白磁の檻と、停滞の果実 2 〜静かなる滅びと、埃の吹き溜まり〜
2.
一人と一匹が白亜の神殿に足を踏み入れた。
神殿の内部は、外の里の様子と同様に、徹底された無菌の空間だった。
大理石のような材質の床から、高く組まれているアーチ状の天井に至るまで、ところ狭しと大小さまざまな魔法陣が施され、いずれも不規則に点滅を繰り返している。
柱の一本一本には、空気を清めるためなのか、白磁の香炉が備え付けてあり、煙が細く立ち昇っている。
鮮やかな光彩のステンドグラスから差し込む温かなはずの光さえも、冷たく濾過されているかのような錯覚を覚えてしまうほど、神殿の中には『生活』の匂いが一切存在しなかった。
コロのブーツが鳴らずコツコツという音と、ウルの足が鳴らすチャカチャカという爪の音だけが広大なホールに響いている。
広大なホールの最奥。
幾重にも純白の布が引かれた豪奢な寝台に、一人のハイエルフの男が身を横たえていた。
「長、お久しぶり」
あっさりとしたコロの言葉に、この里の長が顔だけをゆっくりと横へ向けた。
長は、薄闇の中でも発光するような美しさを持っている。
しかし、その白い肌には常に微熱による脂汗が浮かび、呼吸をするたびに枯れ木のような胸がひゅうひゅうと痛々しい音を鳴らしている。
「……おお、コロとウルか」
「前回と同じ器かな?」
「いや、一度……変えているな」
「そっか。もう何代目の器なの?」
コロは重たいリュックサックをドサッと床に降ろしながら、長に向けてそう尋ねると、
長は小さく苦笑いを浮かべ、ゴホゴホと咳き込みながらも言葉を継いだ。
「……何百、だろうな……もはや誰しもが、自分が今、何代目かなど覚えていないだろう」
「新しい器ができる前に間に合ったみたいで良かったよ。次はもうちょっと早く来たほうがいいかな」
「いや、期間が開こうが……我らは次の身体へと移ることができる」
長は震える細い手を伸ばし、コロがリュックサックから取り出した『ありふれた薬草の束』を、まるで神の救済でも受け取るかのように大事に抱え込んだ。
「こんな土に塗れた泥臭い草で、熱が下がるのだから……生命とは、つくづく不可解なものよ……」
「そうだね。じゃあ、約束通り報酬をもらうよ」
コロが淡々と手を差し出すと、傍らに控えていた白装束の従者が、恭しく一つの木箱を差し出した。
蓋を開けると、ベルベットの布地に包まれた小さなクリスタルの小瓶が一瓶、鎮座していた。
中に入っているのは、星の瞬きを液状化したかのように眩く輝く『星刻の霊薬』。
一滴で欠損した四肢すら蘇らせると言われる、ハイエルフの魔法技術の最高到達点だ。
『……これほどの奇跡を創り出せる奴らが、熱冷ましの雑草をありがたがる。何度見ても滑稽な等価交換だ』
ハイエルフたちは聞き取ることが出来ない、ウルの言葉を聞き流しつつ、コロが手際よく木箱をリュックサックに仕舞い込んだ、その時だった。
神殿の奥の扉が音もなく開き、数人の白装束に囲まれて、一つの小さな揺り籠が恭しく運び込まれてきた。
寝台で伏せっていた長が、弾かれたように身を起こす。
熱に浮かされた虚ろな瞳に、狂信的とも言える強い光が宿った。
「おお……来たか。見よ、コロ、ウル。それこそが完成したばかりの、次の世代の我が身体だ……」
「長、ここ最近において、最も優れた最高傑作と呼ぶにふさわしい身体です」
「ああ、そうだな……ここまで状態の良い身体は久しぶりに見たぞ……」
コロとウルは、無言のまま揺り籠の中を覗き込んだ。
そこに眠っていたのは、産まれたばかりのハイエルフの赤子だった。
透き通るような白磁の肌、左右対称の完璧な造作。
どこにも欠損のない、まさに芸術品のような仕上がりだ。
だが。
『……おい、コロ』
ウルが、ひどく嫌悪感に満ちた低い唸り声を漏らした。
「うん」
『これは……』
「うん」
赤子の胸の上下は、異常なほどに浅く、そして速かった。
まだ一度も外の空気に触れていないにもかかわらず、その小さな命はすでに目に見えない何かにひどく怯え、ただ呼吸をするという行為そのものに多大な力を消耗しているように見えた。
「満足な身体に仕上がるまで……失敗が多く積み重なる……ようになってしまったな」
完璧な外見とは裏腹に、その内部はすでに致命的なほどに劣化しきっているのは素人目にも分かる。
次代の器は、先代よりもさらに決定的な『免疫の欠落』を抱えて生まれてきているに違いない。
「コロ、ウル……見事だろう。我らハイエルフは、決して……他種族の野蛮な血は交えん。……この完璧な美しさこそが、我らの……存在意義なのだ」
