白磁の檻と、停滞の果実 1 〜ありふれた薬草と、死臭の漂う白亜の里〜
1.
人跡未踏という言葉すら生ぬるく感じるほどの、鬱蒼とした深い森のさらに奥深く。
空を隠してしまうほどの巨大な古代樹が所狭しと乱雑に立ち並び、足元には分厚い腐葉土と、名も知れぬ無数の植物が、まるで絨毯のようにどこまでも広がっている。
むせ返るような濃密な自然の匂いと、どこかから聞こえてくる名も知れぬ鳥の鳴き声や獣の遠吠え。
弱肉強食という絶対的な摂理が支配するその原生林の中を、一人と一匹の影が淡々と歩みを進めていた。
『……おい、コロ』
「ん?」
『一つ聞きたいことがある』
「うん、なに?」
『ここ数日、森の浅瀬や人里の近くで、雑草に毛が生えた程度の、ありふれた薬草ばかりを大量に採取していたな』
「そうだね。お陰でリュックサックがパンパンだよ」
『これから森の最奥へ向かうというのに、なぜあんな効果の薄いものばかりをかき集めていたのだ?邪魔だろう』
先頭を歩くウルの問いかけにコロは、背負ったリュックサックの肩紐を軽く揺らしながら答えた。
「ふふん、実はこれから私たちが向かう場所はね、人里近くにしかないような『弱い薬草』こそ、価値を見出してくれるんだよ」
『弱い薬草を?理解に苦しむな』
「ほら、あれだよ。覚えてない?こういう『弱い薬草』に目がない、さ」
『ぬぅ、勿体ぶるな』
「えー?ウルも知っているはずなんだけどね」
『ん?いや、待てよ……』
一瞬、マズルを顰めたウルだったが、何か思い出したのか、その場で歩みを止めてしまう。
ウルの隣で足を止めたコロが、ウルの背中にポンと左手を乗せる。
「ね、思い出した?」
『さては、例のハイエルフどもだな?』
「正解」
『はぁ、アイツらか。……これほど嬉しくない正解はないな』
フンと鼻を鳴らし、再び歩みを進めるウル。
コロもすぐ後ろをついて歩く。
「まあまあ、そう言わないの」
『そもそも、このような森の最奥に居を構えるのであれば、強力な魔力を持った素材などいくらでも手に入るだろうに。高度な霊薬の一つや二つ、容易に作れるはずなんだがな』
「うん、作れるよ。大陸のどの国の薬師も、束になっても敵わないくらいの、とんでもない霊薬をね。でも……作れることと、彼ら自身が『使える』こととは、全く別の問題なんだ」
コロは肩を竦め、意味深な言葉を口にする。
ウルが訝しげに鼻を鳴らした直後。
目の前を覆っていた鬱蒼とした古代樹の壁が、唐突に途切れる。
「ほら、着いた。ここが今回の納品先、『ハイエルフ』の里」
視界がパッと開けた先には、それまで歩いてきた野性味溢れる森とは完全に異質の空間が広がっていた。
天を突くような美しい世界樹の巨木を中心にして、白亜の石材で精巧に造られた建築物群が、幾何学的な美しさを持って放射状に並んでいる。
建物の壁面には一切の汚れや苔がなく、石畳の道には落ち葉一枚すら落ちていない。
それはまるで、神が気まぐれで創り上げ、ショウケースの中に閉じ込めた『完璧なジオラマ』のような景観だ。
だが、その完璧な美しさを前にして、ウルは毛を逆立て、ひどく不快そうに鼻先に皺を寄せた。
『……相変わらずだな』
「見た目だけは立派だね。ここが出来たのは、気が遠くなるような太古の昔らしいのに、建築様式も魔法技術も、現在の人類とは比べ物にならないくらい優れている」
『俺が『相変わらず』と言っているのはそんなことではない。……ひどい匂いだ。いや、匂いというより、空気が死んでいる』
ウルの黄金の瞳が、白亜の里を鋭く睨みつける。
鋭い視線を向けながらも、唸り声は続く。
『周囲にこれだけ自然が揃っていながら、虫の羽音一つ、鳥の鳴き声一つ聞こえん。生命が蠢く『揺らぎ』が完全に欠落しているぞ』
「まぁ、だね。完璧すぎるね」
『こんな大自然の中にいながら、漂ってくるのは、薬のような死臭ばかりだ』
「前回も、前々回も同じような事を言ってたよ」
『仕方あるまい。異常な方が悪い』
