静かな森の終焉と、好敵手へのレクイエム 3 〜数百年の因縁と、残酷なすれ違い〜
3.
人類の町へと向かう道中、巨木がそびえ立つ薄暗い森の片隅で、一行は足を止めていた。
『我から申し出ておいて、すまんな……』
老狼の呼吸は依然として浅く、その巨体は歩を進めるごとに僅かに傾いている。
ここまで持ち堪えてきたのが奇跡と言えるほどの状態だった。
『俺たちのことなど、気にすることはない』
『ああ、助かる……』
『遠慮なくもたれ掛かれ。これしきでへばるような魔物ではないだろう、俺達アッシュウルフは』
そう言いながら、老狼の身体を支えるように寄り添うウル。
体の大きさこそ老狼の方が上とは言えど、力の方は年若いウルの方がいくらも上だった。
コロは背負っていたリュックサックを降ろすと、その奥から一つの小さなガラス瓶を取り出した。
瓶の中で揺らめいているのは、旅の途中で買っておいた、手持ちの中でも最高級の治癒ポーションだ。
濁りのない透き通った琥珀色の液体が、暗い森の光を吸い込んで神秘的に煌めいている。
「ほら、お爺ちゃん、これ飲んでみて。私の手持ちの中で、一番効く薬だよ」
コロは瓶の栓を抜くと、躊躇うことなく老狼の大きな口元へと差し出した。
本来ならば、行きずりの老狼に対して使うにはあまりにも高価で、人類がこの光景を見れば目を剥いて怒り狂うような代物だ。
しかし、コロにとってそんな計算はどうでもよかった。
ただ、目の前の同族に、少しでも楽になって欲しかった。
老狼は黄金の瞳を僅かに見開いた後、促されるままにその液体を長い舌で舐めとり、喉へと流し込んだ。
直後、劇的な変化が老狼の肉体を駆け巡った。
枯れ草のようだった灰褐色の毛並みに、内側からじわりと瑞々しい魔力の輝きが戻っていく。
小刻みに震えていた強靭な四肢には再び確かな力が満ち、ヒューヒューと鳴っていた苦しげな呼吸が、深く、力強いものへと変わっていった。
老衰そのものを覆すことは出来ずとも、その最高級の薬効は、絶対者の肉体に一時的な「全盛期の残影」を、僅かでも呼び覚ましたのだ。
『……ほう』
老狼は大きく息を吐き出すと、自身の前足を見つめ、喉の奥でクスクスと愉しげに笑った。
『そうか。あの厄介者が、戦いの最中にたまにこれと似たものを飲んでいてな。……ククッ、往生際悪く小賢しい真似を、と当時は小馬鹿にしたものだが……なるほど。これは確かに飲むわけだ。身体の芯から力が漲ってくるようだぞ』
「その様子なら、少しは楽になった?」
『ああ、久しぶりに身体がマシだ。……不思議なものだな。宿敵の戦い方を、このような形で肯定することになるとは』
老狼はどこか遠い目をしながら、かつてこの『静かな森』の全域を揺るがせていた、壮絶な日々に思いを馳せるように語り出した。
そんな話を聞きつつ、ゆっくりと歩みを進める一人と一匹、そして老狼。
『あの厄介者はな、矮小な人類の中に極稀に現れる、異常な強さを持った個体だった』
「あー、いるね。人類の中に、極稀に変な個体が生まれるんだよね」
『うむ。……背中に虫のような半透明の羽を生やした、たしか、フェアリー族と言ったか?』
「うん。人類はそれをフェアリー族って呼んでる」
『……メスで、名をルシーラといった。かれこれ数百年間、我の邪魔ばかりしに、この森へすっ飛んできたものだ……』
それは、憎悪を遥かに通り越して、己の半身を語るかのような深い追憶の響きだった。
『あの女の魔力は、驚くことに……いや、憎たらしいことに、全盛期の我とほぼ同格だった。だが、何よりも厄介だったのは、あの華奢な躯体に秘められた、文字通りの『剛腕』だ……』
『剛腕?人類の剛腕などたかが知れているだろう』
『いや、大岩を容易く消し飛ばす我の黒雷を、あの女はただの鉄塊の剣一本で正面から叩き斬ってみせた。それどころか、ただ剣を振るっただけの風圧が、それ自体が巨大な刃となって森を切り裂くのだ。下手を打てば、その風圧だけで我の頑強な皮膚が裂け、大怪我を負わされたことも一度や二度ではない……』
老狼の言葉に合わせて、ウルの耳がピクリと動く。
同じアッシュウルフとして、その「人類の異常者」の底知れなさが、どれほど恐ろしいものであったかが理解できたからだ。
『戦えば、いつも互いに血塗れの満身創痍よ。……フン、我の爪があの女の脇腹を裂けば、あの女の剛腕が我の骨を叩き折る。決着など、数百年戦っても一度たりとも付きはしなかった。……だが、あの嵐のような戦いの日々だけが、我をこの森の絶対者たらしめていたのだ……』
