賢王の遺産と、愚者たちの天秤 1 〜小高い丘と、目的のための手土産〜
1.
停滞の果てに緩やかな滅びを待つ『白亜の里』を後にし、再び鬱蒼とした大森林のさらに奥深くへと歩みを進めてから数日後のこと。
一人と一匹は、とある小高い丘の前に腰を下ろしていた。
「――とまあ、南の砂漠地帯の向こうには、そんな巨大な塩の湖が広がっているんだよ」
『ホゥ……!塩の湖とな……』
「うん。海よりしょっぱいんだ。そこではね、水面が鏡みたいに空を反射して、まるで空の上を歩いているみたいに見えるんだよ」
コロの淡々とした、しかし情景を鮮明に思い起こさせるような語り口に、目の前に鎮座する『小高い丘』が、低く地響きのような唸り声を上げた。
『そんな海よりも塩辛い湖で、果たして魚たちは暮らしていけるのか?』
「ははは、さすがに無理みたい。進んで寄り付くのは人類だけだよ」
『ふむ。……なぜ人類だけが寄り付く?』
「その湖の水からね、塩だけを採るんだ。その塩で美味しい料理を作ったり、肉や魚なんかを長い間保存するために使ってる」
『ホゥ!人類は侮れんな……!我がこの大森林に根を下ろしてから、とうに数千の月日が流れたが……外界には、未だに我の知らぬ面白き景色が広がっておるのだな……』
そう。『小高い丘』が喋ったわけではない。
それは、背中に深い苔と太い樹木を生やし、途方もなく長き時を大森林の奥深くで生き抜いてきた、規格外の巨大な亀の魔物だった。
ゆっくりと瞬きをするだけで周囲の空気が揺れるほどの巨体。
その深緑色の瞳には、遥か遠い外界の景色を夢想するような、穏やかで知的な光が宿っている。
『実に有意義な時間であった。小さき狼とその連れよ、我の退屈を大いに紛らわせてくれた礼だ。こんなものでよければ持っていけ』
ズズンッ、と地鳴りを立てて亀の魔物が身震いをした直後。
その背を覆う岩盤のような甲羅の一部から、数枚の分厚い『鱗』が剥がれ落ち、ドスッと重たい音を立ててコロの足元に転がってきた。
それは鱗と呼ぶにはあまりにも巨大で、一枚一枚が金属のような鈍い光沢を放ち、内側に途方もない魔力の残滓を秘めているのが一目でわかる代物だった。
「わあ、ありがとう。大事に使わせてもらうね」
コロはホクホク顔でその鱗を拾い上げると、ウルのハーネスの背中へと手際よく括り付けていく。
『しかし、本当にそんなもので良いのか?』
『ああ、これが良いらしい』
亀の問いに、ウルはため息混じりでそう答えた。
『うむ、そうか。またいつか、縁があれば外界の土産話を聞かせてくれ。……良き旅を』
亀の魔物は満足げにゆっくりと首を引っ込めると、再び深い森と一体化するように、長い長い微睡みへと落ちていった。
木漏れ日すら届かない鬱蒼とした森の奥を、一人と一匹は再び淡々と歩き出す。
しばらく無言で歩いていたウルが、背中に括り付けられた重たい鱗の感触に、忌々しそうに鼻を鳴らした。
『……おい、コロ』
「ん? なに?」
『あんな風に一日中、あれやこれやと外界の話をして機嫌をとってやったというのに。得たものがただの「老廃物」とはな』
ウルの言葉には、隠しきれない不満が滲んでいた。
背負い直す度に、鱗同士が擦れ合うガリッという音が響いている。
亀の魔物にとっては、古くなって自然に剥がれ落ちただけの不要な甲羅の一部。
アッシュウルフであるウルのプライドからすれば、いくら相手が途方もない古竜に匹敵する魔物だとはいえ、丸一日を消費した対価としてはあまりに馬鹿馬鹿しく感じられたようだ。
しかし、コロはウルの不満を気にする様子もなく、むしろ口角を悪戯っぽく吊り上げてニヤリと笑った。
「まぁね。大多数の生命や魔物にとって、これは単なる『ただの老廃物』だよ。食べられないし、硬すぎて加工もできないしね」
『だろう。そんなものを大事に背負わされて、全く……』
「でもね、ウル。唯一、人類だけはこれを『ただの老廃物』とは思わないんだ」
『……ほう?』
コロはウルの背中で鈍く光る亀の鱗をポンポンと軽く叩いた。
「この途方もない年月を生きた魔物の鱗はね、人類の錬金術や鍛冶の技術にかかれば、国宝級の防具や霊薬の素材に化ける。……つまり、目玉が飛び出るくらいの莫大な路銀になるってこと」
『チッ……。またそのあくどい商人のような顔か』
「ふふ、これはハイエルフの霊薬を高く売りつけるための『箔』だよ」
ウルは呆れたように大きなため息をついたが、その表情はどこかコロの抜け目のなさを呆れ半分、感心半分で受け入れているようだった。
