静かな森の終焉と、好敵手へのレクイエム 4 〜英雄の遺言と、老狼の安らかな眠り〜
4.
悲しみの鐘の音が一定の間隔で響き渡る中、奇妙で、そして、ひどく厳かな葬列が町の目抜き通りをゆっくりと進んでいく。
先導するのは、半透明の羽を力なく震わせるうら若きフェアリー族の少女。
そのすぐ後ろを、森の覇者たる巨大な老狼が、若き同族の雄に身体を預けながら、一歩、また一歩と、這うような足取りで歩を進めている。
さらにその後ろを、銀色の髪を風に揺らすコロが静かに付き従っている。
普段であれば、人類の営みの中心である町に、強大な魔物が踏み入ることなどあり得ない。
だが、道を譲って両脇に立ち並ぶ大勢の町民たちの目には、恐怖や敵意の色は微塵もなかった。
彼らは皆、帽子を胸に当て、あるいは両手で固く祈りを組み、長年町を脅かしてきた『恐怖の象徴』の惨めなまでの老いと、英雄へ向けられた執念に対して、深い哀悼の意を捧げている。
巨獣が乾いた足音を鳴らすたび、群衆からは衣擦れの音と、押し殺したような静かな嗚咽だけが漏れ聞こえている。
やがて一行は、町の中央に堂々とそびえ立つ、古く荘厳な教会へと辿り着いた。
重厚な黒鉄の装飾が施された木の扉が、数人の司祭たちの手によって、重々しい軋み音を立てて開かれる。
外の眩しい陽光から一転、教会の中はひんやりとした静謐な空気に満ちていた。
高くアーチ状に組まれた天井には、長い年月をかけて煤けた石造りの梁が走り、色鮮やかなステンドグラスからは、赤や青、黄金色の光の帯が、薄暗い教会の内部へ、斜めに幾筋も差し込んでいる。
宙を舞う細かな埃がその光の帯の中で星屑のようにキラキラときらめき、空気には、死者を弔うための甘い香の香りと、祭壇を埋め尽くす白い献花のむせ返るような匂いが立ち込めていた。
老狼の足が、教会の赤い絨毯をゆっくり、ゆっくりと踏みしめる。
ウルは、老狼に少しの衝撃も与えまいと、獣特有のしなやかな筋肉を極限まで制御し、音もなく滑るように、寄り添いながら歩みを進めた。
ステンドグラスから差し込む極彩色の光が、老狼の無数に刻まれた歴戦の傷跡と、白く枯れ果てた毛並みを美しく、そして残酷なまでに鮮明に照らし出している。
長椅子に座っていた参列者たちがゴクリと息を呑み、さざ波のように長椅子の端へと寄る中、一行は祭壇へと続く長い通路を、ただひたすらに前へと進んだ。
呼吸は限界まで浅く、もはや自力で首を上げることも叶わないはずの老狼だが、その黄金の瞳だけは、祭壇の中央に安置された『それ』を、真っ直ぐに、瞬き一つせずに見据えていた。
祭壇の中央。
無数の白い花々に埋もれるようにして置かれた、豪奢な白木の棺。
長年、森の覇者と文字通り命を削り合い、幾度となくその巨体を地面に叩きつけてきた、無敵の剛腕を持つ英雄が眠る場所。
ついに、老狼の巨大な前足が、その棺のすぐ目の前で止まった。
老狼はウルからゆっくりと離れると、最後の力を振り絞るようにして、自らの足で祭壇の前に立った。
そして、重い頭を下げるようにして、棺の蓋越しに、永遠の眠りについた宿敵の気配を確かめるように目を閉じた。
その隣へと、先導していたルシーラの孫娘が静かに歩み寄る。
彼女は棺にそっと触れると、振り返って、見上げるほど巨大な老狼の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……お婆ちゃんは、最期にこう言っていたよ」
静寂に包まれた教会の中に、孫娘の透き通るような声が響き渡る。
老狼だけでなく、コロも、ウルも、そして周囲を取り囲む大勢の町民たちも、固唾を呑んでその言葉に耳を傾けた。
「『どっちかがトドメを刺すとばかり思っていたけど、まさか老衰で死ぬとはね』って」
『…………』
