賢王の遺産と、愚者たちの天秤 2 〜紹介状と、ドライな誠実さ〜
2.
分厚い扉が閉まり、完全に『他の耳』がなくなった空間。
外の喧騒が嘘のように遮断された静寂の中、ギルド長リンデマンが探るような、それでいて期待に満ちた熱い視線を向けてくる。
「もったいぶらずに出すね」
コロはリュックサックの奥に手を入れると、まずは数本の草花――淡く発光する『竜脈草』や、幻のように透き通った『幻月花』――をテーブルの上に無造作に並べた。
「な……ッ!?り、竜脈草に、幻月花!?これだけでも国宝級の……!」
「それはおまけだよ。本命はこっち」
コロはベルベットの布地に包まれた小さな木箱を取り出し、テーブルの上にコツンと置いた。
箱の蓋が開かれた瞬間、薄暗い応接室の空気が一変した。
ただの光ではない。
まるで澄み切った冬の夜空をそのまま小瓶に閉じ込めたかのように、青白く冷涼な輝きが部屋の隅々にまで波紋のように広がり、壁や床に無数の星屑のような陰影を踊らせた。
「な……ッ!?こ、こっ……これは……!!」
「これは『星刻の霊薬』。王都の薬師ギルドで頭を張っているなら、知ってるでしょ?ハイエルフの最高傑作だよ」
リンデマンは椅子から転げ落ちそうになり、顔面を蒼白にしながらクリスタルの小瓶を見つめた。
それは、いくら金があっても決して市場には出回らない、神話クラスの至宝と言っても過言ではない。
「ば、馬鹿な……書物の中でのみ語られるような代物だぞ……?今日初めて会ったような小娘が、おいそれと持ち込めるようなものでは……!」
「信じられないなら、この王都で最も腕利きの鑑定士にまわしてもいいよ。もちろん、この部屋でね」
コロの提案に、リンデマンはゴクリと生唾を飲み込み、震える手で室内の壁に備え付けられた紐をグイグイと引っ張った。
程なくして、部屋を訪れた職員に何やら指示を出すリンデマン。
それから更に数十分経った後、ただならぬ空気を察した数人の護衛に付き添われるようにして、一人の鑑定士が部屋に招き入れられた。
腰の曲がった、ヨボヨボのエルフの老婆だった。
長く尖った耳は重力に従うように垂れ下がり、顔は樹皮のように深い皺が刻まれている。
しかし、半開きの瞼の奥から覗く瞳だけは、針のように鋭い理知的な光を宿していた。
そして、普通のエルフとは異なり、額に三つ目の眼がある。
「……リンデマン坊や。アタシをこんな奥の部屋まで呼び立てるとは、よほど面白いものでも持ち込まれたのかい?」
「サフィーヤ婆様。あ、あの箱の中身を……いや、言葉にするのも恐ろしい。とにかく鑑定をお願いしたい」
エルフの老婆――サフィーヤは、リンデマンの只事ではない様子に眉をひそめながら、テーブルへと歩み寄ろうとし……ふと、その傍らに立つ一人と一匹の姿に気がついた。
「やあ、サフィーヤ。久しぶりだね」
コロが軽く片手を上げて微笑むと、サフィーヤは細い目をカッと見開き、そして深い溜息をついた。
「なんだい、コロとウルかい」
「まだサフィーヤが現役でホッとしたよ」
『フン。お前がくたばっていた時の為とか言って、俺はその亀の鱗を背負わされたんだぞ』
不機嫌そうに鼻を鳴らしながらウルがそうボヤいてソッポを向くと、サフィーヤはカラカラと笑い声を上げた。
「へっへっへ!相変わらず失礼だね!まぁだまだ現役だよ!」
「ふふ、とにかく、これですんなり事が運びそうだね」
心底ホッとしたようにコロが胸を撫でろしていると、サフィーヤが再びため息をつき、狐につままれたように呆然としていたリンデマンに向けて口を開いた。
「坊や。鑑定するまでもない。全部本物だよ」
「なっ……!?サ、サフィーヤ婆様……?まだ中身をよく見ておられないではないですか!」
