静かな森の終焉と、好敵手へのレクイエム 1 〜理不尽な勘違いと、不機嫌なアッシュウルフ〜
1.
一人と一匹が到着した、広大な『静かな森』に隣接するその町は、森の恩恵をたっぷりと受けて、穏やかな活気に満ちていた。
肌を撫でる風は涼やかで、深い緑の匂いと湿った土の香りが混じり合っている。
家々の軒先には採取されたばかりの薬草の束が吊るされ、乾いた荒野を抜けてきた旅人の肺を優しく浄化してくれるような、自然と寄り添う町特有の空気が満ちていた。
石畳ではなく、よく踏み固められた土の街道の両脇には、木造の素朴な家屋が立ち並んでいる。
城塞都市のような威圧感や狂騒はないが、すれ違う町民たちの表情は明るく、どこかのどかな空気が漂っている。
「空気が美味しいね、ウル」
『フン。自然の香りが、人類のしょうもない臭さを多少中和してくれているからな』
「森へ通い甲斐がありそうでしょ」
『それはそうだが、ここはなぜここまで俺を警戒する?そこらの人類の町や村なんかとは比べものにならんぞ』
コロの足元で、周囲を警戒させないよう大人しい『従魔』のフリをして歩くウルが、忌々しそうに鼻を鳴らす。
「大体はウルを見ても『狼系魔物の変異種かな』くらいの印象だからね。この感じからすると、この町ではアッシュウルフが有名なのかもしれないよ」
『視線が煩いな……』
「臭いとか煩いとか、ウルは小言が多いなぁ」
『フン、事実を述べたまでだ』
そうは言いつつも、コロの隣を少しばかり控えめに歩くウル。
しかし一人と一匹の感想の通りで、すれ違う町民たちは視界にウルを入れると、途端に明るかった顔をピキリと固まらせてしまうか、僅かに後ずさってしまうような反応ばかり。
親が慌てて子供を背中に隠し、荷車を引く男は息を呑んで道を大きく譲る。
それは単なる従魔に対する怯えというより、まるで長年この町を脅かしてきた『恐怖の象徴』そのものを幻視しているかのような、根深いトラウマを感じさせるような視線だった。
「視線……まあ、たしかに、ね」
『用が済んだらサッサと出るか?』
「いや、ここから先の『静かな森』って呼ばれている森の向こうはね、人類にとっての未開地の大森林だからね。当面はここを拠点にして活動しようかな」
町をすり鉢状に包み込むように広がるその森は、陽の光を吸い込むほどに深く、濃い緑のグラデーションを描きながら地平線の彼方まで続いている。
どれほどの命と危険を呑み込んでいるのか想像もつかない、圧倒的なスケールと不気味なほどの静寂がそこにあった。
『ふむ、人類にとっての未開の大森林か。俺たちからすれば、絶好の稼ぎ場というわけだな』
「だね。このフェアムルの町に来るのは初めてだけど、前に西のイルメラ王国のメリロの町から通ったことはあるよ」
『メラメラだのメロメロだのと、人類の国や町の名前を並べられてもわからん』
「あれだよ、あそこ。ほら、銀色猫がしつこくちょっかいをかけてきた」
コロが僅かに口角を上げながら、両手の拳を丸め、招き猫のようにこまねいてみせる。
するとウルは露骨にマズルを顰めて、コロの足が縺れるよう、コロの片足をワザと小突いた。
「わっとっと!」
案の定、思いっきり転びそうになるコロだが、その表情はクスクスと楽しげだ。
『不愉快だ』
「ふふ、珍しくウルが弄ばれてたもんね」
『足止めできれば、あんなすばしっこいだけの猫など、黒雷で一撃だ』
「その足止めが出来ないからこそ、猫の魔物の中でも上位種なんだよ」
『あれはまだ俺が若かったからだ!フンッ!ただでさえ不愉快な気分だったが、最高に不愉快になった!』
「ごめんごめん。今回はあの銀色猫の縄張りとはまるで無縁な場所で採取するの」
『ここも別の『あの猫』が縄張りにしていたら、今度は森を焦げ臭い荒野に変えてやるからな』
「物騒だなぁ。銀色猫なんてアッシュウルフと一緒で、そこら中にいるような魔物じゃないよ」
『一緒にするな!不愉快だ!』
「希少さの話だよ。これじゃあウルを見るだけで見境なしに突っ込んでくる猫系の魔物と同じだよ」
『ぬぅ……くそっ!』
一人と一匹は更に町の中心へと歩みを進め、まずは町の中央広場にある依頼掲示板へと向かった。
