大図書館の怪異と、無報酬の復讐 3 〜尾鰭のつく死闘と、星の砂の一粒〜
3.
翌朝。
いつものように控室で快適な目覚めを迎えたコロとウルは、リュックサックを背負い、大図書館の受付へと足を運んだ。
カウンターの奥から飛び出してきたのは、いつもの丸眼鏡の受付の女性ではなく、昨夜へたり込んでいた館長だった。
その目には濃い隈ができているが、表情は信じられないものを見るように興奮している。
「あ、ああ!旅人殿!いえ、コロ殿!まさか、本当に……!」
「館長さん、おはよう。約束通り見回りは終わったから、報酬をもらえるかな」
コロが淡々と手を差し出すと、館長は震える手で重たい革袋をカウンターに置いた。
「も、もちろん!昨晩、あなたがたが控室に戻られた後、私とペンバートン司教は恐る恐る旧魔導書架を調べたのですが……あの凍りつくような冷気も、カビの匂いも、完全に消え失せていたのです!」
「そうなんだ、良かったね」
「あれは本当に、完全に浄化されたと……!?」
館長は興奮冷めやらぬ様子で身を乗り出してくる。
しかし、コロは革袋の中の銀貨の枚数をしっかりと確認しながら、ひどく事務的に答えた。
「私は聖職者じゃないから、浄化されたかどうかは知らないよ」
「そ、それはそうか……!ははは、これは失礼」
「ただ、自分のやってることの無駄さに気付いて、どっかに行っちゃったんじゃない?」
「どっかに……?あ、あの凄まじい怨念が、そんな呆気なく……?」
「まぁ、無駄な出費はなくなったんだし、良かったんじゃないかな。報酬は確かに受け取ったし、夜食も美味しかった。じゃあね」
『フン。二度と来ることもあるまい』
何事もなかったかのように背を向け、大図書館を後にする一人と一匹。
館長はその後ろ姿を、まるで生ける伝説か、あるいは理解の及ばない怪異でも見送るような目でいつまでも見つめていた。
大図書館を出た一人と一匹は、次の街へ向かう乗合馬車の出発時刻まで暇を潰すため、停留所近くの適当な大衆食堂へと入った。
朝から賑わう店内で、コロは串焼きの肉を、ウルは骨付きの血抜き前の巨大な家畜肉の塊を平らげていた。
「やっぱり、上等な料理もいいけど、そういう新鮮な肉の方がウルは好きだね」
『フン。上品なソースなど肉の味を誤魔化すだけのものだ。血と脂こそが至高』
「だね。資金もたっぷりあるし、今日は奮発してもう一本頼もうかな」
そんな他愛のない会話を交わしていると、ふいに隣のテーブルからガタッと椅子が倒れる激しい音がした。
「あ!お、お前ら……!?」
見れば、数日前に掲示板の前でコロたちに血相を変えて忠告してきた、あの茶色い体毛の猿の獣人の男だった。
彼は幽霊でも見るような目で、コロとウルを指差してガクガクと震えている。
「あれ?」
『掲示板で忠告してきた人類か』
「ああ、その節はどうも。おかげで路銀が潤ったよ」
「潤ったって……お前ら、あの依頼を最後まで受けたのか!?」
「うん、受けたよ」
「な、なんでピンピンしてるんだよ!」
獣人の男は信じられないというように、コロの顔を至近距離で覗き込んでくる。
「なんでって……美味しい夕食を食べて、普通に見回って、適当に寝てただけだよ」
「嘘だろ!?あの学者の幽霊とやらは!?聖職者の浄化も効かない、恐ろしい怨念が出るって……」
「ああ、なんか冷気を出して本を落とす幽霊ね。昨日でどっか行ったみたい」
コロが肉の串を齧りながらあっさりと答えると、獣人の男は目玉が飛び出んばかりに見開いた。
「ど、どっか行った!?浄化されたんじゃなくて!?」
「うん。なんかね、自分の悲劇に酔ってたみたいだったからね。『復讐相手はもうお爺さんになってるか、寿命で死んでるんじゃないの』って事実を教えてあげたら、勝手に消えた」
「は……?」
獣人の男の口から、魂が抜けたような間抜けな声が漏れた。
街で何十年も語り継がれ、腕利きの傭兵たちを発狂させてきた恐ろしい都市伝説の結末が、『現実を突きつけられて心が折れた』だなんて、誰が信じるだろうか。