先日のハイエルフの里で手に入れた『星刻の霊薬』といい、この古亀の鱗といい、コロのリュックサックには今、うだつが上がらない小国程度なら、ポンと買えそうなほどの途方もない富が詰め込まれている。
「さてと。大森林の奥深くでしか手に入らないような大物は一つ手に入ったし……次は『竜脈草』か、『幻月花』あたりを狙おうかな。あの二つも、王都の薬師ギルドなら喉から手が出るほど欲しがるはずだしね」
コロは頭の中で完璧な「王都への持ち込み計画」のステップを組み上げながら、分厚い腐葉土を踏みしめる。
人類が築いた最も豊かな王都。
これは、その王宮の奥深くへ、誰にも邪魔されずに最も安全なルートで辿り着くための、完璧な下準備のようだ。
『また前回の鑑定士に見せればいいだけの話ではないのか?』
「いくらエルフ系の種族とは言えど、もう死んじゃってるかもだからね」
『そういえば老いぼれだったか。念には念をというわけだな』
「そういうこと。さ、暗くなる前にもう少し奥へ進もうかな」
『フン。せいぜい背中の荷物が、ただの石ころにならないことを祈るばかりだな』
「それはないよ。この鱗一つで、その辺の平民の一生分で稼ぐお金を生み出すからね」
一人と一匹は、軽い軽口を叩き合いながら、何者の侵入も拒むような鬱蒼とした原生林のさらに奥深くへと、その影を溶かすように消えていった。
それからさらに数日経ったある日のこと。
大森林を抜け、さらに幾つかの山野を越えた一人と一匹。
現在、一人と一匹が旅している地方において、最も豊かとされる王国の首都。
そんな首都を守るかの如く、巨大な正門が悠然とそびえ立っていた。
天を突くような堅牢な白亜の城壁と、ひっきりなしに行き交う荷馬車や旅人たちの活気。
しかし、現在その正門付近の喧騒は、不自然なほどにピタリと止んでいた。
入城待ちの列を作っていた商人たちも、槍を手に警備に当たっていた門番たちも、皆一様に目を丸くし、声もなく一人と一匹を凝視している。
無理もない。
巨大な鱗がひとりでに動いているように見えるからだ。
今のウルの背中には、金属のような鈍い光沢を放つ『途方もなく巨大な亀の鱗』が何枚も無造作に括り付けられているので、動力源であるウルの姿は遠くからでは視認するのが難しい。
歴戦の冒険者や商人であればあるほど、その鱗から放たれる尋常ではない魔力の残滓に当てられ、冷や汗を流して立ち尽くしてしまっている。
だが、当のコロは周囲のそんな視線など一切気にする様子もなく、ウルの隣をトコトコと歩いて門番の前へと進み出た。
「こんにちは。入場したいんだけど、通行税はこの子の分も含めて、銀貨五枚で足りるかな?」
コロが淡々と硬貨を差し出すと、門番はビクッと肩を震わせ、ウルと鱗を交互に見ながら引きつった声を出した。
「あ、ああっ……!テ、テイマーの少女だな」
「本業は採取家だけど、まぁそんなところ」
「うむ。従魔の入場証も合わせて、銀貨五枚だ。……し、しかし、その荷物は、一体何の魔物の……」
「さあね。林の奥でちょっと拾い物をしてね。はい、銀貨五枚」
コロはニコリともせずに硬貨を門番の手に乗せると、それ以上の詮索を許さずにさっさと門を潜り抜けてしまった。
『……チッ。ジロジロと鬱陶しい視線だ。これだから人類が密集している場所は好かん』
王都の目抜き通りに入っても、当然ながら道行く人々の視線は一人と一匹に釘付けになっている。
背中の鱗が擦れ合ってガリッと鈍い音を立てるたび、周囲の群衆がビクゥッと肩を揺らして道を空ける。
それはまるで、モーゼの十戒のように、活気あふれる大通りが見事に真っ二つに割れている。
不機嫌極まりないといった様子でマズルに皺を寄せるウルに、コロは歩幅を合わせながら小さく笑う。
「まあまあ、我慢してよ。あの視線も、今回の計画には必要なステップなんだから」
『この見世物小屋の獣のような扱いが計画だと?』
「残念ながらそうだよ。王都に着いた途端、『得体の知れない凄腕の採取家が、とんでもない素材を持ち込んできた』っていう噂が広まる。……これが、あの霊薬を王宮へ直接持ち込むための『箔』になるんだよ」
コロの視線の先には、王都の中心部――様々な巨大ギルドの施設が立ち並ぶ区画が見えてきていた。
「まずは、あそこの一角にある『薬師ギルド』へ行くよ。そこでこの亀の鱗と、ついでに採ってきた『竜脈草』なんかをドサッと見せて、私たちがただの子供と魔物じゃないってことを分からせる感じかな」