すがりつくようなリンデマンの言葉に、サフィーヤは樹皮のような顔に刻まれた皺をさらに深くして、カカカッと笑った。
「見る必要なんてないさね。この子が、わざわざ偽物なんていう『つまらないもの』を持ち込む理由がないんだよ。……坊や、あんたはこの子が、ただの『凄腕の採取家の子供』にでも見えているのかい?」
「あ、えっ……ち、違うと……?」
リンデマンが息を呑むと、サフィーヤは額の三つ目の眼をゆっくりと見開き、コロとウルを畏敬の念を込めて見つめた。
「アタシがまだ『美人のサフィーヤさん』なんて呼ばれてさ、男どもをブイブイ言わせてた頃から、この子とそこのデカブツは、全く同じ姿で世界中を歩き回っていたのさ。長寿のトリロスエルフ族であるアタシが、こんなヨボヨボの婆さんになっちまったってのにねぇ」
「な……そんなっ……!?」
長寿の代名詞であるエルフ系の種族が老衰していくほどの途方もない時間を、微塵も姿を変えずに生きている存在。
防音結界に守られた静寂の中、己の早鐘のような心音だけがリンデマンの鼓膜を打ち据える。
余計なノイズが入ってこない快適なはずの室内が、突如として底知れぬ深海に沈められたかのような、息苦しいほどの重圧と恐怖に包まれていた。
商人の勘どころか、生物としての本能が「目の前の存在は、人類の物差しで測ってはいけないバケモノだ」とけたたましく警鐘を鳴らしている。
「た、たしかに……霊薬のせいで見落としていたが、竜脈草も、幻月花も……凄まじい品質だ……!」
リンデマンが冷や汗を流して固まる中、コロはへたり込むサフィーヤを一瞥してから、木箱の蓋をパタンと閉めた。
「さて。サフィーヤの保証もついたことだし、本題に入ろうか」
圧倒されるギルド長を真っ直ぐに見据え、コロは淡々と告げる。
「鱗や薬草はともかくとして、これをギルドで買い取るのは無理でしょ?もし金庫に入れたが最後、今夜にでも国内外の暗殺者や盗賊団が押し寄せてきて、ギルド長も命がないかもしれない。……だから、この国で一番権力と財力がある場所――『王宮』へ行くよ」
コロはニコリと笑い、テーブルの上にポンと指を叩いた。
サフィーヤもクツクツと笑いながらも口を開く。
「前々回も、前回もそうしたのさ」
「ギルド長。この霊薬を王宮の偉い人に献上するための『紹介状』を書いてほしいな。そうすれば、ギルドで霊薬を抱え込むリスクはない。……なのに、『国宝級の至宝を王家に導いたのは薬師ギルドの長だ』ってことになって、ギルド長は王族にものすごい『貸し』を作れるんじゃないかな?」
コロの悪魔のような囁きに、リンデマンはハッと息を呑んだ。
ただの子供だと思っていた目の前の『何か』は、王都の権力構造やリスクヘッジすら完璧に計算し尽くしている。
王家に対する『計り知れない貸し』と、他のギルドを完全に圧倒する絶対的な権威。
自分はただ一筆の手紙を書くだけで、厄介な防衛のリスクを王宮の近衛兵に丸投げしつつ、その全てを手に入れることができるのだ。
「……くっ、ふふ……っ。なんという……なんという恐ろしい……」
「さっき見せた亀の鱗と薬草は、ギルド長の言い値で買い取っていいよ。紹介状を書いてくれたお礼と、あと……サフィーヤが現役でいてくれたお祝いってことで」
「へっへ、相変わらず気前がいいねぇ」
サフィーヤが嬉しそうに目を細める傍らで、リンデマンはもはや完全に毒気を抜かれ、ただただ圧倒されるしかなかった。
それは、商人として這いつくばってでもすがりつきたい、絶対に断れない取引だった。
『……本当に、恐ろしいほどのあくどさだな。アイツが知ったら泣いて喜ぶぞ』
