賢王の遺産と、愚者たちの天秤 4 〜次期国王の器と、不変の魔結晶〜
4.
己の底黒い欲望を見透かされ、完全に玉座への道を絶たれた第一王子のヴェルナーと第一王女のローザリンデ。
もはや自力で立つことすらできず、侍従たちに両脇を抱えられて『白百合の間』から引きずり出されていった。
分厚いオーク材の扉が重々しい音を立てて閉まると、部屋には再び、ウルの退屈そうな欠伸と、コロとラミディナーヤが焼き菓子を齧る微かな音だけが残された。
「……さて」
沈黙を破ったのは、当代の国王だった。
彼は玉座に深く腰を掛け直すと、一人残された第二王子、ゲオルグを見据えて静かに口を開いた。
「見事であったぞ、ゲオルグ。私欲に囚われず、王家の宝を『国家の未曾有の危機』のために温存すべきというお前の判断。まさに王の器にふさわしいものだ」
「……恐れ入ります、父上」
ゲオルグは恭しく頭を下げた。
しかし、その表情にはテストに合格したという歓喜の色はなく、どこか落ち着き払っていて、淡々としたものが漂っている。
「どうしたんだい?兄と姉を退け、次期国王の座を確固たるものにしたというのに、ずいぶんと冷静ではないか」
前女王が面白そうに目を細めて尋ねると、ゲオルグはゆっくりと顔を上げ、テーブルの上に置かれた『星刻の霊薬』の青白い光を真っ直ぐに見つめた。
「……お恥ずかしい話ですが、温存すべきというのは本音であると同時に、『ある確信』があったからです」
「ほう? 確信、とな?是非、聞かせてくれ」
国王が眉を動かす。
ゲオルグは静かな声で言葉を紡いだ。
「ええ。私がまだ幼かった頃より……王宮の薬師や、高位の司教すらもが匙を投げるような大病や大怪我が、一晩にして完治する様を何度か目にしてきました。幼心には『奇跡』だと思っておりましたが、成人して政務に就くようになれば分かります。あれらの寛解は、どう考えても普通の医療や治癒魔法の範疇を逸脱している、と」
「…………ふむ」
「父上や母上は説明を濁しておられましたが、私はある推測をしました。かつて王家に齎されたという神話の霊薬は、王族だけでなく、忠実な家臣にも恩賜できるほど『潤沢』にあるのではないか……あるいは、ごく微量の処方で、絶大な効果を及ぼすのではないかと」
ゲオルグの論理的な推論に、国王と前女王は顔を見合わせ、声を出さずに小さく笑った。
「ですから……今日、ギルドの使者がこの『たった一つの小瓶』が入れられた箱を取り出した瞬間、私は確信したのです。この小瓶一つで、数十年に渡り、忠誠を誓う家臣たちにもすら使えるくらい……『僅かな一滴だけで十分なのだ』と」
「ふむ」
「ですから、純粋に、混じり気のない『王国のためを思って』か?と言われれば……」
「はっはっは!見たか、母上!」
国王が膝を叩いて豪快に笑う。前女王もまた、満足げに深く頷いていた。
与えられた情報をただ鵜呑みにするのではなく、過去の事象から真理を導き出す知性。
それこそが、一国の民を導く者に最も必要な資質なのだ。
「若かりしグスタフ王子の生き写しを見ているみたいだね」
コロは紅茶の入ったティーカップを傾けながら、感心したように呟いた。
そんなコロの言葉に、ゲオルグは初めてコロとウルの方へと向き直り、そして信じられないものを見るように父王へと視線を移した。
「父上も……四十年前、私と同じ推論を?」
「ああ、そうだとも。お前と全く同じ違和感を抱き、全く同じ推論を立て、そして、全く同じように打算を交えて答えた。……純粋無垢なだけの善意など、一国の王には猛毒でしかないからな」
国王は威厳に満ちた玉座からゆっくりと立ち上がり、分厚い真紅の絨毯を踏みしめて息子の前まで歩み寄ると、その両肩に力強く、誇らしげに手を置いた。
「与えられた情報から真理を導き出し、それを最も効果的な手札として切る。その計算高さと、大局を見据える冷徹な目こそが『王の器』なのだ。ゲオルグ、見事であったぞ」