「『あんな厄介な犬っころがいて、本当に迷惑千万。アタシの人生はとうとう、苦労ばかりで終わっちまった』って」
『……フン』
その言葉に、老狼の喉が小さく鳴った。
それは怒りではなく、数百年も変わらなかった宿敵の口汚さを懐かしむような、どこか嬉しげな響きだった。
「『だけど、不思議なもんでさ。自分の力で歩けなくなってから、頭に浮かぶのはあの犬っころのことばかりなんだよ』って……し、幸せそうに…っ……言ってたよ……」
孫娘の瞳から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちる。
それでも彼女は言葉を詰まらせまいと嗚咽を飲み込み、祖母から託された最期の想いを紡ぎ続けた。
「『先にあの世に行って、あの犬っころが来るのを待ってるとするさ。……あの世でお互い全盛期の力が戻るのであれば、次こそは絶対にアタシが勝つ』って……」
最期の最期まで、意地っ張りで、負けず嫌いで、好戦的。
「凄くさ……凄く……幸せそうに……し、幸せそうに……っ!!」
それが、森の覇者が心底手を焼き、そして誰よりも認めていた「剛腕のルシーラ」という人類だった。
「満足そうな顔してさ……女神様の元へ……旅立っちまったよ……」
『…………』
「見てみなよ。……良い夢でも見てそうな顔してさ……」
孫娘の言葉に促されるように、老狼は静かに首を伸ばし、棺の中を覗き込んだ。
そこには、かつて森に嵐を巻き起こした無敵の剛腕の面影はない。
色とりどりの美しい献花に包まれ、まるで深い微睡みに落ちているかのような、穏やかで小さなしわくちゃの老婆が眠っていた。
その顔は、数百年もの間、凄惨な殺し合いの中で一度たりとも見せたことのない、心底安らかな微笑みだった。
「アンタの事ばっか……最期だっつうのに、アンタのことばっかり……っ!馬鹿だよ、本当……馬鹿だよっ……!」
その遺言を聞き届けた瞬間。
老狼の黄金の瞳から、スッと、張り詰めていたすべての力が抜け落ちた。
『……カカッ。クックック……!』
老狼は喉の奥で乾いた笑い声を上げると、限界を迎えていた四肢を折り曲げ、棺に寄り添うようにしてドサリとその場に崩れ落ちた。
『お、おい、爺さん!』
ウルが慌てて身を乗り出そうとするが、コロがそっとウルの首元に手を当ててそれを制止した。
崩れ落ちた老狼の表情に、苦しみや絶望は微塵もない。
そこにあるのは、果てしない長い旅を終えた旅人のような、完全なる安堵だった。
『……あれだけ我と縄張り争いを繰り広げ……ひたすら手を焼かせてくれた厄介者の最期が、老衰だと……?』
棺に頭をすり寄せるようにして、老狼は誰にともなく、掠れた唸り声を響かせる。
『おい、ふざけるなよ……?我はまだ、この身体で戦えるぞ……?た、戦える……戦えるが……』
プルプルと小刻みに震えながら踏ん張っていた前足の力が、ついにフッと抜けてしまった。
ドサッと音を立て、ルシーラの棺を包み込むようにして、老狼は伏せてしまった。
『ああ、……馬鹿らしくて……どっと気が抜けてしまったな……』
僅かに開いていた金色の瞳。
瞼がゆっくりと閉じられようとしている。
『我は疲れた……。そうか、ルシーラ……。お前が、居ないの、なら、我はもう……縄張りなど、どうでも、良く……なってしまった……』
執念、そして、ポーションの力で無理やり繋ぎ止めていた命の火が、急速に萎んでいく。
厄介者がいない世界。
張り合いを失った絶対者にとって、それはもはや、一秒たりとも生き長らえる意味を持たない、ただの退屈な箱庭でしかなかった。
『コロと、ウルよ……』
「何、お爺さん」
『何だ?』
『我も……ま、魔物として、生きた我も……ルシーラと、同じ……女神のもとへ……行ける……か?』
テイマーを介して皆に告げられた、その魂から来ている老狼の言葉。
