最強の絆と、一振りの毒牙 3 〜一振りの毒刃と、身の丈に合った幸せ〜
3.
「もういいわ! 貴方みたいに器の小さな男、こっちから願い下げよ!」
言い争いは、ついに決裂の時を迎えたようだ。
激昂したジャンが「勝手にしろ!」と吐き捨て、苛立たしげにマリアに背を向けた。
『器が小さいのはどっちもだろうが……』
「まぁね」
その瞬間だった。
風切り音すらなく、冷たい銀閃が走る。
「……え?」
ジャンの口から、間抜けな声が漏れた。
彼の分厚い背中――歴戦の傭兵の鍛え上げられた筋肉を、マリアの握る刃こぼれ一つない新品の短剣が、柄の根元まで深々と貫いていた。
『おい。殺したぞ』
「いやぁ、そこまでするのかって感じだね……」
『だな。阿呆だ』
一人と一匹は茂みに潜んだまま、小さいため息をついてしまう。
「あ……?お、おい……」
「ごめんなさいね、ジャン」
「マ、リア……どう、して……?」
「貴方が邪魔なのよ。アールマン辺境伯様は、魔石を持参すれば、私を側室に迎えてくれると約束してくださったの」
口から大量の血を吐き出し、ゆっくりと崩れ落ちるジャン。
「貴方が爵位を貰うならあるいは、って考えていたようだけれど」
その瞳にあるのは怒りではなく、最後まで信じていた愛する女の凶行が理解できないという、純粋な『絶望』だった。
「って、もう聞こえていないわね」
マリアは足元に転がる『かつて愛した男』の骸に一瞥もくれず、血の付いた短剣を冷酷に草の葉で拭うと、ジャンのカバンの中から、金貨が入っているであろう膨れ上がった革袋を抱きしめ、足早に森の出口へと去っていった。
後に残されたのは、かつて「愛の力」で怪物を屠った無敵の戦士の、物言わぬ骸と、むせ返るような血の匂いだけ。
コロとウルは、冷たい木陰からその『愛の終焉』をただ黙って眺めていた。
「人類が言うところの『愛』は、諸刃の剣だね……」
コロの声は、風に吹かれて散る木の葉よりも軽かった。
フンと鼻で笑うウルに向け、コロは言葉を継いだ。
「人類がここぞという時にさ、途轍もない底力を発揮することが出来る、強力な武器でもあるんだけどね」
『いとも簡単に腐って駄目になってしまうのは、武器として致命的過ぎる弱点だ』
「そうだね。昨日までの守るための剣が、今日は心臓を貫く毒刃に変わったってわけだ」
『フン。腐って駄目になっても、また直ぐに次の『運命』とやらが舞い込んでくるのが人類だろうがな。あの女、伯爵に見初められたとかほざいていたな。腕のいい薬師を探すのよりもお手軽なことだ』
「でも、たまにあの変異種のレッサードラゴンすら倒してしまうんだから。……侮れないから、凄いよね」
面倒事を嫌う一人と一匹は、ジャンの遺体に近づくこともなく、静かにその場を離れた。
そして何事もなかったかのように、夕方になるまで森の奥で黙々と薬草採取を続けるのだった。
空が再び茜色に染まり始めた頃。
目的の薬草を十分に集め終え、町へと帰ろうと獣道を歩いていた一人と一匹の鼻に、強い血の匂いが漂ってきた。
先ほどのジャンのものとは違う、もっと新鮮で、むせ返るような内臓の匂いだ。
『……おい、コロ。あそこだ』
ウルの視線の先。
森の入り口に近い街道沿いの茂みの中で、数匹の大型の魔物が車座になって何かを貪り食っていた。
淡褐色に黒い斑点模様のある、ハイエナによく似た醜悪な姿。
しかしその体躯はフォレストウルフよりも一回り大きく、何よりその顎は、魔物の骨さえ容易く噛み砕くほどに異常に発達している。
森の死体漁りとして知られる、大型の魔物『クラッシュジョー』の群れのようだ。
くちゃり、くちゃりと生肉を咀嚼し、バリバリッと骨を粉砕する、下品で湿った音が夕闇の森に響き渡る。
「お邪魔して悪いんだけど、随分と良いご馳走にありつけたみたいだね」
コロが声をかけると、食事に夢中になっていたクラッシュジョーたちが、血に染まった顎を上げて一斉に振り返った。
喉の奥でグルグルと威嚇の唸り声を上げ、その醜悪な顔を歪める。
しかし、コロの背後に立つウルの、圧倒的な上位種の気配に気づいた瞬間、彼らの唸り声は、ヒュンヒュンという情けない悲鳴へと変わった。
本能的な恐怖に全身を震わせ、尻尾を巻いて平伏する。
