一人と一匹と、寄り道 〜鱗磨きの対価と、せっせと進む蓄財〜
1.
眼下に広がるのは、果てしなく続く純白の雲海。
地表のあらゆる喧騒を、分厚い雲の蓋で完全に閉じ込めたかのような、絶対的な静寂と冷気を孕んだ高山地帯の最頂部。
空気を切り裂くように吹き荒れる強風は、雪に覆われた鋭い岩肌を撫でるたびに、ヒューヒューと甲高い風鳴りを上げている。
視線を上に向ければ、人類はおろか動物も、魔物も、草木さえも姿を見せない死の領域『霊峰』の頂はすぐ目の前。
その頂へと続く最後の急斜面を踏み破り、ザクッ、と硬い氷の層を踏み砕く重々しい足音が響き渡った。
灰褐色の身体を揺らしながら登りきったのは、アッシュウルフのウルだ。
彼の頑丈な革製のハーネスの両側には、パンパンに膨れ上がった大きな麻袋や木箱が括り付けられており、一歩歩くたびにギュウギュウと革の軋む音を立てている。
王宮から受け取った最高品質の魔結晶の箱に加え、これから会う『旧友』のメンテナンスに使う特製の巨大ブラシやら、薬草を調合した特製オイルやらが大量に詰め込まれているのだ。
ウルは山頂の平らな岩場に前足をかけると、ブルブルと力強く全身を振り、毛並みに付着した霜と氷の粒を周囲に撒き散らした。
「ふぅ、ようやく着いたね」
ウルの横を歩いていたコロは、大きく伸びをして、薄く冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
見上げれば、遮る雲一つない群青色の空が、宇宙の深淵に届きそうなほど高く、澄み渡っている。
雲海を照らす太陽の光は暴力的なまでに眩しく、雪原を乱反射して目を焼くようだが、そこに温度は一切感じられない。
『相変わらず壮観だな』
「だね。いつ見ても綺麗な景色だ」
そして二人の目の前には、霊峰の頂をすり鉢状に大きくえぐり取った、巨大なクレーターのような窪地が姿を現す。
古龍の放つ異常な高熱によって岩肌はガラス状に融解しており、ツルツルと鈍い光を放っている。
その表面には、山脈を引き裂くような巨大な爪痕が幾筋も刻み込まれている。
長きにわたり、神話の時代から生きる強大な『古龍』が自身の熱と質量で岩盤を削り出して作った、圧倒的なスケールの寝床である。
スゥ、ハァ、とクレーターの底から息がゆっくりと吐き出されるたび、地鳴りのような重低音が足の裏から骨を直接揺らしてくる。
極寒の山頂であるにもかかわらず、窪地の底からは火山脈のような熱気が立ち昇り、空気を陽炎のように揺らめかせていた。
『そして、相変わらず寝ているな』
「活発に動き回らないからね」
『よし、降りるか』
「うん、降りよう」
融解して滑りやすくなったガラス状の斜面を、コロは小さな手足を使って慎重に降りていく。
対照的に、ウルは重い荷物を背負いながらも、僅かな岩の出っ張りを蹴ってふわり、ふわりと羽毛のように軽やかに飛び降りていく。
2.