『フン。この鱗の価値が分からぬような節穴ばかりであれば、その時は俺が吼えてやる』
「あはは、ギルドを壊さないでよ。まあ、一番偉い人なら絶対に価値が分かるはずだから」
割れた目抜き通りの真ん中を、一人と一匹は堂々と進んでいく。
これから王宮の奥深くへと仕掛ける、したたかで大胆な『商談』の最初のステップを踏み出すために。
程なくして、『薬師ギルド』の看板を掲げた、石造りの剛健そうな二階建ての建物を見つけたコロ。
年季の入った黒鉄の装飾が施された両開きの木の扉を押し開け、ウルの背負った鱗が扉にぶつからないようにするコロ。
建物の中は、すり潰された薬草の青臭い匂いと、薬品が煮詰まる甘酸っぱい匂いが入り混じり、むせ返るような独特の空気が立ち込めていた。
素材の買い取りを求める者たちの荒くれ声と、値踏みする薬師たちの声、そして銀貨が擦れ合う音が絶え間なく響き渡っている。
だが――まるで染み込むように、静かに中へと入っていた一人と一匹の姿に、活気に満ちていたはずのギルド内の空気が一瞬にして凍りついた。
静寂が支配する中、コロが徐ろに声を上げた。
「こんにちは。買い取り、お願いできるかな」
受付カウンターに座っていた初老の鑑定士は、ウルの背中に括り付けられている鱗に釘付けになり、口をパクパクと魚のように開閉させている。
外の太陽の下で見るよりも、薄暗いギルドの屋内で見るその鱗の異質さは、より一層際立っていた。
窓から差し込む僅かな光を吸い込んで鈍く光るそれは、ただの物質ではなく、大森林の最深部で蓄積された途方もない魔力の残滓をじわじわと周囲に撒き散らしている。
ただそこにあるだけで、普通の人類であれば、まるで肺が圧迫されるような錯覚を覚えるほどの重圧だ。
「えっと……買い取ってくれる?難しそうなら、武器とか防具の素材として、鍛冶ギルドへ行こうと思うけど……」
「ま、待て!お待ちください!す、すぐに奥からギルド長を呼んでまいりますので……!」
初老の鑑定士は文字通り転がるようにしてカウンターの奥へと消えていった。
誰かの手からポロリと落ちた薬草の束が、カサリと床に崩れる音だけがやけに大きく響く。
周囲の冒険者や薬師たちは、壁際に張り付くようにして道を空け、ただ事ではないものを持ち込んできた銀髪の少女と魔狼を、畏怖と熱の入り混じった目で見つめながらヒソヒソとさざ波のような会話を交わしている。
ウルは小さくため息をついてマズルを顰める。
数分後には、身なりの良い、しかし目付きの鋭い初老の男――この王都の薬師ギルドを束ねるギルド長が、息を切らせて飛び出してきた。
「お待たせして申し訳ない!私はこの王都エルゲンバルトの薬師ギルドの長を務めているリンデマンという。……す、凄まじい。噂には聞いていたが、まさか本物をこの目で拝めるとは……」
ギルド長はウルの背中に括り付けられた鱗を見入り、震える手でルーペを覗き込んでいる。
その額にはジワリと脂汗が浮かび、瞬きすら忘れたかのように血走った目が、鱗の表面に刻まれた微細な紋様を食い入るように追っている。
息遣いは荒く、長年この王都で無数の希少素材を見てきたはずの男が、完全に我を忘れて魅入られてしまっていた。
そんな様子を冷ややかに見下ろしながら、コロは小さく息を吐いた。
「どう?買い取れる?」
「も、もちろんだとも!ぜひ我がギルドで一括で買い取らせていただきたい!これに見合う支払いならできる!」
興奮冷めやらぬギルド長に対し、コロは周囲のギャラリーを一瞥してから、一歩だけ前に踏み出して声を潜めた。
「あのさ、ギルド長」
「ん、なんだ?」
「……ここは少し、耳が多すぎると思わない?」
「……む?」
「この大森林の特産品は、あくまでね、手っ取り早くギルド長に会うための『手土産』だよ。私が本当に買い取ってほしい本命は、もっと別にあるんだよね」
コロの言葉に、ギルド長の目の色がスッと変わった。
商人の勘が、目の前の少女がただの採取家ではない、とんでもない爆弾を抱えていることを直感したようだ。
「分かった。防音結界を施した部屋へ案内しよう」
「そうだね。そうした方がいいかも」
ギルド長はすぐさま表情を引き締めると、コロとウルをギルドの最奥にある厳重な防音結界が張られた応接室へと案内した。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