微熱で息を荒くしながら、長は恍惚とした表情で赤子を見つめている。
もはや、彼らの目には『種の存続』など映っていない。
自分たちが緩やかに、しかし確実に滅びへと向かっているという事実から目を背け、『種族としての完璧さ』という脆い虚像に縋り付いているだけだ。
コロは、ただ静かにその光景を網膜に焼き付けていた。
同情も、憐憫もない。
ただ「環境に適応することを放棄した種は、こうして滅びるのだ」という絶対的な自然の摂理を、ただの観測者として確認しただけだ。
「……うん。確認したよ。次は今回より、もっと早く来たほうが良さそうだね」
「そうだな……次の身体も、せいぜい数十年しか保たんだろうからな……」
「覚えておくよ。それじゃあ、私たちはもう行くね」
コロは、狂気に満ちた白磁の檻に背を向けると、一切の未練もなく神殿の出口へと歩き出した。
ウルもまた、忌々しそうに一度だけ鼻を鳴らすと、コロの隣へと並んで歩き出す。
ここに救済なんてものは、欠片も存在しない。
彼らは自ら空気が循環しない檻に入り、その鍵を飲み込んで、静かな滅びを待つことを選んでしまったのだ。
もう彼らに、その檻から出るなどという選択肢は存在していなかった。
白亜の里を抜け、再び鬱蒼とした森の奥深くへと足を踏み入れた瞬間。
むせ返るような森と、名も知れぬ獣たちの濃密な匂いが、一人と一匹を一気に包み込んだ。
『はぁ……』
ウルは立ち止まり、肺の底に溜まっていた無菌室の空気を全て吐き出すように、大きく、深く息を吸い込んだ。
『ひどい悪臭だった』
「でも、あの清潔さだけは、人類の町や村には見習ってほしいかな」
『どっちもどっちだ』
ウルはフンと鼻を鳴らし、その場にどっかりと腰を下ろしてしまった。
『こうして自然の中にいると、心が安らぐ。いつも以上に有り難みを感じられるな』
「ふふ、やっぱり自然の匂いが一番落ち着く?」
『落ち着くというより、我に返る。俺たちは生きていて、いつか死ぬのだという当たり前の事実にな』
木漏れ日が差し込む倒木の上にリュックサックを下ろしながら、コロは小さく頷いた。
「環境が変われば、生き物はそれに合わせて変わらなきゃいけない」
『だな。魔物も、動物も、人類も、な』
「他の種族と血を交わらせて、病気に強くなったり、新しい環境に適応したり。適応できない個体は滅びていく。……そうやって不完全な『次』へ襷を渡していくのが、『生きる』ってことなんだよね」
『だがアイツらは、それを拒絶した』
「うん。変化を『穢れ』だと思って、過去の完璧だった自分自身を永遠に作り続ける道を選んだ。幸か不幸か、その辺の種族とは違って、それが容易にできちゃった」
『『幸』なわけがあるか。『不幸』の方だ』
「ははは……で、その結果が、あれ。外の空気を吸っただけで死にかける、数十年しか保たない、精密過ぎるガラス細工みたいな命だよ」
コロは倒木のそばに手際よく石を組み、拾い集めた枯れ枝で小さな焚き火を作り始めた。
火打ち石から弾け飛ぶ火花が火口に引火し、やがてパチパチとはぜる火の粉が、薄暗い森の中に確かな温もりと『揺らぎ』を生み出していく。
「普通の『エルフ』たちの祖先は賢かったんだね。永遠の命を捨てて、他の種族と交わる道を選んだんだから」
『それを『賢い』と言っていいかは、甚だ疑問だがな』
「寿命はうんと短くなっちゃったけど、今でも大陸中でしぶとく生き残ってる」
『死を排除しようとした連中が最も死に近づき、死を受け入れた連中が種として生き残っている。……皮肉なものだな』
「ホントだね。生きるってことは、変わるってことなのに」
コロはリュックサックの奥から、道中の町で仕入れておいた分厚い燻製肉の塊を取り出した。
焚き火の炎に炙られ、滴り落ちた脂がジュッと音を立てて焦げる。
途端に、暴力的なまでに食欲をそそる、肉と焦げた脂の匂いが森の中に立ち込めた。
『……いい匂いだ』
「だね。腹が減って、大自然の中で脂っこいお肉を食べて、疲れて眠る。それが一番『生きてる』って感じるかな。……はい、ウルの分」
『フン。もっと大きく切っても文句は言わんぞ』
「ふふ、それじゃあ私が文句を言うよ」
ウルは差し出された熱々の肉塊を、鋭い牙で豪快に食いちぎった。
コロもまた、自分の分の肉に齧り付く。
火傷しそうなほどの熱さと、口いっぱいに広がる肉汁の旨味が、二人の身体の隅々にまで生命力を叩き込んでいく。
「薬の匂いばっかりだったから、お腹ペコペコだったんだよね」