アッシュウルフとして常にコロの隣で生きつつも、命のやり取りと血の匂いを感じてきたウルの嗅覚は、この里が放つ決定的な異常性を即座に見抜いていた。
ここは森の中にあって、森から完全に切り離された無菌室。
あるいは、美しく飾り立てられた巨大な墓標のように映っているのかもしれない。
「まぁ、現に異常だしね。ウルには少し息苦しい場所かもしれないけど、納品が終わるまで少しだけ我慢してね」
コロはウルの不快感を否定することなく、ただ事実として受け入れると、微かな消毒液の匂いが漂う白亜の石畳へと、淡々と足を踏み入れた。
『フン。こういう時だけは、鈍感な人類の器が羨ましくなるな』
「ふふ、それは流石に大げさだよ」
『大げさではない。臭い』
そう言うと、マズルを顰めたウルが、不機嫌そうに尻尾をブンと払った。
白亜の石畳を歩く一人と一匹の足音だけが、不気味なほど規則的に反響する。
すれ違うハイエルフたちは皆、絵画から抜け出してきたように完璧な美貌を持っていた。
しかし、その足取りはどこか幽鬼のように頼りなく、生気というものがそこにはない。
彼らは侵入者であるコロとウルを一瞥することすらなく、ガラス玉のような虚ろな瞳でただ淡々と通り過ぎていく。
すれ違う彼らの肌は、透き通るような白磁そのもの。
しかしそれは美しい白磁とは程遠く、血の通った温もりというものをまるで感じさせない。
誰もが目を奪われるほど完璧な造作でありながらも、同じ鋳型から流し込まれたかのように、彼らには『個体差』というものが極端に薄く感じる。
呼吸の気配すら希薄なその様は、『命ある者』というよりは『精巧に作られた彫像』と言ったほうがしっくり来る。
『……何度来ても、気味の悪い連中だ。生きているのか死んでいるのかすら曖昧に思える』
「どうなんだろうね。現象としては生きているんだろうけど、これを果たして『生きている』って呼んで良いものかどうか」
『前にここへ来た時の、女神の感想はどうだったんだ?』
ウルが周囲を警戒するようにマズルを僅かに下げた。
コロは眉を下げて肩を竦めてしまう。
「女神様は人類に興味がないからね。何を言っていたか忘れたけど、多分大した感想なんてないよ」
『愚問だったな』
その時だった。
前方を歩いていた銀髪の美しいハイエルフの青年が、唐突に激しい咳き込みと共に膝を折った。
青年は苦しげに胸を掻きむしり、大理石の柱にもたれかかるようにしてその場に倒れ伏す。
しかし、周囲を歩く他のハイエルフたちは、倒れた彼を助け起こすでもなく、ただ「またか」とでも言うような無機質な視線を向けるだけだった。
『おい、倒れたぞ』
「だね」
『誰一人慌てていないな』
「前もそうだったじゃない」
『まぁそうだったが……』
やがて、白装束を着た数人の同族たちがどこからともなく現れ、倒れた青年の手首を事務的に掴み、まるで壊れた人形を回収するかのような手際の良さで、担架に乗せて運び去っていく。
一連の出来事に、一切の感情の揺らぎも、取り乱した声もなく、ただ作業として処理されていった。
その所作には、同胞を案じるような熱や焦りは一切ない。
その間、誰一人として声を上げることもなく、ただ規則的な足音だけを残して、白亜の街角へと消えていった。
後には、青年がもたれかかっていた大理石の柱だけが、冷たく沈黙している。
『……あれでどうせ大した病気ではないのだろう?』
首を傾げるウルに対し、コロはあっけらかんと言い放った。
「だね。多分だけど、ただの風邪とかそんなのだよ。ちょっと冷たい風に当たったとか、食あたりを起こしたとか、そんな」
『はぁ……ここまでして生に執着するこの状況に何の意味がある?』
ウルの足がピタリと止まる。
動物や魔物は当然のこと、人類の子供ですら、二、三日大人しく寝ていれば治るようなありふれた症状。
それが、強大な魔力を持つはずのハイエルフをあれほど容易く昏倒させたという事実に、ウルは深いため息をついてしまう。
「意味?まぁ……大した値がつかないような薬草が、途方もない莫大な路銀に化けるって意味ならあるかな」
『まるであくどい商人のような口ぶりだ』