木板に貼り付けられた羊皮紙を、コロは氷藍色の瞳で淡々と見定めていく。
広場には、未開の大森林での一攫千金を狙うガラの悪い傭兵や採取家たちがたむろしていたが、彼らですらウルの姿を視界に収めると、ピタリと会話を止め、微かに武器の柄に手をかけながら露骨に距離を取る。
喧騒に包まれていた広場に、まるで冷水を浴びせられたような不自然な静寂が落ちた。
そんな態度が、益々ウルの機嫌を悪くしていくようだ。
『不愉快の押し売りだ。まだ何もしていないぞ』
「ほらほら。気にしない、気にしない。それより、森での採取依頼、隣町までの護衛依頼、小動物の討伐依頼……特に採取依頼がかなりあるね」
『ん、やはりここを拠点にするのか?』
「そうだね。とりあえず数日はここに滞在しようかな。近場の依頼をこなしながら森の様子を見るよ」
『滞在か、残念でならん。忌々しい猫の縄張りではないといいがな』
ウルの不満げな唸り声を軽く受け流し、コロは手頃な依頼書を数枚剥がし取った。
「さて、そうと決まれば、まずは拠点となる宿の確保だね」
不満たらたらなウルの背中をポンと叩くコロ。
予めコロが目星をつけていた宿屋のくすんだ木製のドアを押し開けると、カウベルがカランと気の抜けた音を鳴らした。
「いらっしゃ……ヒッ、ヒィィッ!?」
カウンターの奥で帳簿をつけていた初老のエルフ族の主人が、コロの後ろから入ってきたウルを見るなり、凄まじい悲鳴を上げて腰を抜かした。
そのままガタガタと後ずさり、棚にぶつかって帳簿やペンを床にぶちまける。
「あ、あの。数日泊まりたいんだけど……」
「ひぃぃっ!く、食わないでくれぇぇっ!」
『…………』
話を聞くどころではない怯えっぷりに、ついにウルの忍耐の限界が突破した。
『おい、コロ!その腰抜けから理由を聞け!俺はただ利口なフリをして歩いているだけだぞ!不愉快極まりない!』
ウルの怒りに満ちた唸り声がコロの耳にガンガンと響く。
これ以上放っておけば、本当に不機嫌になったウルの魔力で宿屋が吹き飛びかねない。
コロは小さくため息をつくと、腰を抜かして震える主人を見下ろし、ひどく事務的な声で言った。
「おじさん、落ち着いて。この子は私の従魔だから、勝手に人を食ったりしないよ。もし食ったら、私が後でちゃんとこの子のお腹を切って出してあげるから」
「そ、そういう問題じゃねえっ!」
主人が半狂乱でツッコミを入れる。
コロは首を傾げ、本気で不機嫌になり始めているウルの背中をポンポンと叩きながら尋ねた。
「あのさ、この町に入ってからずっと気になってたんだけど。いくらアッシュウルフとはいえ、みんなちょっと警戒しすぎじゃない?この子が何かした?」
「な、何かしただと……嬢ちゃん、本気で言ってるのか?」
主人はガクガクと震える指で、ウルを――正確には、ウルの『種族』を指差した。
「こ、この町はな、すぐ近くの『静かな森』を縄張りにしている、恐ろしいアッシュウルフと長年に渡って戦い続けてきた歴史があるんだよ……!」
「あ、そうなの?さっきこの町に来たばかりだから全然知らなかったよ」
「なんだ、そ、そうか……!いやいや、すまんかったな」
引き攣った笑みを浮かべつつ、ヨタヨタと立ち上がる主人。
「嬢ちゃんの従魔を見た時、一瞬、あの森のアッシュウルフがとうとう町に乗り込んできたのかと思ってな……。だよな、よく見りゃ小柄だし、まだまだ若く見えるんな……」
『言うほど若くないがな』
「ああ、なるほどね。だからみんな、ウルを見て固まってたんだ」
コロはポンと手を打って納得した。
『おい、若くないと言え』
「拗れるから嫌だよ。多分、このあたりを縄張りにしているアッシュウルフは相当な老齢なんだよ、きっと」
広場の傭兵たちが距離を取ったのも、道ゆく親が子供を隠したのも、ただの魔物への恐怖ではなく、「長年町を脅かしてきた存在」に対するトラウマだったのだ。
『フン。いい迷惑だ!人類相手に手をこまねくような老いぼれた同族と一緒にされては不愉快だ!』
事情を知ったウルが、鼻で笑って忌々しそうに唸り声を飛ばす。
「まあまあ、ウル。ここは一つ、寛大な心で許してあげようよ。ね、おじさん、そういうわけだから。私たち、別に森から町を襲いに来たわけじゃないから、安心して部屋を貸してほしいな」