父からの真っ直ぐな称賛と、王としての初めての承認。
その言葉を受けた瞬間、ゲオルグの肩から張り詰めていた糸がスッと切れ、その端正な顔にようやく年相応の安堵の笑みが広がった。
そして、ゲオルグは改めてコロとウル、そしてサフィーヤの方へと向き直り、深く、深々と頭を下げた。
「……コロ殿、そしてサフィーヤ殿。未熟な私を試し、我が国の行く末を正しき道へと導いていただいたこと、次期国王として心より感謝申し上げます」
『フン、俺たちはただ婆さんの荷物持ちをして、人間の小賢しい身内喧嘩を見せられていただけだがな』
ウルが大理石の床で尻尾をバタンと鳴らしながらそっぽを向き、代わりにコロがウルの言葉を柔らかく翻訳した。
それを聞いたゲオルグは微かに目を細め、静かに微笑んだ。
王族たちのドロドロとした権力闘争と選別の儀式が終わり、魔石シャンデリアの眩い光に照らされた『白百合の間』に、ようやく穏やかな風が吹き抜けたような気がした。
「……それじゃあ、私たちはそろそろ行くね。たぶん次は今までの半分のスパン、二十年後くらいになるかも」
王宮から用意された、眩い光を放つ最高品質の魔結晶。
それをリュックサックに無造作に放り込みながら、コロが思い出したように告げた。
「へっへ、二十年後じゃあ、さすがのアタシも生きてるか分からんさね。次はアタシじゃなくて、このひ孫のラミディナーヤが鑑定士として来るかもしれないよ」
「えっ、あ、サフィーヤのひ孫のラミディナーヤですっ……!」
サフィーヤが隣で震えるひ孫の肩をポンと叩き、冗談めかして笑う。
急に話を振られたラミディナーヤの緊張は頂点に達しているようだ。
そんな和やかな別れの空気を遮るように、ゲオルグが一歩前へと進み出た。
その瞳には、次期国王としての強い使命感と、純粋な疑問が宿っている。
「……コロ殿。最後に一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ん?何?」
「なぜ、あのような神話クラスの霊薬を、我がドゥルス王国に齎してくださるのですか?」
ゲオルグの真剣な問いかけに、白百合の間に僅かな緊張が走る。
しかしゲオルグは言葉を継いだ。
「他にも大国や、豊かな国はいくらでもあるはずです。……なにか、我が国に選ばれるだけの特別な使命や、王家に連なる深い理由があるのでしょうか」
ゲオルグは固唾を呑んで、不老の少女の口から語られるであろう『神話の真実』を待った。
しかし、コロはきょとんと小首を傾げた後、あっけらかんと言い放った。
「んー、立地的に一番効率が良いから、かな」
「…………え?」
あまりにも肩透かしな返答に、ゲオルグが間抜けな声を漏らす。
「森から出て一番近い豊かな国だしね。それに、話が分かるサフィーヤもいるから、いちいち本物かどうかって説明する手間が省ける。あとはもう何度かお世話になってるから、過剰に畏まる必要がないのが一番楽なんだよね」
「えっ、あ、いや……しかし、国宝級の……」
壮大な使命でもなんでもなく、ただの『便利な取引先』という身も蓋もない理由。
狐につままれたような顔で絶句する息子を見て、グスタフ王は堪えきれずに吹き出した。
「はっはっはっは!ゲオルグよ、そういうことだ!我々がどれほど神聖視しようと、彼らにとっては『ただの通り道にある、都合の良い得意先』に過ぎんのだよ!」
「ち、父上……しかし……」
豪快に笑う王と、未だに現実を受け止めきれない第二王子。
グスタフ王は目尻の涙を拭うと、満足げにコロたちを見つめ返した。
「二十年後となれば、ゲオルグの子供たちもまだ幼かろう。次はコロが居ない時に、ゲオルグが自身の子供たちを試す形になりそうだな」
「そうだね。その時は頑張ってね」
コロが軽く手を振ると、グスタフ王は玉座の前で深く、深々と頭を下げた。
それは、一国の主が決して見せることのない、最大級の敬意と感謝の礼だった。