彼らが貪り食っていたのは、無惨に引き裂かれた『人間族の女性の肉体』だった。
そして、その肉塊の傍らに転がっていたのは、血に染まった真新しい短剣と、引きちぎられた豪奢な女物の革鎧の切れ端。
間違いなく、数時間前にジャンを刺殺し、意気揚々と森を去っていったマリアの遺留品である。
「それ、君たちが狩ったの?」
コロの問いかけに、群れのリーダー格であろう一番大きなクラッシュジョーが、ウルの存在に怯えながらも、唸り声で答えを返してきた。
『チ、チガウ……!オレタチ、狩ッテナイ……!』
『動物ノ馬ガ、走ル箱ヲ引ッ張ッテキテ、ココニ止マッタ!』
『ソノ中カラ、デカイ人類ガ二匹、コイツヲ放リ投ゲタ!ポイッ、テ、捨テタ!』
『動カナカッタカラ、オレタチ、ココマデ引キズッテキテ食ッテル! 凄ク新鮮デ、美味イ肉!』
クラッシュジョーは、ご馳走を独占できる喜びと、目の前のウルへの恐怖で、複雑に身をよじらせながら、再びマリアだった肉塊に噛み付いた。
アールマン辺境伯家にとって、平民上がりの傭兵など初めから正妻に迎える気はなかったのだろう。
高額すぎる報酬も、爵位も、ましてや側室の地位も、全てを自由民に差し出したくはなかったのかもしれない。
口封じのために馬車の中で殺され、ゴミのように森へ不法投棄された、成れの果てに見える。
「……そっか。よかったね」
『フン。手軽に乗り換えた『運命』とやらに、あっさりと食い殺されたわけか。滑稽すぎて欠伸が出る』
ウルは忌々しそうに鼻を鳴らすと、マリアの残骸から視線を外し、さっさと町の方角へと歩き出した。
コロもそれに続く。
後ろからは、ただただ魔物たちの下品な咀嚼音だけが響き続けていた。
すっかり日が落ちた頃。
コロとウルはいつものように薬草店のカウンターにいた。
「いやぁ、今日も極上品ばかりだねぇ!はいよ、約束通り色を付けておくよ!」
ホクホク顔の店主は、銀貨を多めに弾んでくれた。
コロが代金をバッグに仕舞うと、店主は思い出したように声を潜め、ニヤニヤと笑いながら口を開いた。
「そういえば、あの二人!」
「ああ、『双剣のつがい』のこと?」
「そう!結局さ、辺境伯様から爵位を貰うことで話がまとまったみたいだね」
「へえ、そうなんだ」
「さっき、ギルドの役人が酒場で言いふらしてたんだってさ」
「なんて?」
「なんかさ、二人揃って王都の辺境伯様の屋敷へ向かったってさ。いいねえ、自由民から一気に貴族かい。まさに絵に描いたようなサクセスストーリーだねぇ!」
店主は、彼らが今頃、豪奢な馬車の中で幸福の絶頂にいると信じて疑わない様子だった。
森の奥で一人は背中から刺され、もう一人は魔物の餌として咀嚼されていることなど、この平和な町の住人は誰も知らない。
「……そうだね。羨ましい限りだよ。ま、金蔓もいなくなったようだし、私たちは明日の朝、次の街へ行こうかなと思う」
「そうかい。コロとウルにはたっぷり儲けさせて貰ったよ!そうそう、ちょっと待ってなよー?」
そういうと、店主は小走りで店の奥へと引っ込んでしまった。
『なんだ?』
「……さあ?」
思わず目を見合わせるコロとウル。
やがて、店主が大きな包みを持ってカウンターへ戻ってきた。
「血抜きしちゃってる肉なんだけどさ、今朝買った新鮮なやつだから、餞別としてやるよ!」
『ほう……!』
全く想定していなかった、店主による気前のいい餞別にウルの気だるそうだった尻尾がピンとそばだち、口角が僅かに吊り上がった。
この思わぬプレゼントに、コロもついつい小さく笑ってしまった。
「嬉しいよ。ふふ、ウルも凄く喜んでる」
「なんだかんださ、身の丈に合わない報酬とか爵位よりもさ、コロとウルからそんな可愛らしい反応を引き出せたって事実のほうが、よっぽど嬉しいよ!」
肩をすくめてカラカラと笑う店主に、ウルもクツクツと笑い、コロもクスッと声を出して笑ってしまった。
『クハハ!一本取られたな!』
「そうだね、一本取られちゃったよ。でも、その通りだね。妬みや嫉みじゃなくてね、身の丈に合った暮らしが一番だと思うよ」
「元々、手元にあった莫大な富を奪われたのなら、そりゃあ怒り狂うだろうけどさ、初めから持ってないものなんて、無い方が案外幸せに暮らせるもんだよ」