「へえ。よっぽど凄いお婆ちゃん……というか、当時は若かったのか。すごい人類だったんだね」
『ああ。初めて奴と出くわした時のことは、今でも鮮明に覚えているぞ』
ポーションの力で痛みが和らいだのか、老狼の足取りは先ほどよりも僅かにしっかりとしていた。
それでもウルの身体に軽く寄りかかりながら、黄金の瞳を細めてポツリポツリと語り続ける。
『当時の我は、森の浅瀬をうろつく羽虫のような人類など、少し威嚇すれば逃げていくと思っていた。だから、軽く追い払うつもりで、手加減をして前足を振り下ろしたのだ』
『……それで、どうなった?』
『奴は空中でその細腕を伸ばし、我の丸太のような前足をガシリと受け止めた。そしてあろうことか、空中に浮かんだままの姿勢で、この巨体をそのまま背負い込んで地面に叩きつけおった』
『……は?』
同族の覇者が語ったあまりにも規格外な光景に、ウルの足が一瞬だけピタリと止まった。
『背負い込んで……その巨体をか?いくらなんでも冗談だろう』
『冗談ならどれほど良かったか。背中から地面にめり込んで呆然としていた我を見下ろして、あの厄介者はこう言い放った。「図体がデカいだけの犬っころめ!町に近づいたら承知しないよ!」とな。あの時の屈辱と衝撃といったらなかったぞ』
喉の奥でカカッ、と乾いた笑いをこぼす老狼。
『奴の無尽蔵の体力と意地っ張りなところにも、よく呆れたものだ。ある時など、三日三晩、休むことなく森を破壊しながら殴り合ったことがある』
「三日三晩も?」
『うむ。最後は互いに魔力も体力も底を尽き、立っているのもやっとの状態で、川を挟んでゼーゼーと睨み合っていた。さて、ここからどうやってとどめを刺すか……と考えていた矢先、奴の腹の虫が森中に響き渡るほど盛大に鳴ってな』
「あはは、お腹空いちゃったんだね」
『ああ。すると奴は、これ以上ないほど偉そうな態度で「今日はこれくらいにしてやる!腹が減ったから帰る!」と喚き散らし、フラフラと飛んで帰りおったのだ。拍子抜けして、我もその場でひっくり返って寝てしまったわ』
コロはたまらず声を上げて笑い、ウルは『人類とはそこまで図太い生き物なのか』と心底呆れたようにため息をつく。
『だが……あの女は決して、我との戦いに他の人類を巻き込むことはなかった』
ふと、老狼の声から笑い気が消え、代わりに深い敬意のようなものが滲んだ。
『どれほど我に深手を負わされようと、決して徒党を組んで討伐にくることはなかった。常に単身で、正面から我の前に立ち塞がったのだ。我が別の魔物との縄張り争いで傷を負っていた時など、わざわざ特大の魔猪を狩ってきて我の目の前に放り投げ、「治るまで待ってやる!早く治せ!」と怒鳴り込んできたこともあったな』
『……それはもう、縄張り争いなどではなく、ただの決闘狂ではないか』
ウルの呆れたような言葉に、老狼は再び愉しげに目を細めた。
『カカッ!違いない!まさに狂人よ。だが、あの女が居たからこそ、我はこの森で退屈することなく、覇者としての牙を研ぎ澄まし続けることができたのだ。……だからこそ、最後にあいつの顔を見て、一発殴られてから眠りにつきたいのだ』
老狼はそう締めくくると、木々の隙間から光が差し込む森の出口――人類の町の方角へと、愛おしそうに視線を向けた。
『最期にどうか、我の言葉をあの女に伝えてくれ。いつも俺はヤツの言葉を聞くばかり。俺からも言いたいことは山程ある』
「うん。それくらい喜んでするよ」
即答しつつ、老狼を労わるようにして手を添えたコロ。
ポーションの力と、かつての好敵手の思い出話に活気づけられながら、一行は『静かな森』を抜け、ついに人類の町へと近づいていた。
町の入り口を固める詰め所が見えてきたところで、コロは振り返り、ウルと老狼をその場に待機させた。
「二人はここで待ってて。私が先に行って話をつけてくるから」
そう言うと、コロは返事を待たずに一人で駆け出し、顔見知りになった衛兵たちの元へと向かった。
「おや、嬢ちゃん。今日は早いお帰り……って、おい!そ、その後ろのデカい影はなんだ!?」
森の縁で待機している途方もなく巨大なアッシュウルフの影に気づき、衛兵たちが血相を変えて槍を構える。
だが、コロはいつもなら絶対に見せないような、必死で食い下がるような口調で彼らにまくし立て始めた。
「お願い、攻撃しないで!見て分かると思うけど、あなたたちの言う『白髭』は、もう歳を取りすぎて死んでしまう寸前だよ!」
「し、死ぬ寸前……!?なんでそんな化け物が町に……!」
「だからだよ!『白鬚』は最後に、ルシーラとかいうフェアリー族のお婆さんにトドメを刺してもらいたいと望んで、ここに来たの!街を襲う気なんて微塵もない!」