「ふふ、それはカシムさんからの最高の褒め言葉として受け取っておくよ」
ウルの呆れたような唸り声に小さく微笑みながら、コロは激しく頷き続けるギルド長から、王家直属の紋章が入った最高級の『紹介状』を無事に手に入れるのだった。
「おい、坊や。余計な気を回すんじゃないよ」
無事に紹介状も手に入り、部屋から出ようとした際、リンデマンが慌てて「王宮までの護衛を」と申し出たのを、サフィーヤは手にした杖でピシャリと制した。
「し、しかし……!」
額の第三の眼を僅かに開け、背後に控える灰褐色の巨体を顎で指す。
「このアッシュウルフのウルが居たら、人類の護衛なんざいらんさね。むしろ、そいつらが粗相をしてこのデカブツに噛み殺されないか心配した方がいいよ」
『フン、よく分かっているじゃないか、婆さん』
ウルが喉の奥で満足げにガルルと鳴らすと、リンデマンはそれ以上何も言えなくなり、ただただ深々と頭を下げることしかできなかった。
ギルドの重厚な扉を抜けると、王都の目抜き通りは燃えるような茜色の夕暮れに沈みかけていた。
石畳が蓄えた昼間の熱気と、夕餉の支度から漂う微かな薪の匂い。
西日に照らされた白亜の城壁が長く濃い影を落とし、家路を急ぐ商人たちの靴音や荷馬車の車輪の音が、一日を終えようとする人間の営みの儚さと、どこか切なくなる響きを持って通りを満たしている。
久しぶりに鱗を降ろして身軽になったウルの尻尾が、こころなしか機嫌良さげに揺れる中、杖をついてゆっくりと歩くサフィーヤが、ふとポツリとこぼした。
「……次にアンタたちがこの街へ来る頃には、アタシはもうこの世にいないだろうねぇ」
その声は悲観するものではなく、ただ自然の摂理を受け入れた穏やかなものだった。
長寿のエルフであっても、抗えぬ寿命の終わりは確実に近づいている。
「どうかな」
夕日を見つめながら、コロが淡々と答える。
「ハイエルフたちもね、緩やかに滅びに向かっているから。今までのスパンで訪ねたんじゃ、もう彼らの身体が持たなくなってきているんだよね」
「……ほう?」
『俺達が行った時にちょうど見かけた次の長の器など、赤子なのに既に瀕死寸前だったぞ』
コロとウルの言葉に、サフィーヤが少しだけ微笑んだ。
「だからね、次は今までの半分……二十年くらいで、また来るんじゃないかな」
コロの言葉に、サフィーヤは歩みを止めずに、カラカラとしゃがれた声で笑った。
「へっへ……二十年かい。まあ、それでもアタシが生きてるかは五分五分ってところさね。……王宮へ行く前にうちへ立ち寄ろうか。アタシの後継者のひ孫に、アンタたちを紹介しておくよ。あの子も、アタシと同じ『眼』を持ってるからね」
「うん、そうしてもらえると助かるよ。サフィーヤが生きているうちに顔合わせをしておいた方が、次に来た時、すんなりと事が運ぶからね」
感情の起伏の少ないコロの合理的な答え。
普通の人類であれば冷たいと憤るかもしれないそのドライな言葉選びこそが、途方もない時間を変わらずに生きてきたコロなりの『誠実さ』なのだと、サフィーヤはよく分かっていた。
『これで次は邪魔くさい鱗を背負う必要はないということだな』
「ウルにとっては重たくなんてないでしょ」
『そうではない。あれを背負って森の中を歩いてみろ。あちこちぶつかって、イライラして気が狂いそうになるぞ』
「へっへっへ、相変わらず可愛げのない口の利き方だこと。……さあ、急ごうか。日が暮れる前に、人類の『欲の皮』の見本市を終わらせちまおうじゃないか」
サフィーヤはカツ、カツと杖を鳴らし、王宮へと続く石畳を歩き出す。
『そのひ孫とやらは、俺の言葉が分かるか?』
「どうだったかね、たしか勉強中だよ」