『霊体など、所詮は己の未練という幻にしがみついているだけの脆い存在だ。論理で殴れば容易く自壊する』
「だね。まぁ、街の人たちにとっては、いい酒の肴が減っちゃって残念かもね」
『くだらん』
ウルが骨を噛み砕きながら鼻を鳴らし、コロが水を飲み干して席を立つ。
もちろん獣人にウルの声は聞こえないが、当たり前のように幽霊を論破したと語る少女と、その足元で肉を食いちぎる魔狼の姿に、獣人はただただ圧倒され、言葉を失っていた。
「じゃあ、私たちは馬車の時間だからもう行くよ」
「あ、おい……!」
呆然と立ち尽くす獣人を食堂に残し、一人と一匹は乗合馬車の待つ広場へと歩き出す。
数十年前の悲劇も、街を騒がせた怪異も、一人と一匹にとってはただの「割のいい依頼」に過ぎず、すでにその頭の中には次の街のことしかなかった。
やがて出発の時刻となり、満員の乗客を乗せた大型の乗合馬車が、ガタゴトと車輪を鳴らして城塞都市の正門を抜け出した。
乾いた風が吹き抜ける荒野の街道を、馬車は順調なペースで進んでいく。
出発からしばらくして、都市の巨大な城壁が遠ざかり始めた頃。
退屈を持て余したのか、乗合馬車の手綱を握っている壮年の御者が、荷台の乗客たちに向かって声を張り上げた。
「いやぁ、今日の朝は街の噂で持ちきりだったな!お客さんたち、もう聞いたかい?」
「噂って……ああ、あれかい。あの、大図書館の幽霊が、ついに消え失せたって話だろ?」
恰幅の良い商人風の男が相槌を打つと、他の乗客たちも「ああ、聞いた聞いた」と一斉に身を乗り出した。
「教会のペンバートン司教様が、ご自身の命を削って、何日もかけて浄化の儀式を成功させたって話だろう?」
「いや、俺が聞いた話じゃ少し違うぜ。大陸の南から来た凄腕の傭兵が、図書館の中で恐ろしい死闘を繰り広げた末に、武力で怨念を打ち払ったって話だ!」
「いずれにせよ、よっぽど強大で恐ろしい悪霊だったんだろうなぁ……!無実の罪で殺された学者の呪いってのは、伊達じゃなかったわけだ」
ああでもない、こうでもないと、乗客たちは見ず知らずの幽霊の「ドラマチックな最期」について、目を輝かせながら無責任な議論を交わしている。
教会の奇跡か、あるいは凄腕の傭兵の武勇伝か。
噂というものは、人の口から口へと渡るうちに、あっという間に彼らが望むような『大げさなエンターテインメント』へと改変されていくらしい。
そんな熱を帯びた馬車の片隅。
噂の当事者である凄腕の傭兵にされてしまい、強大な悪霊の最後を見届けた一人と一匹は、車窓から外を眺めながらひっそりと息を吐いていた。
『……やれやれ。人類の想像力というのは、実に無駄に豊かだな』
呆れ返ったウルの念話に、コロは頬杖をついたまま、心の中でクスリと笑って同調する。
「仕方ないよ。真実が『論理的に現実を突きつけられたら、勝手に心が折れて消滅した』だなんて、誰も信じないし、物語としてちっとも面白くないからね」
『死闘、か。俺の記憶が確かなら、ただ床に落ちた本を棚に戻しただけだがな』
「むしろ、出てきた夕食ついて議論してた時間のほうが長かった気がするしね」
コロの誰にも聞こえない小さな呟きは、乗客たちの盛り上がる声と、馬車の車輪が立てる乾いた音にかき消されていった。
訂正して回る義理もないし、そんなことをしても一銭の得にもならない。
街の人々が悲劇の学者の退場を「感動的な浄化」や「激しい死闘」として消費したいのなら、勝手にさせておけばいい。
一人と一匹はそう思っているのか、一切口出ししようとはしなかった。
※ ※ ※
その日の夜。
城塞都市から遠く離れた荒野の野営地で、焚き火の温もりを感じながら、コロはいつものように深く、静かな眠りへと落ちていった。
――気がつくと、コロの意識は重力も時間も存在しない、あの『真っ白な聖域』へと沈んでいた。