「ふふ、いつぞやのカシムさんのような?」
『アイツが知ったら、目の色を変えて飛びつくぞ。だが、俺はアイツは嫌いじゃない』
「だね。でも、人類でここまで来れる人は殆ど居ないからね」
『ハイエルフ共も、里を作る立地を誤ったな』
「何万年も前に作られた里らしいしさ。人類よりこっちの方が先だから、誤ったとは言い難いかな」
再び歩みを進める一人と一匹。
つい先程、同族が倒れてしまったとは思えないような静けさが里を支配している。
「ま、とにかく。今の彼らには、普通の人類が当たり前のように持ち合わせている免疫力ってものを殆ど持っていない。だから、ちょっとした熱や風邪が、彼らにとっては致命傷になる」
『……もともと、見苦しい小細工をせずとも、寿命という概念すら曖昧な長寿の種族だと思うんだがな』
「そのはずなんだけどね。彼らは千年という寿命ですら短いと感じたんじゃないかな。それが、『死ぬことを拒絶した』ことに繋がっちゃったのかな」
コロは歩みを止めず、道端の完璧に手入れされた花壇を指差した。
そこには、一つとして形の崩れていない、まるで造花のように均一な花が咲き並んでいる。
『花まで狂っているな』
「だね。でも、下手な草花なんて植えた日には、それが原因で全滅しちゃうかもしれないからじゃない?」
『フン。適当な言葉が見つからん』
「長生き過ぎる彼らはね、遥か昔に自然繁殖を捨てたんだ。元々、長生き過ぎるし、繁殖が難しかったんだろうね。でも、他の種族と交わる代わりに、ホムンクルスの技術を使って『完璧な器』を作り出し、そこに自分の記憶と魂を転写し続けることで、個体としての永遠の命を手に入れた」
『魂の転写……。そんなことを繰り返せば、器がどうなることか』
「そう。最初は良かったんだろうけどね。何代も何代も器を使い回すうちに、肉体的な劣化が隠せなくなったのかな。結果として、今の彼らはちょっとした環境の変化や、ささやかな病気にすら耐えられない極度の虚弱体質に陥ってる」
コロは小さく息を吐き出すと、リュックサックの肩紐を握り直した。
「彼らの作る『星刻の霊薬』みたいな奇跡の薬は、効果が強すぎて、今の劣化しきった彼らの器じゃ、逆にショック死しちゃうんだってさ。だから、人類の子供が飲むような、効き目の穏やかな『弱い薬草』が必要になる」
『……自らの技術で作った霊薬が強すぎて、己の身体には使えんというわけか。まるで出来の悪い喜劇だ』
「まぁね。でも、私たちはその喜劇を笑いに来たわけじゃないから」
『食い物にしに来たんだものな』
「人聞きが悪いなぁ」
『事実だ』
コロの視線の先には、里の中央に位置する、一際巨大で精緻な装飾が施された白亜の神殿がそびえ立っている。
雲一つない空に向かって鋭く伸びるその尖塔は、圧倒的な魔法技術の結晶でありながら、どこか巨大で豪奢な『墓標』に思えてくる。
数万年もの間、ただの一度も雨風に侵食された形跡のない不自然なまでの白さが、この里の終わらない『停滞』を何よりも雄弁に物語っているようだった。
「……狂っていないと出来ない芸当なのはたしかだね」
『尤も、今さらもうどうにもならんのではないか?ここから軌道修正出来るような道は残されているのか?』
「無理だろうね。今さら外から他の種族を連れてきたところで、繁殖なんてもう不可能じゃないかな。数万年前からほとんど進化していない虚弱体質な種族だもん」
『進化しない……唯一変わったのは虚弱ぶりだけか』
「だね。さっさと長に納品して、報酬をもらって帰ろっか。こんなところでお弁当を広げる気にはなれないしね」
『そんなことをしてみろ。食い物から出た匂いで大量の死人が出たとケチをつけられるぞ』
「ははは、「そんな大げさな!」って言い切れないところが、またね……」
一人と一匹は、倒れた青年の残した微かな薬の匂いを通り抜け、静寂に包まれた神殿の奥へと歩みを進めていった。
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