「なっ……!?」
「もし急に暴れ出したら、私のウルのほうで確実にトドメを刺す。もし私の嘘を疑うなら、この街の信頼できるテイマーを急いで連れてきて、あの言葉を直接確認して!」
人類に対し悪目立ちするような真似は避けるはずのコロが、同族の最期の願いを叶えるためだけに、なりふり構わず必死に説明している。
その真剣極まりない気迫に圧され、衛兵たちは一瞬顔を見合わせた。
しかし、若い衛兵の一人が、酷く沈痛な面持ちでゆっくりと首を横に振った。
「……嬢ちゃん。嬢ちゃんの言葉が真実だろうと嘘だろうと……もう、どうしようもないんだよ……」
「……え?」
「ルシーラ様は……我らが英雄は、今朝方、老衰で息を引き取られたんだ。今、町の中央の教会で葬儀が行われている」
「…………」
「治癒魔法も、薬も……老いには勝てない……」
その言葉に、コロの動きがピタリと止まった。
「……そっか。分かった」
「すまんな。もう願いを叶えてやることはできないと伝えてくれ……」
コロは深く息を吐き出すと、そのまま踵を返し、森の縁で待つ一人と二匹のもとへ重い足取りで戻っていった。
「……お爺ちゃん」
『……どうだった?』
「ルシーラっていうお婆ちゃん……今朝、老衰で死んじゃったんだって。今、教会で葬儀をしてるらしい」
コロの悲痛な報告を聞き、ウルの背に寄りかかっていた老狼の巨体が、ビクリと震えた。
『ろ、老衰……だと?あの厄介者が……?』
老狼の喉の奥から、呻くような声が漏れ出た。
数百年もの間、互いの命を削り合い、血汐を散らし合った絶対的な宿敵。
大岩を両断し、森に嵐を巻き起こしたあの無敵の剛腕が、「老い」という抗えない波に呑まれて、ベッドの上で静かに消えたという事実が、老狼の重い体にのしかかる。
『馬鹿な……ふざけるなッ……!』
老狼の全身から、激しい感情の奔流と共に魔力が膨れ上がりかけた。
だが、それも一瞬のこと。
ポーションで無理やり引き出していた全盛期の残影は、生きる目的そのものを失った絶望によって急速に萎み、老狼はガクリとその場に崩れ落ちそうになった。
ウルが慌ててその巨体を支える。
『大丈夫か!?おい、しっかりしろ!』
その時だった。
「……道を開けな!その魔物は、私に用があるはずだ!」
騒ぎを聞きつけて集まってきた大勢の町民や代官たちの中から、一人のうら若きフェアリー族の少女が、虫のような半透明の羽を震わせて前に進み出てきた。
その瞳は赤く腫れ上がり、深い悲しみに満ちているが、老狼を見据える視線には強い意志が宿っていた。
「……私はルシーラの孫だ」
『……なに?』
「アッシュウルフなら、人類の言葉くらい理解できるな?」
その少女の言葉に、コロは即座にコクっと頷いた。
そんなコロの仕草を見て、少女は言葉を継いだ。
「お婆ちゃんは……最期の最期まで、アンタのことを……気にかけていたよ」
少女は、威圧感を失い、素人目に見ても死の淵にあると分かる老狼の姿を見て、震える声で告げた。
「『最後に、あの犬っころの顔が見たい』『どうせ死ぬなら、あいつに殺されて死にたい』……そう、うわ言のように繰り返して、今朝、息を引き取ったよ」
その言葉が響き渡った瞬間。
老狼の黄金の瞳が見開かれ、そして、ゆっくりと優しく細められた。
『……そうか。カカッ……あの意地っ張りめ。最期の最期まで、我と同じことを考えていたか……』
憎しみではなく、ただひたすらに互いを高め合った宿敵同士の、痛いほどのシンクロ。
街が急場しのぎで集めたのか、テイマーらしき初老の男が老狼の言葉を通訳し始めた。
集まっていた町民たちも、長年町を脅かしてきた『恐怖の象徴』のあまりにも惨めな老いと、その悲しい因縁を知り、槍を構えることすら忘れて静まり返っていた。
そこにあるのは恐怖ではなく、抗えない寿命に対する深い哀れみと、奇妙な敬意だった。
老狼は震える四肢に力を込め、ウルの支えを借りて再び立ち上がった。
『……案内しろ。その、棺のある教会とやらへ』
「……分かったわ」
ルシーラの孫が頷き、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
大勢の人類たちが見守る中、コロとウル、そして老衰の覇者は、まるで英雄の凱旋のような、あるいは静かな葬列のような足取りで、悲しみの鐘の音が響き渡る教会へと向かって歩みを進めたのだった。
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