『フン。下手なことは言えんな』
「ふふ、よくそれを気にするけど、ウルが大人しくしていれば良いだけの話だよ」
『人類が俺の言葉を理解しているとは知らず、ついつい、あれやこれやと喋っていたら、俺が間抜けみたいだろう』
吹き抜ける夜の気配を含んだ風が、サフィーヤの白い髪とコロの銀髪をふわりと揺らす。
一人と一匹、そして一人の老エルフという、途方もない時を歩み続ける者たちの影が、燃え尽きる直前の夕日に照らされ、黄金色に染まる石畳の上へと長く、長く伸びていった。
王都の目抜き通りから一本路地に入った、静かで古びた石造りの長屋。
その一角にあるサフィーヤの自宅の扉を開けると、薬草と古紙の混ざり合った、薬師ギルドと同じ匂いがした。
「ラミディナーヤ!急な話で悪いけど、今から出かけるよ!パパっとめかし込んで支度しな!」
サフィーヤが玄関から声をかけると、奥の部屋からパタパタと軽い足音が聞こえ、一人の若いトリロスエルフの少女が顔を出した。
淡い金糸のような髪に、まだあどけなさの残る顔立ち。
そして何より、彼女の額にはサフィーヤと同じく、しっかりと開いた『三つ目の眼』があった。
「もう!急に何の話……って、ひゃあっ!?」
ラミディナーヤと呼ばれた少女は、玄関からぬっと顔を突っ込んだウルの巨大な鼻面に気付き、短い悲鳴を上げて尻餅をついた。
「驚かせてごめんね。私はコロで、こっちの大きいのがウル。……サフィーヤと同じ『眼』を持ってるってことは、あなたが次の鑑定士だね」
「こ、コロ……ちゃんに、ウル……くん?」
腰を抜かしたままコクコクと頷くラミディナーヤを見て、ウルが呆れたように鼻を鳴らす。
『……おい、婆さん。本当にこんな小娘で大丈夫なのか?』
ウルの低い唸り声が僅かに響いた瞬間、ラミディナーヤはビクゥッと肩を震わせ、今度はウルの顔をまじまじと見つめ返した。
「こ、小娘……!?私、これでも三十歳なんですけど!!」
『チッ。おい、サフィーヤ。俺の言葉がバッチリ分かるじゃないか』
「ははは、ウル、また間抜けみたいに喋りすぎないようにね」
クスッと笑いながらウルの頭をポンポンと叩くコロ。
ブスッとマズルを顰めるウルを見て、サフィーヤはカラカラと笑い声を上げる。
「へっへ、まだまだ半人前だけどね、素質だけはアタシ以上さね。……いいかい、ラミディナーヤ」
サフィーヤは杖をついて屈み込み、震えるひ孫の肩に優しく手を置いた。
「よーく覚えておくんだよ」
「な、何を?」
「この一人と一匹が持ち込む品に、絶対に偽物はない。もし次、アンタがアタシの跡を継いでギルドの鑑定席に座っている時にこの二人が来たら、黙って王宮への紹介状を書くよう進言なさい。……それが、私たち一族の『一番大切な仕事』だよ」
「い、一番大切な仕事……?うん……」
ラミディナーヤはまだ状況を飲み込みきれていない様子だったが、曽祖母の真剣な眼差しと、目の前の少女と魔狼が放つ『只事ではない気配』を感じ取り、ゴクリと生唾を飲んで深く頷いた。
「うん、これで安心だね」
「よし!これから王宮に行くよ!王族に会うから、パッと着れる中で一番マシな服装をしてきな!」
「うん……う――えっ!?お、王宮!?」
「ほれ!急いで!!」
ひっくり返ったような悲鳴を上げ、慌てて着替えに走るひ孫の後ろ姿を見て、サフィーヤは悪戯っぽくカラカラと笑う。
外の石畳はすでに茜色から深い藍色へと沈みかけ、夜の冷たい風が吹き抜け始めていた。
何百年も変わらない『いつもの儀式』に、今回は騒がしい見習いを一人加えて。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