ガラス状に融解した斜面を下りきり、すり鉢状のクレーターの底に辿り着くと、そこには眩い光を放つ『黄金の小山』が鎮座していた。
一枚一枚が大盾ほどもある分厚く美しい金色の鱗は、太陽の光を浴びて神々しい輝きを放っている。
頭部には天を突くような立派な二本の角が雄々しく生え揃い、圧倒的なまでの力と威厳を纏っていた。
しかし、神話の時代から生きる絶対強者たるその古龍は、長い尾で顔を隠すように丸まり、スゥ、ハァと規則正しい寝息を立ててすやすやと眠りこけている。
「おーい、起きて。遊びに来たよー」
コロが親しげに声をかけると、ピクッと黄金の角の付け根が動き、巨大な瞼がパチリと開かれた。
現れたのは、深海のように透き通った金色の瞳。
『ん……?おお、コロか……』
寝ぼけ眼でコロを認識した古龍は、ズズン……と地鳴りを響かせながらムクリと身を起こした。
そして、天に向かって山を飲み込むほどに大きな口を開け、鋭い牙を剥き出しにして豪快なアクビを一つ。
そのまま太い前足をググーッと前方に突き出し、お尻を高く上げて……まるで犬のように気持ちよさそうに背中を伸ばした。
バリバリッと関節の鳴る音が、落雷のように山頂に響き渡る。
『フン。その様子だと、俺たちが前回ここを発ってから今まで、殆ど寝ていたようだな』
『うむ……。そうかそうか、もうお前たちが来る時期だったか……』
ウルの呆れたような声に、古龍はふぁぁと二度目のアクビを漏らすと、ドスッと重々しい音を立ててその場にどっかと座り込んだ。
「ふふ、おばあさん、また一段と鱗がくすんじゃってるね。とりあえず魔結晶を預ける前に、いつものように身体を綺麗にするね」
コロはそう言うと、背負っていた年季の入ったリュックサックを肩から外し、斜めがけのバッグと一緒にゴトリと岩場に降ろした。
続いて、ウルの頑丈な革ハーネスの留め具を器用に外していく。
『重さは感じていなかったつもりだったが、いざ降ろすと身軽になった気分だな』
「魔導具で出した水が飲めれば、こんな重たい思いをする必要はないんだけどね」
『フン。魔力にあてられるぞ』
両脇に括り付けられていたパンパンの麻袋や木箱が、ドカドカと重量感のある音を立ててガラス化している地面に並べられた。
拘束から完全に解き放たれたウルは、ふぅ、と小さく息を吐いて身体を軽く揺らす。
『さて、始めるか。ばあさん、少し翼を広げてくれ。付け根のあたりに古い角質がびっしり張り付いているぞ』
『うむ……すまんな。年を取ると、どうにもそのあたりの皮が硬くなって、痒うて敵わん』
古龍――おばあさんは、地鳴りのような低い声を漏らしながら、片方の巨大な黄金の翼をゆっくりと持ち上げた。
その下側には、長年の眠りの間にこびりついた岩塩や、硬化してひび割れた古い鱗の残骸が、まるで貝殻のようにびっしりと張り付いている。
ウルは手際よくおばあさんの懐へと潜り込むと、自身の鋭く頑丈な前足の爪を立てた。
――ガリガリ、ガリガリッ!
山頂に硬い金属を削り合うような小気味よい音が響き渡る。
ウルの爪は、古龍の美しい本鱗を傷つけることなく、表面の不要な汚れや古い角質だけを正確に、そして豪快に削り落としていく。
ウルの爪が動くたびに、火花のような火粉と、白い粉塵がパラパラと雪のように舞い落ちた。
「よしよし、いい感じだね。じゃあ、私は後ろから追っかけるね」
ウルの後を追うように、コロも小さな身体を躍動させてメンテナンスに加わる。
リュックから取り出したのは、剛毛で編まれた特製の巨大ブラシと、何種類もの薬草を煮詰めて作った特製の天然オイルだ。
コロはウルがガリガリと削り落とした後の、新しく露出した黄金の鱗にオイルをたっぷりと塗り込んでいく。
オイルが染み込むと、くすんでいた大盾のような鱗が、まるで磨き上げられた一級品の金貨のように、本来の瑞々しく神々しい輝きを取り戻し始めた。
「神々しさに磨きが掛かっていくね」
『毎度すまんな』
「これはやり甲斐のある作業だからね。やっている方も気持ちが良くなるよ」
コロが両手でブラシを握り、体重をかけてゴシゴシと磨くたびに、黄金の光がクレーターの壁にキラキラと乱反射する。
『ふぅ……おお……そこだ、そこが良い。ウルの爪は相変わらず良い塩梅に痒いところに届くのう……。コロのオイルも、ひんやりとして実に心地よいわ……』
おばあさんは、世界を滅ぼしかねない巨体をだらしなく弛ませ、金色の瞳をうっとりと細めて極楽の吐息を漏らすのだった。
「そういえばさ、今回霊薬を渡しに行った人類の国のお城でね」
古龍の背中側へと回り込み、巨大なブラシでゴシゴシと磨きをかけながら、コロは思い出したように口を開いた。
「また今回も、王様が子供たちを試したんだよね。あの小瓶一つしかない霊薬をどう使うかって」