誰しもが嗚咽を漏らして耳を傾けている。
そんな中、コロの澄んだ声が響き渡る。
「それは分からない。でもね、女神様にはちゃんとお願いしておくよ」
『……そうか』
「絶対にお願いしておく。どうかルシーラとお爺さんの魂を……引き離さないでって」
『……そうか。不思議な、話だが……信じた、ほうが……心が安らぐな。……信じる、ことに、する……』
ゆっくりと、ゆっくりとした、浅くて長い溜息が、老狼の口から漏れ出る。
『眠い……。こんなところで、すまんが……我は、寝る……』
「うん。安心して眠ってね」
『俺達がいる。安心しろ』
辛うじて僅かに開かれていた老狼の眼が、ついに完全に閉じてしまった。
僅かに上がった口角が、一人と一匹への感謝の言葉に見えた。
『ああ、ルシーラ……今、会いに……行く……ぞ……』
その微かな呟きを最後に、老狼の巨大な体からスッと力が抜け、完全な静寂が落ちた。
直後、これまで彼を森の覇者たらしめていた途方もない魔力の残滓が、金色の光の粉となって空中に溶け出し、ステンドグラスから差し込む光の帯の中へとゆっくりと昇っていく。
数百年という長きにわたり『静かな森』に君臨し続けた絶対者の命の火が、今、完全に燃え尽きた。
堂内を満たしていた重い緊張感が嘘のように消え去り、後には底なしの穏やかな空気が残された。
棺の横で永遠の眠りについた灰褐色の巨体に、教会のステンドグラスを透過した暖かな光が優しく降り注ぐ。
その口元は、棺の中で眠る宿敵と同じように、酷く満足げな微笑みの形を作っていた。
悲しみの鐘が一定の間隔で鳴り響く中。
一人の町の英雄と、一匹の森の王者は、寄り添うようにして女神のもとへと旅立っていった。
その日の夜。
『静かな森』に隣接する町は、文字通り、深い喪失の静寂に包まれていた。
本来ならば、『白髭』の死は、町にとってこれ以上ない朗報のはずだった。
長年町を守り続けてくれた英雄が天寿を全うし、同時に、常に森の奥から町を脅かし続けてきた『恐怖の象徴』たる『白鬚』が息絶えた。
町が抱えていた最も頭の痛い問題が、一切の血を流すこともなく、一夜にして完全に消え去った。
論理的に考えれば、英雄も不慮の死ではなく大往生したので、祝宴を開いて喜ぶべき出来事である。
だが、夜闇に沈む町に歓喜の声はない。
あるのは、町の一部が丸ごと欠け落ちてしまったかのような、底なしの虚無感と、静かな啜り泣きの音だけだった。
教会での異例の弔いが終わった後、代官や司祭、そして町民たちは満場一致で一つの決定を下した。
それは、町の英雄であるルシーラと、森の覇者である『白髭』を、町と森を見渡せる丘の上に、並んで埋葬するというものだった。
人類の英雄と、魔物の王。
決して交わることのないはずの一人と一匹が同じ墓に入るなど、前代未聞の出来事だ。
だが、棺に寄り添って眠るように息を引き取った老狼の穏やかな死顔と、ルシーラの最期の言葉を知る者の中で、それに異を唱える者は誰一人としていなかった。
「……うん。あの二人なら、きっとあの世でも仲良く大喧嘩してるかな」
宿屋の二階。
窓枠に腰掛けたコロは、雲一つない夜空に浮かぶ丸い月を見上げながら、ポツリと呟いた。
その胸元には、いつもなら絶対にしないような、祈りのために組まれた不器用な両手がある。
『フン。全盛期の力とやらが戻っているのであれば、次は三日三晩では済むまいな』
「だね。森どころか、あの世が一つ消し飛んじゃうかも」
ベッドの上で丸くなっていたウルが鼻を鳴らし、コロが小さく笑う。
コロの氷藍色の瞳に、涙はない。
生命が尽きることは自然の摂理であり、悲しむべきことではないと、彼女の魔物としての魂が理解しているからだ。
だからこそ、ただ静かに、約束だけを果たす。
心地よい夜風が、コロの銀色の髪をふわりと揺らす。