不快な魔物の血の匂いも、人類の都市の淀んだ空気も、無責任な噂話のノイズも存在しない、完全に隔離された透明な空間。
そこには、漆黒の長い髪と、空気に溶けるような白いドレスを纏った絶世の美女――女神が、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて待っていた。
「おかえりなさい、私の愛おしいコロ」
コロは大好きな女神様の胸の中へ迷いなく飛び込んだ。
女神はコロを優しく抱きしめ、その美しい銀髪を愛おしそうに撫でる。
頬ずりをし、額や頬に何度も甘いキスを落としながら、現実世界で摩耗したコロの精神を徹底的に甘やかして癒していく。
「……最近、全然呼んでくれなかったから心配しちゃった」
「ふふ、あなた達ったら、面白いんですもの!ついつい夢中になって見ていたわ」
「そんなに面白かった?まぁ、たまに会えない夜もあるし、そこまで心配していたわけじゃないんだけどね」
肩を竦めてそう言ったコロを、女神はクスクスと笑いながらギュッと抱きしめる腕に力を込めた。
「見ていたと思うけれど、大図書館の幽霊のお兄さんが消えちゃったんだ」
コロは女神様の腕の中で安心して身を委ねながら、この数日の出来事を報告し始めた。
自分に酔いしれる幽霊の滑稽さ。
それを悲劇な喜劇として消費する人類の愚かさ。
そしてコロの突きつけた正論で、幽霊が呆気なく消滅した顛末。
コロの徹底して合理的で冷徹な視点からの報告を、女神様は咎めるどころか、クスクスと楽しそうに笑いながら聞いていた。
「ふふっ、本当に人類というのは、いつまで経っても非効率で愚かだわ。数十年前の裏切りなんて、私から見れば瞬きにも満たない些事なのに、そんなものにしがみついて勝手に自壊するだなんて」
「それでね、ちょっと気になったんだけど」
「何かしら?」
「あの幽霊のお兄さん、女神様のもとへ帰ってきたのかな?」
コロが尋ねると、女神様はコロの頬を撫でる手を止めず、その美しい顔に『絶対零度の冷酷さ』を滲ませた。
「あの幽霊のお兄さん?さあ……私のもとへ還ってくる魂なんて、無数にある星の砂の一粒に過ぎないもの。いちいち把握なんてしていないわ」
「それはそうだよね。うん、それはそうだね」
「ええ。彼らが『悲劇』だの『怨念』だのと騒ぎ立てているものも、所詮は人類が勝手に作り出した小さな箱庭の中のノイズ。だから、その子が帰ってきたのか、それとも別の何かに生まれ変わったのか、そんなことまで私は観測していないわ」
何十年も続く怨念も、街を震え上がらせた呪いも、神の視点から見れば気にも留めない塵芥に等しい。
ただ、その無機質で冷酷な神としてのスタンスは、腕の中にいる少女に向けられる時だけは、狂気的なまでの愛情へと反転する。
「でも、私のコロがそんな存在に煩わされることなく、無事に過ごせたのならそれでいいわ。コロはコロのまま、合理的に、自由に生きてちょうだい。あなたはそれでいいのよ」
「うん。……やっぱり、女神様に今日一日あったことを報告するこの時間が、私にとって一番落ち着くよ。この楽しみがなくなっちゃうのは嫌だからね」
「ええ、私もよ。私の可愛い、可愛いコロ……」
女神からの底なしの溺愛と全肯定のシャワーを浴びて、コロの魂は完全に満たされていく。
額に落ちる温かく柔らかなキスの感触を最後に、コロの意識は再び現実へと浮上していった。
※ ※ ※
――パチ、パチッ。
目を開けると、そこは荒野の野営地。
焚き火の残り火が小さな音を立てて爆ぜていた。
足元では、ウルが丸まって心地よさそうに寝息を立てている。
「……さあ、今日はどっちに行こうかな」
圧倒的なスケールの庇護によって完全に癒やされたコロは、小さく伸びをすると、新しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだのだった。
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