「コロ殿、ウル殿。我が王家、いや、ドゥルス王国を代表し、心より御礼を申し上げる。彼方からの恵み、確かに頂戴いたしました」
「うん。こっちも、普段じゃお目にかかれないような品質の魔結晶も貰えるしね。そんなに畏まらなくていいよ。……じゃあ、またね」
『フン。せいぜい、次の器を見誤らないことだな』
コロとウル、そしてサフィーヤとラミディナーヤは、王宮の最奥を後にする。
彼らが去った後の『白百合の間』には、ただ静かな、そして確かな希望に満ちた夜の空気が流れていた。
夜の帳が完全に下りた王都の裏路地。
石畳を照らすのは、雲の切れ間から覗く青白い月明かりと、まばらに灯る街灯だけだ。
王宮の豪奢な喧騒から離れ、一人と一匹と別れ、静寂を取り戻した夜道を歩きながら、サフィーヤはポツリとラミディナーヤへ昔語りを始めた。
「――アンタの母親の、エスタナーヤがアンタより少し若かったくらいの頃にね、コロとウルがフラッとこの王都までやって来たのが始まりさ」
「え?お母さんが……今の私くらいの時に?」
「ああ。驚いたよ。いくら大半の魔物が恐れ慄くアッシュウルフを連れているとは言え、コロが自分の腕を見せるために持ってきた薬草はね……このアタシも人生で一度も見たことが無かったような代物が、全くケチのつけようがない品質で出てきてねぇ」
カツ、カツと杖をつく音を響かせながら、サフィーヤは懐かしむように三つ目の眼を細める。
「まんまと当時の薬師ギルドから紹介状を手に入れてね、アタシが王宮まで連れて行ってやったのさ」
「今回と一緒だ……」
「でね、当時のヘルマン王は、重い病で左半身が不自由でね。それを、ただの一滴で完全に治しちまったのさ。……で、当時の王様から『報酬はいくら欲しいか』と聞かれて、コロは『魔結晶が欲しいな』と答えたんだよ」
サフィーヤはそこで足を止め、振り返ってひ孫を真っ直ぐに見据えた。
「いいかい、ラミディナーヤ。白金貨や、王宮の地位や、広大な土地ではなく……魔結晶を敢えて欲しがる理由がわかるかい?」
「えっと……魔結晶は、魔法の触媒としてすごく価値が高いから……?」
ラミディナーヤの自信なさげな答えに、サフィーヤは静かに首を横に振った。
「いいや、そうだけど、そうじゃない」
「じゃあ、なに?」
「人の世が移り変わろうと、王朝が滅びようとね……『唯一、永遠に価値が変わらないとされている代物』なんだよ、魔結晶は」
サフィーヤの言葉を頭の中で反芻しているのか、俯いたまま黙りこくるラミディナーヤ。
そんなひ孫の様子を見て微笑みながら、サフィーヤは言葉を継いだ。
「あの子たちが生きている途方もない時間の中じゃ、人類の作った金銭や地位なんてもんは、朝露みたいに儚いものなのさ」
その言葉の重みに、ラミディナーヤは息を呑み、高く遠い夜空を見上げた。
「なぜ魔結晶なのか……ですか?」
「うむ。その意味が分かるか、ゲオルグ」
主を失った二つの椅子が物悲しく残る『白百合の間』。
魔石シャンデリアの光が少しだけ落とされ、深い静寂に包まれた室内で、グスタフ王は静かに問いかけた。
白金貨の山でも、広大な領地でもなく、ただ『最高品質の魔結晶』だけをリュックに詰め込んで去っていった、あの謎めいた少女の意図を。
ゲオルグは、自らの手元に残された冷めた紅茶の波紋を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……金貨や紙幣は、国が滅びればただの金属と紙切れになります。地位や領地も、人の権威が及ぶ範囲でしか意味を成さない。国が滅びればその全ては、なくなってしまいます……しかし、魔結晶だけは違います」
「どう違う?」
「はい。たとえ時代がどう移り変わろうと、どれほど人の世が変転しようとも……そのものが持つ根源的な価値は決して変わらない」
ゲオルグの脳裏に、コロとウルの無関心な瞳が蘇る。