森の方角から吹き抜けたその涼やかな風は、どこか満足げに笑う英雄と王者の気配を孕んでいるような気がした。
祈りの手をほどき、コロはベッドへと飛び込んだ。
「さ、私たちも寝よっか」
『ゆっくり休め、コロ。女神に会ったら、くれぐれも忘れるなよ』
「ふふ、忘れるわけないでしょ。おやすみ、ウル」
種族を超えた奇妙な友情と、命の終わりを見届けた一人と一匹。
月明かりに照らされた小さな宿屋の一室で、彼らもまた、心地よい疲労と共に深い眠りへと落ちていった。
※ ※ ※
深い眠りに落ちたコロの意識は、人類の肉体という不自由で重い『器』から解き放たれ、あっという間に時間の概念も重力も存在しない、真っ白な聖域へと浮かび上がった。
現実世界に溢れている血の匂いも、人類の放つノイズも、ここには一切届かない。
ただ絶対的な静寂だけが支配する、コロと女神のためだけの隔離された空間。
いつもなら、ここで待っている漆黒の髪をした女神と、一言二言の挨拶を交わし、その日あった出来事をのんびりと報告するのが日課。
だが、今日のコロは違った。
聖域に降り立つなり、白いドレスを纏った女神の姿を見つけ、弾かれたように駆け寄って口を開く。
「女神様!あのね、お願いが――」
「しーっ……」
だが、コロの珍しく切羽詰まった言葉は、ふわりと抱き寄せられた女神の細く冷たい指先によって、優しく唇を塞がれて遮られた。
「言わなくても分かっているわ。……ええ、全部見ていたもの」
女神はコロの小さな魂をすっぽりと抱きしめると、愛おしくてたまらないというように、その銀色の髪をゆっくりと、何度も何度も撫でた。
その瞳には、人類の歴史や営みなど星の砂の一粒ほどにしか思っていないはずの、神としての絶対零度の冷徹さはない。
そこにあるのは、ただひたすらにコロを溺愛する、狂気的なまでの慈愛だけだ。
「私の愛おしいコロ。あの老いた同族のために、あんなにも必死になれるなんて……。そして今も、真っ先に私にお願いをしに来てくれたのね」
「うん。そうなんだ」
「あなたのその優しさが、私はたまらなく愛おしいわ」
チュッ、と。女神の柔らかい唇が、コロの額に甘く落ちる。
徹底的に甘やかされながらも、コロはすがるような上目遣いで女神を見つめた。
「じゃあ、ルシーラってお婆さんと、あのお爺ちゃんの魂は……?」
「ええ、安心して。あの老狼の魂が向かうはずだった魔物の神にも、私からちゃんと話をつけてあるわ。二つの魂は、私がしっかりと確保してあるの」
「本当……!?よかった……。それで、これからどうなるの?」
「ふふ……」
コロの問いかけに、女神は優雅に微笑み、コロの頬に自分の頬をすり寄せた。
「あれほど強烈に、互いの魂を引き寄せ合っていた子たちだもの。次はね……あの老狼も人類として生まれ変わり、互いに強く惹かれ合いながら生きていくことになるわ」
「……!」
女神のその言葉を聞いた瞬間。
コロの中にずっと張り詰めていた緊張と重圧が、春の雪解けのように完全に溶けて消え去った。
「そっか……。そっか、よかった。本当に、よかった……」
心の底からの安堵と共に、コロの全身からスッと力が抜ける。
そのまま彼女は、大好きな女神の柔らかな胸の中に深く顔を埋めた。
「ええ、本当によかったわ。さあ、今日はもう何も心配せずに、私の腕の中でゆっくり休みなさい。よしよし、私の可愛いコロ……」
女神はコロの背中を優しくトントンと叩きながら、その銀髪に何度も口付けを落とす。
人類の不条理も、命が尽きる悲しみも届かない、完全なる庇護の聖域。
コロは目を閉じ、絶対的な癒やしを与えてくれる女神の温もりに身を委ねながら、心行くまで子供のように甘え続けるのだった。
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