大図書館の怪異と、無報酬の復讐 2 〜カビ臭い怨念と、哀れな箱庭〜
2.
そして、夜。
昼間の賑わいが嘘のように静まり返った大図書館は、館内の明かりが落とされ、昼間以上に重苦しく閉鎖的な空間へと変貌していた。
館長が用意してくれた極上のローストビーフを、広くて快適な控室で平らげた一人と一匹は、ランタンを片手に広大な館内を歩き出した。
「これで適当に見回って、宿代が浮くどころか銀貨まで貰えるなんて、相当美味しい仕事だよ」
『飯も美味かったしな』
「これは久しぶりの『大当たり』の仕事だよ」
そう言ったコロの尻尾は機嫌良さそうにユラユラと揺れている。
ほどなくして、噂通りにランタンの火が青白く変色し、凍りつくような冷気が足元から這い上がってきた。
――ピキ……ピキピキッ……!
周囲の窓ガラスが霜で覆われ、本棚の隙間からドロドロとした濃密な闇が滲み出す。
『……許さない……私を陥れた者たちを……呪ってやる……!』
闇の中から空中に浮かび上がったのは、首に生々しい引っ掻き跡を残した、青白い青年の幽霊だった。
周囲の空気が凄まじい怨念で振動し、並んだ本がポルターガイスト現象によってバラバラと床に落下する。
並の人類であれば、その場にへたり込んで発狂していただろう。
しかし、コロとウルは歩みを止めなかった。
コロは床に落ちた本を拾い上げ、パンパンと埃を払うと、幽霊に向かってひどく平坦な声で言った。
「本を雑に扱われるのは困るんだけどね」
『……え?』
怨念を振り撒いていた幽霊が、間の抜けた声を漏らす。
目の前の少女は恐怖するどころか、微塵も動じていない。
生者特有の生命力の揺らぎや、怯えといった反応が全く返ってこないことに、幽霊はひどく戸惑っているようだった。
「もしこれで本が傷んで、私たちが怒られたらたまんないよ」
『フン。『真面目で良い青年』が聞いて呆れるな』
「だね。真面目で良い青年は本を適当に放り出さないと思う。それにこの冷気。タダでさえカビ臭いのに、冷気なんて放たれたら、本が益々カビちゃうよ」
ため息混じりに本を拾い上げては、適当なところに本を戻すコロ。
ウルもマズルを顰めながらフンと鼻を鳴らし、不機嫌そうに尻尾でカビ臭さを散らしている。
「まあ巡回するだけで宿代がタダになるんだもんね。本を直すくらいで文句は言えないかな」
『俺達が立ち去った後で同じようなことをされたら堪らんがな』
「その時はウルが教えてね。よしっと、こんなもんかな」
一通り床に散らばった本を本棚に納め、コロはパンパンと埃を払うように手を叩いてみせた。
「さてと、さっさと回って寝ようか」
『フン。ところで今日出た飯だが、ローストビーフのソースが少し甘すぎたな。明日は塩気を足すよう言っておけ』
「そうだね、この地方は甘いソースが普通なのかな?たしかにちょっと甘かったかな」
一人と一匹は、呆然と宙に浮く幽霊の横を「ただのちょっと冷たい風」でも通り抜けるかのように素通りし、さっさと見回りを終えて快適なベッドで眠りについてしまった。
翌朝。
夜の重苦しい闇が嘘のように、大図書館にはステンドグラス越しに爽やかな朝の光が差し込んでいた。
「おはよう」
広くて快適な控室でぐっすりと眠り、欠伸混じりに出てきた一人と一匹を待ち受けていたのは、昨日の丸眼鏡をかけた受付の女性だった。
彼女はひどく血走った目で、コロとウルの全身を穴の開くように見つめている。
恐らく、既に逃げ出してしまっているか、最悪の場合は発狂してしまうことを覚悟して様子を見にやってきたのだろう。
「あ、あなたたち……ご無事で……!?そ、それで、昨晩の夜間見回りは、どうだったのですか!?」
「ええと、本をバサバサと床に落とされたから、適当なところに拾って戻しておいたよ」
すがりつくように尋ねてくる女性に対し、コロはリュックサックを背負い直しながら、極めて事務的な報告を入れた。
「えっ……本?ああ、たしかに散らばっていなかった……」
「うん。1階の南側の魔導書関連の本が並んでいる本棚だね。あ、夜食のローストビーフはすごく美味しかったけど、ソースがちょっと甘かったかな。今日の夜は塩気を足すように言っておいてもらえるかな」
あまりにも場違いな業務連絡と食事の感想に、女性は一瞬ポカンと口を開け――すぐにハッと我に返り、ガタガタと震えながらコロに詰め寄った。
「そ、そうじゃなくて!じゃあ、やっぱり……幽霊が出たの……!?」
「出たから、床に本が散らばったんだからね」
コロは当然の事実のように、あっさりと、そして淡々と告げる。
「私たちが落としたわけじゃないよ。もし本に傷がいっていても、私たちじゃなくて幽霊に文句を言ってね」