『全くだ。あんな檻の中に居ては、飯の味すら分からなくなる。何をしても文句を言われる気がするしな。肩身が狭くて腹が減る』
生命の揺らぎが一切ない、白磁の檻。
そこに残してきた狂信的なハイエルフたちの行く末を、一人と一匹が案じることはない。
彼らは自分たちで選び、自分たちで完結しようとしている。
観測者であるコロたちにできることは、彼らが遺した最高の霊薬を路銀に変え、自分たちの明日を生きることだけだ。
「お腹がいっぱいになったら出発しよう。ここから先は、もっと森深い地帯だよ」
『ああ。今のところは大した気配は感じんな』
「うん。この大森林はさ、大昔にハイエルフが里を作ろうって思い立ったくらいだからね」
一人と一匹は、香ばしい肉の匂いと焚き火の煙を森に残し、再び道なき道へと歩みを進めた。
その背中が、ただ静かな死を待つだけの白亜の里を振り返ることは、ただの一度もなかった。
※ ※ ※
その日の夜。
森の中でウルに包まれるようにして深い眠りに落ちたコロの意識は、人類の重く不自由な器から抜け出し、あっという間に真っ白な聖域へと浮かび上がっていった。
むせ返るような森の匂いも、白亜の里の不気味な無菌の空気も、ここには何も干渉してくることはない。
時間も重力もない、絶対的な静寂。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
空気に溶けるような白いドレスと、夜の闇を切り取ったような漆黒の髪。
聖域に降り立つなり、待ちわびていた女神がふわりとコロを優しく抱きしめた。
「ただいま、女神様」
コロはすっかり甘えるように、女神の柔らかな胸元に顔をすり寄せる。
女神は狂おしいほどの慈愛を込めてコロの白銀の髪を撫で、その頬や額に何度も、何度も愛おしげなキスを落とした。
「今日もよく頑張ったわね」
「ふふ、別に特別頑張ってはいないよ」
「さあ、私の腕の中で、今日のお話を聞かせてちょうだい」
「うん、あのね。今日は久しぶりにハイエルフの里に行ったんだ――」
女神の温もりにすっぽりと包まれながら、コロは今日観測した出来事を淡々と語り始める。
森の奥深くに引きこもり、変化を『穢れ』として拒絶したハイエルフたちのこと。
ホムンクルスで作り上げた器を使い回し、自ら創り出した奇跡の薬すら毒になるほどに劣化してしまった、滑稽で悲しい停滞の結末。
「――変わらないまま生きるなんて、やっぱり無理だと思う」
「そうね。そのとおりよ」
「自分で空気の循環しない檻に入って、外の空気を吸っただけで死んじゃうくらい弱くなってるんだもん。人類って不合理で変な生き物だなって思っちゃう。まぁ……ハイエルフは極端な例だけどね」
コロのドライな報告を聞き、女神の漆黒の瞳に、絶対零度の冷徹さが一瞬、サッと過ぎった。
「ええ、本当に愚かね。命の循環から逃れ、星の砂の一粒が永遠であろうとするなど……滑稽を通り越して哀れでしかないわ。自ら進化の歩みを止めた種など、滅びるべくして滅びる。それは星の砂ではなく、ただの埃の吹き溜まり」
数万年を生きたハイエルフの歴史や、彼らがしがみつく純血の誇りすら、女神にとっては路傍の石以下の無価値なものでしかない。
冷酷な神の視座が、彼らの存在を一片の価値もなく切り捨てる。
だが、女神の視線が腕の中のコロに戻ると、たちまちその瞳は甘く蕩けるような熱を帯びた。
「でも、私のコロはその愚かさをちゃんと理解している」
「流石にね。あれを見て「わぁ、凄いな」「羨ましいな」とは思えないでしょ」
「ええ。自然の摂理を正しく見つめることができるコロは、本当に賢くて、愛おしい子……」
「えへへ……大げさだって言いたいところだけど、人類って『不老不死』が好きだもんね。ああいうのに憧れるのかなぁ」
チュッ、と。再び女神の甘い唇が、コロの額に落ちる。
どれほど世界が狂っていても、どれほど不条理な命の終わりを見せつけられても、この場所だけはコロの全てを肯定し、守ってくれる。
「私にとっては、やたらと値が張る薬をくれる場所でしかないけどね」
「ふふ、そうね。さあ、今日はもう何も考えずにおやすみなさい。よしよし、私の可愛いコロ……」
背中を優しくトントンと叩く一定のリズムが、コロの意識を心地よく微睡みへと誘っていく。
世界から切り離された完全なる庇護の聖域で、コロは絶対的な癒やしを与えてくれる女神の温もりに身を委ねながら、心行くまで子供のように甘え続けるのだった。
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