白い街と、嘘の匂い 1 〜漆黒の金具と、不干渉の境界線〜
1.
フェルムを離れて数日。
南下するにつれ、鼻をつく煤の匂いは消え、代わりに湿った土と針葉樹の冷たい香りが支配的になってきた。
あいにく、この先は山を越える難所が続くため、行商人の乗り合い馬車も通らない不便なルートだ。
仕方なく、二人は己の足だけを頼りに、険しい山道を辿っていた。
「……やっぱり、馬車がないのは効率が悪かったね。南に行くなら、もっと主流の街道を選ぶべきだったかな」
『ふん、コロにしては随分と弱気だな。俺の方はこのハーネスのおかげで、この程度の勾配は平地と変わらんぞ』
新調した漆黒の金具に置き換えられた革のハーネスは、ウルの銀色の毛並みに驚くほど馴染んでいる。
跳ね鎌の鱗を練り込んだその金具は、激しい運動の中でも軋み一つ立てず、ウルの魔力と筋力の連動を完璧に支えていた。
「ははは、随分とお気に入りだね」
『当たり前だ。お前が選んでくれたんだぞ?』
尻尾で柔らかくコロの背中を叩くウル。
コロは笑みを蓄えたまま。彼の首元に手を置いた。
しかし、すぐにウルの空気がピリッと張り詰める。
『……コロ。街道から西に外れた森の奥、湿った苔の匂いの先に「銀玲草」が混じっている。……それも、かなりの上質だ。馬車に乗っていたら見逃していたところだぞ』
「銀玲草なら、一輪で宿代の数日分にはなる。……行こう、ウル。機動力のテストも兼ねてね」
『だが、それと同時に血の匂いもするな』
その言葉に、コロも「スン」と鼻をひくつかせる。
「……だね。どっちかな?」
『これは人類の方、だ』
「よし、じゃあ行こうか」
二人は整備された道を捨て、鬱蒼とした森へと足を踏み入れた。
獣道さえ途切れた深い木立の中。
銀玲草の座標に辿り着く手前で、その光景は現れた。
そこには、数人の男たちが無残な骸となって転がっていた。
鎧はひしゃげ、周囲の木々は暴力的な力で薙ぎ倒されている。
その中心で、一人の男が腹を押さえ、絶望的な声を絞り出した。
「……た、助けて……くれ……。頼む、……死に、たく……」
男は血塗れの手を、無機質な表情で立ち尽くすコロへと伸ばす。
だが、コロは男の指先を跨ぐようにして通り過ぎ、その数歩先に咲く一輪の銀色の花へと視線を落とした。
『おい。コロ。……この個体、まだ心臓が動いているようだが。どうする?』
「……薬草採取の邪魔だね。ウル、そこの根元を掘って。鮮度が落ちる前に回収しなきゃ」
コロは土を払いながら、隣で男を冷たく見下ろすウルに向けて、淡々と指示を飛ばすのみ。
ウルは静かに、今にも事切れそうな男に視線を向けている。
しゃがみ込んで作業を始めながらも、コロは言葉を続けた。
「……仮に容態を安定させたとして、この人類を放置して帰る?……結局、死なせるのと変わらないよ。運ぶなんて現実的じゃない。かといって、動けるようになるまで面倒を見る?こんな惨状を生む魔物が潜む森で数日も野営するなんて、生存戦略として自殺行為。……アレだね、私はね、この人類と同族だとは思っていないよ」
『まぁ、そのとおりだな』
独り言のように聞こえてくるコロの声に、事切れそうな男は掠れた声を漏らす。
しかし、その声にならない声は、コロの耳には届いていないようだ。
ウルもまた、男に興味をなくしたのか、コロに指定された根元に向かって軽やかに跳躍してしまった。
「こういうリスクも把握したうえで、森に踏み入っているはずだよ。『こうなるとは思わなかった』『知らなかった』じゃ済まされない。ここは魔物の領域。私たちが魔物からお目溢ししてもらえるのはね、私とウルから魔物の匂いがするからだよ」
『まぁ、現に魔物だしな……』
「そんな中で私が人類を庇うような行動をとってごらん。今度は私たちが、この人たちみたいになる。危機管理として、品質の良いポーションを常備しておくべきだし、そもそも実力に見合わない場所に立ち入るべきではないね。こうして瀕死になっているってことはね、危機管理能力が欠けているか、あるいはそういうものを買う余裕がないと見てしまう。敢えて危険を冒してまで、助ける理由はない」