「ゆ、幽霊に文句をって、そんな無茶な……!」
「じゃあ、今日の見回りの分もよろしくね。また夜に来るから」
絶句して固まる受付の女性を置き去りにして、コロはウルの横をトコトコと歩き出す。
恐怖の心霊スポットを『ちょっと散らかっているだけの無料の宿屋』程度にしか認識していない異常な一人と一匹は、今日もこの割のいい依頼の恩恵を最大限に享受するつもりらしい。
それから、数日が経過した。
幽霊は毎晩のように現れ、本を落としたり、より強い冷気を放ったりしてコロたちを脅かそうと試みていた。
しかし、一人と一匹は全く動じることなく、「今日の夜食のスープ、美味しかったね」『塩気が丁度良くなったな』などと日常会話を交わしながら、幽霊を風景の一部のように面倒くさそうにあしらい続けた。
そして、コロが掲示板の中でも昼間の依頼で、当面の資金を稼ぎ終え、この都市を発とうと決めた前日の夜。
一人と一匹がいつものように見回りを始めようと控室を出たところに、神経質そうな館長とともに、豪奢な純白の法衣を身にまとった教会の司教がやってきた。
「おお、あなた方が毎晩見回りをしてくださっている旅人ですね」
「うん。そうだけど……」
「私は今日、あの哀れな魂を今度こそ浄化し、安らぎを与えるために参りました。この街の教会の司教をしておりますセバスチャン・ペンバートンと申します」
「私はコロ。この子はウル。よろしくね。それより相手はアンデッドでもないのに、大変だね」
司教は深くため息をつき、コロたちへ向けて悲痛な顔で語り出した。
「ええ……しかし、これ以上彼をあのように彷徨わせておくわけにはいきません」
「さあ、ペンバートン司教、彼がよく現れるという旧魔導書架までご案内しましょう。君たちも着いてきてくれたまえ」
「うん。ウル、行こう」
そう言って歩き出した司教と館長の後ろを、コロとウルはいつもの見回りのようについていく。
重厚な書架の間を歩きながら、司教と館長はまるで三文芝居の演目のように、大げさに幽霊の過去について語り始めた。
「伝え聞く話によれば、家名を持たぬ平民の出ながらも大変優秀で、実直真面目な青年だったそうです……。それなのに、同僚の卑劣な罠にはまり、門外不出の魔導書を横領したという汚名を着せられたとされています」
「へぇ。そうなんだ」
「ええ、ええ。あまりにも哀れで、強い怨念ですからな。無実の罪を着せられ、誰にも信じてもらえずに殺された彼の人生を想うと、女神様に仕える身である私としては、胸が張り裂けそうで……!」
「ふうん……」
「そうですな。平民の出であった青年には、ついぞ弁明の機会すら与えられなかったようで、夜の書庫で密かに毒を盛られたというではありませんか!彼の無念はいかばかりか……!」
「なるほどね。だから首のあたりに引っ掻き跡があるんだ。苦しそうな痕だったもんね」
コロの淡々とした、あまりにも当たり障りのない相槌。
だが、司教たちは悲劇に酔いしれているのか、コロの塩対応を全く気にする様子もなく、朗々と語り続ける。
『……おいコロ。こいつらの声、無駄に大きくて耳障りだぞ』
「……仕方ないよ。自分たちの憐れみ深さに酔ってるんだから。適当に流しておこうよ」
小さな唸り声で文句を言うウルを宥めながら歩くこと数分。
やがて一行は、図書館の奥にある、一段とカビの匂いが強い旧魔導書架の前に辿り着いた。
「ああ……ここです。彼が命を落とし、今も無念の涙を流している場所は……!……そうだな?旅人の君」
すっかり腰が引けている館長は、まるでコロに縋るようにして尋ねた。
「うん、そうだね。毎晩ちょっかいをかけてくるんだよね」
「感じる……感じます……!強い怨念を……!」
司教が悲痛な声を張り上げ、胸の前で聖印を強く握りしめた。
そこまで語った時だった。
司教の持つ聖印にでも反応したのか、あるいはその大声に呼び寄せられたのか。
かつてないほどの冷気と闇が渦巻き、青年の幽霊が姿を現した。
『……うぅ……無念だ……許さない……!』
「ああっ……!分かりますっ……!なんと痛ましいことか……!皆さんもそう思いませんか!?」
「ええ!思いますぞ!!旅人の君もそう思うだろう!?なんと憐れな!可哀想に……!!」
司教も館長も胸の前で十字を切り、同情の涙を浮かべて幽霊を見上げた。
しかし、そんなドラマチックな空気を、コロの無機質な声がバッサリと切り裂いた。
「私は別にね、そのお兄さんを憐れだとも可哀想だとも思わないかな」
コロはランタンの青白い光に照らされながら、淡々と、残酷なまでに冷ややかな事実を告げた。
今度は幽霊だけでなく、司教と館長すらも固まってしまう。