「彼らのような、永遠とも呼べる時を歩む者たちにとって……我々人類が築き上げた富や権力など、あまりにも脆く、儚すぎるのでしょう。だからこそ、不変の価値を持つ魔結晶を求めた……」
その完璧な推論に、グスタフ王は深く、重々しい吐息を漏らした。
「いかにも。我らが誇るこの強大なドゥルス王国すら、彼らの目には『いずれ滅びゆく、砂の城』に過ぎないということだ」
豪奢な玉座の肘掛けを撫でながら、グスタフ王は自嘲気味に目を伏せる。
王族としての絶対的な権威も、血を洗うような権力闘争も、あの少女と魔狼にとっては、ほんの一瞬の暇つぶしにも満たない。
前女王とその王配、そして王妃も口を閉ざしたまま、ジッとゲオルグの目を見つめている。
「……だが、だからといって我々が悲観することはない。彼らが求めた『不変の価値』を利用し、この砂の城を盤石な岩の城へと変えた偉大な先人がいるのだからな」
グスタフ王は立ち上がり、壁に飾られた巨大な歴代王の肖像画――ひときわ鋭い眼光で描かれた、偉大なる賢王ヘルマンの姿を見上げた。
「ゲオルグ。お前は、我が国がなぜ周辺諸国から一度も侵略を受けることなく、これほどの平和と繁栄を築き上げることができたか、その真の理由を知っているか?」
「それは……歴代の王たちの巧みな外交と、強固な国境警備の賜物かと……」
「建前はな。だが、真実は違う」
グスタフ王は振り返り、テーブルに残された木箱を指差した。
「今から百二十八年前。当時のヘルマン王は重い病により左半身が完全に麻痺しておられた。そこへ現れたあのコロという少女が、霊薬のたった一滴で王を完全に治癒せしめた。……そして、四十年後にまた同じ霊薬を持って来るから、その時は魔結晶を用意しておくようにと言い残して去ったのだ」
「では、その約束を果たすために……?」
「ああ。ヘルマン王は、手元に残された『奇跡』の使い道を考え抜かれた。そして……周辺諸国や帝国の皇族、あるいは上位貴族が不治の病や大怪我を負った際、極秘裏に使者を送り、この霊薬で次々と治癒して回ったのだ。……法外な『最高品質の魔結晶』を治療費として要求してな」
ゲオルグの目が驚愕に見開かれる。
その時になって初めて、彼は曽祖父の恐るべき戦略の全貌を理解した。
「そ、それでは……」
「そうだ。恩を売るなどという生易しいものではない。周辺諸国からすれば、我が国は『いざという時に自分たちの命を救ってくれる、唯一無二の命綱』となったのだ。ドゥルス王国に牙を剥けば、二度とその恩恵には与れない。それどころか、霊薬を独占しようと抜け駆けする国があれば、他の全ての国が結託してそれを滅ぼしにかかる」
窓の外に広がる、戦火とは無縁の平和な王都の灯り。
その穏やかな夜景の裏には、霊薬という劇薬を用いた、血の凍るような冷戦の均衡が保たれていたのだ。
「結果として、互いが互いを牽制し合い、我が国には絶対に手を出せないという『完璧な抑止力』が完成した。それと同時に、コロ殿との約束を満たすための魔結晶も、世界中から我が国の金庫へと集まってきたというわけだ」
グスタフ王は誇らしげに胸を張り、しかしどこか呆れたような息を吐いた。
「次期国王の選出が、なぜこんな騙し討ちのような形になったのか、よく分かっただろう?」
「え、ええ……」
「うむ。ヴェルナーやローザリンデのように、自国の将軍一人や、隣国の皇帝一人を治した程度で満足するような矮小な器では、到底この国は背負えん。……世の中には、知らなくていい事もあるのだよ、ゲオルグ。我々はただ、先人たちが遺したこの砂の城を、一日でも長く保たせるために足掻くしかないのだ」
夜の闇に沈む王都を見下ろすように、王宮の最奥には、人間という種族の限界と哀愁、そして王としての矜持を孕んだ静かな溜息だけが溶けていった。
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