。
しかし、そんな仕草すらをも、辺境伯は気に入っているようだ。
「……計画をお伺いしましょう」
「ああ。では、作戦の細かい手順を詰めようか」
互いに腹の底を見せないまま、冷ややかな毒餌の契約が結ばれた。
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