しかし、そんな空気などお構い無しにコロの言葉は続く。
「お兄さんはお兄さんの『箱庭』の中で生きていたんだよ。決して、司教様や館長さんの箱庭の中で生きていた『駒』ではないんだからね」
「なっ……!あれほどの悲劇を聞いて、憐れみすら抱かないと言うのですか!?」
激昂する司教に、コロは首を横に振った。
「みんながみんなね、『憐れだ』とか『可哀想に』とか、口々に言ってしまうと、ね。……その幽霊のお兄さんは『バカ正直にまんまと嵌められて殺された憐れな人生』を送ったことになっちゃうと思うんだけどね」
「そ、それは……!」
「それを決めるのは他人じゃなくて、その幽霊のお兄さんだよ。司教様の問いかけに対する私の答えは、『当事者じゃないし、すごくどうでもいい』……かな」
あまりにも身も蓋もない正論。
同情という名の見下しを拒絶され、さらに「すごくどうでもいい」と切り捨てられた幽霊の青年は、屈辱と怒りに顔を歪めた。
『ふざけるな……!私の苦しみの何が分かる……!呪ってやる!私を裏切った者も、お前たちも全員、呪い殺してやる……!!』
図書館中の本がガタガタと震え、凄まじい怨念の波動が放たれる。
司教と館長が悲鳴を上げて座り込む中、コロは少しも表情を変えずに、小首を傾げて問い返した。
「赤の他人の私がさ、幽霊のお兄さんさの苦しみなんて分かるわけないでしょ」
『なっ……!?この……っ!』
「それに。生前にさ、同僚の裏切りであっさり死んじゃうような人が、どうやって呪いをかけるつもりなの?」
『それはっ……!?』
「お兄さんは、生前は呪術師か何かだったの?」
『い、いや……私はただの魔導書の研究をする学者で……』
そんな幽霊の言葉に、コロは小さく鼻を鳴らしながら、肩を竦めてしまった。
その無表情な氷藍色の瞳には、同情の色は微塵もない。
「じゃあ、呪うにあたっての作法は?呪術の媒体はどうやって集めて、それをその霊体でどうやって取り扱うつもりなの?具体的な手順は分かる?」
幽霊の怒号は、コロが次々と繰り出す『呪いの物理的・技術的なプロセス』の追及の前に、みるみるうちに萎縮していった。
怨念や未練といった感情論だけで呪いが成立するほど、現実は、そして呪術の理は甘くないのだ。
『そ、それは……だが、私のこの恨みは、怨念は……っ! 誰かが代わりに、私を嵌めた男に復讐を……!』
懇願するように縋り付いてくる幽霊。
だが、コロは最後のトドメとばかりに、極めて論理的で冷酷な『現実』を叩きつけた。
「恨みだの怨念だの言うけれどね。冷気を出して、本を何冊か棚から落とすだけで人は殺せないよ」
『…………』
「それに、無報酬で、見ず知らずの死者の恨みを晴らすために、見ず知らずの、今頃はお爺さんになっているような人をわざわざ殺す人なんて、この世界には居ないと思うな」
『……っ!』
「女神様のもとへ帰れそうなら、そろそろいい加減諦めて帰ればいいし、アンデッドになれそうなら、今すぐアンデッドになって、今すぐ司教様に始末されればいい。何も出来ないなら、ずっと街の人達の退屈を刺激する『道化』として冷気を放ったり本を落としたりする芸を披露していればいいよ」
静寂。
ぐうの音も出ない、完全なる正論。
自分を悲劇の主人公だと思い込み、誰かが復讐してくれることを期待して未練がましく彷徨っていた幽霊の自尊心は、コロの言葉によって粉々に打ち砕かれた。
『あ……ああ……』
「残念だけど、私たちじゃどうしようもできないね」
『わ、私は……私は……っ!』
「そもそも、復讐の相手って……まだ生きてるの?」
『……えっ……?』
「いや、お兄さんよりさ、一足先に女神様のもとに帰ってそうだなって」
自らの存在の滑稽さと無力さを完全に理解させられた幽霊は、ポロポロと涙のような光の粒をこぼし――次の瞬間、フッと音もなく空中に溶けて消滅した。
浄化でもなく、成仏と呼べるほど美しいものでもない。
ただ、現実を突きつけられて心が折れ、文字通り『消え失せた』のだ。
「……えっ?あ、あれ……?悪霊は……?」
「ペンバートン司教……い、一体何が……?」
床にへたり込みながら、疑問に疑問を返し合う司教と館長。
『呆気なかったな』
「だね。さて、ウル。見回りも終わったし、早く寝ようか」
『フン。退屈な道化だったな』
「中途半端に憐れむから、あの幽霊のお兄さんも何か『自分は特別だ』なんて勘違いしてたんじゃないかな」
呆然とへたり込む司教と館長を置き去りにして、一人と一匹は足早に控室へと戻っていくのだった。
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