『ほう。して、人類の子供たちは何と答えたのだ?』
「一人はね『自分の派閥の将軍を治す』って言って、もう一人は『隣国の皇帝の病気を治して恩を売る』って言って、王様の目の前で醜い取っ組み合いの喧嘩を始めちゃったんだよ」
コロが呆れたように言うと、おばあさんは喉の奥をゴロゴロと鳴らした。
『フハハハ……!相変わらず、人類というものは面白い生き物よな。己の寿命が百年にも満たぬというのに、さらにその中の数年、数十年の権力を得ようと必死に足掻きおる』
『フン、全くもって滑稽だ。見ているこっちが欠伸を噛み殺すのに苦労したぞ』
ウルも前足の爪を動かす手を止めずに、鼻で笑う。
「でもね、二番目の王子様だけは違ったんだよね」
『ふむ。どんなふうにだ?』
「うん。ちゃんとね、『国が傾くような未曾有の事態のために温存すべきだ』って答えんだ。『当たり前じゃないですか』ってね。だから、その子が次の王様になるみたい」
『ほう、それは賢い子だ。だが、それもまた人類の面白きところよ。どれほど賢き王が立とうと、数世代もすればまた必ず愚かな血が混ざり、同じ争いを繰り返す。我らからすれば、まるで季節の巡りのように規則正しい喜劇よな』
「あはは、季節の巡りかぁ、確かにね。私たちが行くたびに、いつも同じような顔をして、同じような喧嘩をしてるもんね」
何千、何万という人類の生死と国家の興亡を見届けてきた古龍と、長きを歩む一人と一匹。
彼らにとって、ドゥルス王国で繰り広げられた凄惨な王位継承のドラマすら、鱗磨きの合間の『ちょっとした笑い話』に過ぎないようだ。
やがて、すり鉢状のクレーターに夜の帷が降りる頃には、メンテナンスはすっかり完了していた。
『うむ……大儀であった。見事な腕前よ』
おばあさんがゆっくりと立ち上がり、ブルブルと全身を振るう。
磨き上げられた巨大な黄金の鱗が擦れ合い、シャラシャラと美しい金属音を奏でた。
くすみが完全に取れたその神々しい姿は、まさに空に浮かぶ二つ目の太陽のようだった。
「どういたしまして。じゃあおばあさん、いつもの『箱』を出してくれる?」
『うむ、わかっておる』
古龍が長大な尾をゆっくりと退かすと、その下敷きになっていた岩の窪みから、月明かりを受けて僅かな光が溢れ出した。
そこにあったのは、人類の歴史そのものを買えるほどの『無価値な金銀財宝』の山だった。
過去にこの霊峰に挑み、散っていった愚かな英雄たちの遺品である魔剣や聖鎧。
あるいは、古龍を信仰するかつての古代国家が捧げたであろう、王冠や宝石の数々。
しかし、コロはそのお伽話のような財宝の山には目もくれず、宝の山に無造作に半分埋まっていた『ただの古びた木箱』をよいしょ、と引っ張り出した。
「あったあった。さてさて……」
パカッと蓋を開けると、中にはこれまでの長い旅路で集めてきた、色とりどりの大小様々な魔結晶が、まるで子供の宝箱のようにゴチャゴチャと詰め込まれている。
コロはリュックから王宮で受け取った最高品質の魔結晶を取り出すと、その木箱の中にコロン、と放り込んだ。
「後はちょくちょく集めたヤツも仕舞っておこうかな」
そう言いながら、リュックサックの中から古びた革の袋を取り出し、ジャランと木箱の中に放り込んだ。
「よし、これでまた少し貯まったね」
『こうして見ると、なかなか溜まったもんだな』
「塵も積もればなんとやら、だね」
コロは満足げに木箱の蓋を閉じると、再び人類の至宝の山の中へと無造作に押し込んだ。
そして、古龍の巨大な尾がそれを再びすっぽりと覆い隠す。
いかなる大盗賊であろうと、いかなる大国の軍隊であろうと、この『貸金庫』を破ることは絶対に不可能であろう。
『して、コロよ。次はまた同じくらいで来るのか?』
「んー、次はどうだろう……霊薬のサイクルが早まりそうだけど、あんまり早くきすぎても、おばあさんの鱗を磨く楽しみがないから、また同じくらいに来ようかな」
『そうかそうか。また、次目覚めた時がちょうど良い頃合いかもしれぬな。ほれ、今日はもう遅い。ここで寝ていくといい』
古龍は再び長い尾で顔を覆うやいなや、すぐに、スゥ、ハァと、地鳴りのような規則正しい寝息を立て始めた。
「世界で一番安全な野営だね。ここは凄く暖かいし」
『ばあさんが寝返りを打たなければ、な』
「はは、流石にそれはないでしょ」
再び訪れた、絶対的な静寂と冷気。
極寒の山頂にあって、古龍の放つ心地よい熱に包まれるような位置で、一人と一匹は静かに眠りにつく。
途方もない時間を歩み、いずれ来る『その時』のために。
こうして今日も、コロはせっせと蓄財にはげむのだった。
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