「ほ、本当に……本当に、ただの従魔なんだな……?」
「うん。ほら、お手」
『おい、俺を犬扱いするな』
コロの差し出した手を完全に無視して、ウルはフイッとそっぽを向いた。
一瞬ヒヤリとした空気が流れたが、従魔としての「躾」の失敗にしか見えなかったのか、主人は少しだけ警戒を解き、ほうっと深い安堵の息を吐き出した。
「……いやはや本当にすまなかった。寿命が縮むかと思ったぜ。部屋は二階の奥だ。獣の匂いが染み付かないように、粗相だけはさせないでくれよ?一泊あたり銀貨十枚だ」
「うん。ほら、行くよウル」
『チッ……どいつもこいつも……』
とりあえず一泊分の宿泊費を支払い、不機嫌極まりないウルを引き連れて、コロは部屋の鍵を受け取った。
この町が長年戦い続けてきたという、森のアッシュウルフ。
それはコロたちにとって、単なる「町の人々が過剰に怯える理由」というだけの、どうでもいい情報でしかなかった。
宿の部屋を確保した一人と一匹は、さっそく広場で引っ剥がした依頼書を片手に、依頼主である薬草店へと向かった。
先ほどの宿屋の主人のような『面倒な事態』を避けるため、コロは学習能力を遺憾なく発揮する。
薬草店のくすんだ木の扉を少しだけ開けると、顔だけをひょっこりと覗かせて、店主に向けてあらかじめ大きな声で宣言した。
「すみません。依頼を受けに来た旅人なんですけど、今から私の従魔と一緒に入るからね。この辺りを縄張りにしているアッシュウルフではないから、腰を抜かさないでね」
「……は?従魔?アッシュウルフ……?」
奥で薬草をすり潰していた人間族の中年の店主が、きょとんと目を瞬かせる。
心の準備をさせる猶予を数秒だけ与えた後、コロは扉を大きく開き、ウルの顔を店内にぬっと押し出した。
「ヒッ……!?ア、アッシュ……!?」
「落ち着いて。ほら、落ち着いて、よく見てね。この町の人を長年困らせている森のアッシュウルフよりも小柄だし若いって聞いたけど、そう思うでしょ」
『…………クソッ……!』
コロの身も蓋もない念押しに、ウルはチッと舌打ちをして面倒くさそうにそっぽを向いた。
「わ、若いって……お、おう……確かに、森の『白髭』に比べりゃ、毛並みもいいし、傷もないが……」
事前の警告と、コロの極めて冷静、そして図々しい態度の甲斐もあってか、店主は腰を抜かすことこそ回避したものの、それでもやはりカウンターの奥でガクガクと震えている。
「ん、白髭?」
「あ、ああ……森の主のことだよ。口元の毛が白くなってるから、町のもんはみんなそう呼んで、恐れてるんだ……。お、お嬢ちゃん、本当にそいつは『白髭』とは関係ないんだな……?」
「うん、全くの無関係。この子はウルっていうの。それより、この依頼のことで来たんだけど」
コロは店主の怯えなどお構いなしに、カウンターに依頼書をパチンと置いた。
『こんなしょうもないやりとりが当面続くのか。溜息を吐きすぎて頭がチカチカクラクラしそうだ』
「まぁまぁ。おかげで腰を抜かされずに済んだんだから、作戦成功でしょ」
怯える店主を前に、一人と一匹はそんなどうでもいいやり取りを交わす。
「で、指定されてる薬草は『静かな森』で採れるやつだよね?暫くはここに滞在するから、明日から適当に採ってくるよ」
「あ、ああ……頼む。あの森は『白髭』のせいでな、浅い場所でも腕利きの採取者しか入れないから、慢性的に在庫が不足しててな……」
「なるほどね」
「同じアッシュウルフが従魔なら安心だな。色を付けて買い取ってやるから、よろしく頼んだよ」
町の人々が恐れる『白髭』と呼ばれるアッシュウルフ。
それがどれほど凶悪な魔物なのか、町の人々にとっては死活問題なのだろうが、コロにとっては「相場より少し依頼の報酬が高い理由」程度の認識でしかないようだ。
「じゃ、纏った量が集まったら、また来るね。行くよ、ウル」
『チッ、ジロジロと見やがって』
不機嫌に鼻を鳴らすウルを引き連れ、コロは薬草店を後にする。
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