コロは、ウルがほじくり返した辺りに咲いていた銀玲草を丁寧に革袋へ収め、立ち上がった。
その瞳は、足元で喘ぐ男を「生命体」としてではなく、ただの「手遅れの事象」として処理しているように見えた。
「……そもそもだけどさ。腸が出ちゃっているような怪我に効くのは、ポーションじゃない。それは聖職者の仕事だよ。……もっとも、この辺りに教会なんてないけどね」
『集落ならあったがな。聖職者なんていう胡散臭い類の連中がいるとは思えん』
その言葉は、救いを求める男への引導であり、同時にコロの「高度な人類の真似事」が、一瞬にして冷酷な「人類の観測」へと切り替わった合図でもあった。
『……治らぬものを治そうとするのは、効率が悪いどころか「嘘」の領域だ』
「よし、行こう、ウル」
『ああ』
男の意識が混濁し、最後に残った微かな呼吸の音が森の静寂に溶けていく。
一人と一匹は一度も振り返ることなく、拾い上げた銀玲草の感触を指先で確かめながら、再び森の中を歩き出した。
『……コロ。一つ聞いてもいいか』
ウルの問いに、コロは足を止めずに小さく頷く。
『お前、最初からあの個体は「助からない」と分かっていたな?』
「……中身がもう、空っぽだったからね。あの損傷でまだ声を漏らしていたこと自体が、生命の執着というよりは、ただの悪い冗談みたいなものだよ。……それに、あそこにいたのは彼だけじゃなかったし」
『さすがに気がついていたか』
「そりゃそうだよ。私だって元アッシュウルフだからね」
コロの視線が、木々の隙間、陽光が届かない暗がりの一点を射抜く。
そこには、先程の男たちを蹂躙したであろう「主」が、まだその場に潜んでいた。
『……ふん。そろそろ出てきたらどうだ?その汚い息の中に、弱者の血の匂いが混じっているぞ』
ウルの低い地響きのような声が森を震わせる。
それに応えるように、茂みの奥からぎらりと光る無数の目が現れた。
狼系の魔物「影牙」の群れだ。
彼らは既に事切れた男たちの血の香りに当てられたのか、次の獲物として少女と銀狼を品定めしているかの如く、殺気を漂わせていた。
「影牙か。もう少し、話が通じる類だと思っていたんだけどね。どうやら、目の前の獲物を仕留めること以外、忘れてしまったみたいだ」
コロが淡々と告げると、影牙のリーダー格が低く唸った。
その瞳には、知性よりも飢えが勝っている。
『……笑わせる。あの鍛冶屋の男の執念が詰まった金具に、最初に吸わせるのが同族のなり損ないの血とはな』
ウルが漆黒の金具をぎらりと光らせ、前脚で地面を抉る。
次の瞬間、ウルの巨体が視界から消えた。
速い、という言葉では足りなかった。
新調されたハーネスによってウルの身体能力は完全に解放されていた。
跳ね鎌の鱗を練り込んだ漆黒の金具は、激しい方向転換や急加速の際にかかる負荷を、驚くほどスムーズにウルの全身へと逃がしている。
「……すごいね。本当に、羽が生えたみたいだ」
コロは少しだけ開けた地面に立ったまま、その「軽さ」に目を細めた。
闇の中から飛び出してきた影牙たちが、空中でウルの残像を噛みちぎる。
だが、本体は既にその背後――死角へと回り込んでいる。
カチャッ、という硬質な音。
ウルが身を翻すたび、金具の継ぎ目が絶妙な角度で噛み合い、彼の四肢の動きを滑らかに繋ぐ。
銀色の閃光が森を駆け抜け、ウルの爪が影牙の牙を無造作に弾き飛ばした。
『……馴染む!まるで己の骨が新しくなったかのような感覚だ!』
一閃。
ウルの爪が、影牙の首を音もなく断ち切る。
二閃、三閃。
わずか数秒。
五頭の捕食者は、自分が何を相手にしているのかさえ理解できぬまま、冷たい土の上で物言わぬ肉塊へと変わっていった。
「あの職人の言った通りだね。これはもはや、魔物の骨そのものだよ。……無駄がない、良い仕事だ」
血の匂いが漂う森の中で、コロは静かにその成果を認めた。
数値でも魔法でもない、自分たちの命を預けるに足る「確かな手応え」が、そこにはあった。
『だな。頼んだ相手が良かった』
「さあ、行こう。影牙の肉は不味くて食べられたもんじゃないし、この属性の魔石も用途が限られるからお金にならないんだ」