店主から包みを両手で受け取ったコロは、その言葉にゆっくりと頷いてみせる。
「賢く生きるコツ、だね」
「ああ、そうさ?元気に暮らせよ」
「うん。おじさんもね」
コロは氷藍色の瞳を伏せ、静かに微笑んで薬草店を後にした。
その夜。
宿のベッドに身を横たえながら、コロは天井を見つめてポツリと呟いた。
「ウル。明日、朝一番でこの町を出ようか」
『……同感だ。酒も、人間の噂話も、酷く不味い』
「大した計画もなしに、派手に稼ぐとどうなるのか……典型的な例だったね」
『そうだな。差し詰め、自由気ままな連中に、金も地位も名誉も、くれてやるはずの何もかもが惜しくなったんだろうな』
「だと思うよ。私たちにはウルがいるから、ああいう末路は辿らないけれど、それでもやっぱり慣れない稼ぎ方は自重すべきだね」
絶対的な静寂の中、一人と一匹は目を閉じる。
明日にはまた、次なる宛のない旅路が始まる。
※ ※ ※
深い、深い眠りの底。
コロの意識が沈み込んだ先にあるのは、時間も重力も、現実の埃っぽさや血生臭さも一切存在しない、透明で無機質な『真っ白な聖域』だった。
鼻腔をくすぐるのは、ひたすらに甘く清らかな花の蜜のような香りだ。
「おかえりなさい、私の可愛いコロ」
漆黒の長い髪をふわりと漂わせ、空気に溶けるような純白のドレスを纏った美しい女神が、慈愛に満ちた穏やかな微笑みを浮かべて待っていた。
「ただいま。例の話、進展があったよ」
現実世界での落ち着き払った振る舞いはどこへやら。
コロは真っ先に、女神の柔らかい胸の中へと飛び込んだ。
女神は愛おしそうにコロの小さな身体をきつく抱きしめると、その美しい銀髪を優しく撫でつける。
コロは完全に安心しきったように目を細め、女神の膝にゴロンと頭を預けた。
「あの二人組の話ね?」
「そう。昨晩までは夢を語り合っていたってところまでは話したよね」
「ええ、そうね。でもそのレッサードラゴンは変異種だったんでしょう?」
「うん。案の定さ、自分の器に合わない莫大な富と地位に目が眩んだみたいで、昨日まで愛し合っていた相手をね、女の人のほうが裏切って刺し殺しちゃったよ」
「あら、そう……」
コロの報告を聞いた瞬間、女神の声の温度が絶対零度まで下がる。
「路傍の蟻が、自らの身の丈に合わぬ蜜を舐めようとして溺れ死んだ――そんなところかしら」
「それだけじゃないんだ。どうやらね、辺境伯自身も女の人を騙していたみたいでさ、帰り道で殺されて、クラッシュジョーの群れの糧になっていたよ」
「とても醜い結末になってしまったのね。でも、とても人類らしい結末とも言えるわ」
そこに在るのは、命の重さなど微塵も感じていない、神としての絶対的な冷酷さと無関心。
しかし、その無機質な眼差しがコロに向けられた瞬間、再び狂気的なまでの愛情と熱を帯びる。
「でも、コロは違うわ。他者の醜い業に巻き込まれることなく、需要と供給を見極めて、己の分を弁えて賢く生き抜いている」
女神はうっとりとした熱い吐息を漏らし、コロの頬を両手で包み込んで、すりすりと自分の頬を擦り寄せる。
コロを肯定し、その存在の全てを甘やかす、絶対的な庇護者としての姿がそこにあった。
「大袈裟だよ。薬草店の店主のおじさんも、そのへんを楽しみつつ、冷静に見極めていたもん」
「ふふ、プレゼントを貰って喜んでいたわね」
「なんだ。全部見てたんじゃないの」
「見ていたけれど、コロの口から話しを聞きたいの」
「そっか、嬉しいな。ま、やっぱりさ、身の丈に合った暮らしが一番だと思った。それに、お肉を貰えたのは素直に嬉しかったよ」
コロにとって、この絶対的な安全地帯で女神にその日一日の出来事を報告する時間は、何よりも落ち着く一番の楽しみだ。
「そうね。コロ、あなたはそれでいいのよ」
「うん、そうだね。いい勉強になったよ」
女神の甘い香りと途方もない温もりに包まれながら、コロは再び明日からの宛のない旅路を歩いていくための活力を、心の底までたっぷりと満たしていくのだった。
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