死臭の漂う森の静寂の中、少女と銀狼は一度も振り返ることなく、深い木立の向こうへと消えていった。
森を抜け、ようやく見晴らしの良い岩場に辿り着く頃には、空は深い群青色に染まっていた。
夜の山越えは、いくらウルでも危険だ。
二人は大きな岩の窪みに身を寄せ、ささやかな野営の準備を始めた。
「……さて。今日の夕食は、これだね」
コロが取り出したのは、『鈍色の煙突亭』の主人がくれた特製跳ね鎌ジャーキーだ。
パチパチとはぜる焚き火の光の中で、包みを開ける。
一瞬だけ、フェルムの煤けた、けれど実直な空気が蘇った。
『……ふむ。あの宿の主人の「借り」か。味の方はどうだ?』
「噛むほどに旨味が出る。……美味しいね」
コロは小さく千切った肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
つい先程、一人の人類が事切れたことなど、もう二人の会話には登らない。
焚き火の爆ぜる音が、岩陰の静寂に小さく響く。
コロは特製ジャーキーを一口サイズに千切り、ゆっくりと口の中で転がした。
「……フェルムの人は、本当に借りが嫌いなんだね。あのおじさん、これにどれだけの時間とスパイスをかけたんだろう」
『……ふん。あの宿の主人の実直さが、そのまま味に出ているな』
ウルが満足げに鼻を鳴らし、コロの隣で大きな身体を丸める。
漆黒の金具は、焚き火の光を受けてもなお、周囲の闇を吸い込むような重厚な光沢を失わない。
それはもはや装備というより、ウルの身体の一部として完全に沈着しているようだった。
「……ねえ、ウル」
『ん、なんだ?』
「今日さ、私があの人類を助けなかったこと、女神様にはなんて報告しようかな」
『……お前のことだ。ありのままを話すのだろう? 「不効率な命の選別を、正確に処理した」とでもな』
「そうだね。嘘をついても、女神様には全部バレちゃう」
コロは最後の一切れを飲み込み、水筒の水を一口。
それから、ウルのふかふかとした毛並みに頭を沈めた。
新調した革手袋が、ウルの温もりを指先にダイレクトに伝えてくる。
その確かな「熱量」を抱えながら、コロは意識を深い階層へと沈めていった。
※ ※ ※
そこは、いつもの「白い場所」だった。
全てを知っている女神が、穏やかな微笑みを湛えてそこに立っている。
「……おかえり、コロ。今日は随分と、冷たい風を連れてきたのね」
女神様がそっとコロの頭を撫でる。
その手の温かさは、つい先程まで触れていたウルの体温と、どこか似ていた。
「今日は新しい金具を受け取って、街を出たよ。途中の森で、影牙に襲われていた人類を見つけた」
「そう。……それで?あなたはどうしたの?」
女神の問いに、一瞬だけ、コロは言葉を詰まらせたようだ。
「……助けなかった。もう中身が空っぽだったし、連れて帰るコストも、その場で守り抜くリスクも、私の計算には合わなかったから。……冷たいと思う?」
コロは女神様の顔を見上げ、問いかけた。
女神様は、悲しむでも、咎めるでもなく、ただ優しくコロの頬を包み込んだ。
「いいえ。あなたが『嘘』をつかなかったことを、私は誇りに思うわ。助かるはずのない命を助かるふりをして扱うのは、その人に対する一番の残酷な裏切りだもの。……あなたは、彼が『もう手遅れだ』という真実に、誰よりも誠実に向き合ったのね」
「……誠実、なのかな。ただ、効率が悪かっただけだよ」
女神はコロをギュッと抱きしめた。
「ふふ、そうね。あなたの言う『効率』は、時として神様の視点にとても近いわ」
その腕の中で、コロは今日感じた焦燥感や、人類の死への微かなノイズが、すうっと消えていくのを感じているのか、徐々に穏やかな表情へと変わっていく。
「……明日には、山を降りるよ。……次は、もっと暖かい場所へ行きたいな」
「ええ。あなたが望むなら、世界はいくらでも色を変えるわ。おやすみなさい、私の愛おしいコロ。明日の朝、あなたが新しい陽光に目を細められますように」
腕の中、コロは静かに目を閉じた。
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