三つの約束と、泥まみれの新生 4 〜地獄の実地訓練と、晴れやかなる出立〜
4.
強烈な血の匂いにつられてやってきたのだろう。
身の丈は子供ほどだが、全身からドブのような腐臭を放ち、手には錆びた鉈や棍棒を握りしめている。
彼らはウルや狐たちの姿を見ても怯むことなく、ギョロリとした淀んだ黄色い目で敵意を剥き出しにし、ギャーギャーと奇声を上げて突進してきた。
「あー、ゴブリンか。意思疎通ができない魔物は、ただの『敵』だね」
『片付けるか?』
「うーん……」
コロは小さく溜息をつくと、横に立つヘンリエッタへ視線を向けた。
「ちょうどいいや。ヘンリエッタ」
「……?」
「さっき拾った小剣を抜いて。今からある程度のことを教えるから」
「え……?」
「ウル、あのゴブリンたち、殺さない程度に行動不能にして」
『チッ……面倒な注文をつける』
ウルは舌打ちをしながらも、地を蹴った。
――瞬きをする間もなかった。
ウルの巨躯がゴブリンたちの間を駆け抜けた直後、三体のゴブリンは「ギャアアアッ!」と凄惨な悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
ウルの鋭い爪が、彼らの両足のアキレス腱と、武器を持っていた右腕の筋だけを、極めて精密に切断したのだ。
這いずることしかできなくなったゴブリンたちが、泥に塗れてのたうち回っている。
コロはヘンリエッタの背中を、トンと軽く押した。
「ほら、やって。トドメを刺して」
「こ、これを……私が……?」
「うん。これも傭兵の修行だよ。自分の命を狙ってくる敵を、自分の手で確実に仕留める。それができないなら、遠い街へ行く前に野垂れ死ぬだけだよ」
コロの淡々とした言葉に、ヘンリエッタは息を飲んだ。
相手は醜悪な魔物とはいえ、生きて動くものを自らの手で殺す。
それは、安全な屋敷で守られてきた彼女にとって、最も高く、そして越えなければならない壁だった。
「……っ!」
ヘンリエッタは小剣を両手で強く握り締め、のたうち回るゴブリンの前へと進み出た。
ゴブリンが醜い顔を歪め、悪臭を放ちながら彼女へ左手で掴みかかろうとする。
「私は、生きる……!自分の足で……っ!」
ヘンリエッタは奥歯を噛み締め、渾身の力を込めて、ゴブリンの首元へ刃を突き立てた。
グチャリ、と嫌な感触がヘンリエッタの手に伝わる。
ゴブリンは短い断末魔を上げ、痙攣した後に動かなくなった。
ヘンリエッタの顔に、生暖かい返り血が飛ぶ。
「あと二体。動きが止まるまで、しっかり刺すんだよ」
コロの冷酷な指導に従い、ヘンリエッタは残りの二体へも刃を突き立てた。
腕が痺れ、息が上がり、手は魔物の返り血で真っ赤に染まっている。
最後の一体が完全に動かなくなったのを確認すると、彼女はその場にへたり込み、荒い息を吐き出した。
「はぁっ……はぁっ……」
「うん、さっきまで貴族令嬢だった割には上出来じゃないかな。筋は悪くないよ。……これで一歩を踏み出したね」
コロは血まみれのヘンリエッタを見下ろし、満足げに頷いた。
貴族としての未練を捨て、自らの手を血に染めてでも生き抜く覚悟を決めた少女。
これでもう、彼女が元の屋敷に戻って無駄死にするようなことは絶対にない。
「さて、覚悟が決まったところで。ここから街に着くまでの数日間、傭兵としての基礎をみっちり教えるからね」
「え……数日間?」
「当然でしょ。今のままじゃ、ただゴブリンを倒せただけの素人だよ。ちゃんと一人で生きていけるように、手っ取り早く実地で覚えてもらうつもり」
淡々とそう告げるコロの言葉に、ヘンリエッタは唖然とし、ウルは尻尾を垂らして小さくため息をついていた。
その日から、ヘンリエッタにとって地獄のような、しかし生存に直結するスパルタ教育が始まった。
深い森の中には、狼系の魔物であるウルを見ると、縄張り意識からか見境なく襲いかかってくる巨大な山猫の魔物などが生息していた。
ウルが欠伸交じりにその鋭い爪や牙を捌き、軽く前足で押さえつけて身動きを封じたところへ、ヘンリエッタが小剣で急所を突く。
動く標的のどこを刺せば確実に命を絶てるのか。
コロとウル監修のもと、彼女は何度も魔物の返り血を浴びながら『殺し方』を体に叩き込まれた。
「はい、倒したら終わりじゃないよ。胸を開いて魔石を取り出して」
「と、取り出す……?」
「それが傭兵の稼ぎになるんだからね」
息絶えた魔物を前に、コロは当然のようにナイフを差し出す。
ヘンリエッタは震える手で分厚い毛皮と肉を掻き分け、骨を避けながら、血だまりの中をまさぐって小さな魔石を抉り出す術を学んだ。
それだけではない。
日々の食料調達と解体も、彼女の必須科目となった。
野生の猪やウサギを狩り、まだ温かいその身体を木の枝に逆さに吊るす。
「首の動脈を裂いて。血抜きが甘いと肉が臭くて食べられなくなるよ」
コロの無機質な指導に従い、ヘンリエッタは小剣で獲物の首を裂き、ドクドクと流れ出る赤黒い血を地面に滴らせる。
完全に血が抜けきった後は、腹を割いて、湯気を立てる生温かい内臓を素手でズルリと引きずり出し、食べられる部位と捨てる部位を淡々と仕分けしていった。
初日こそ、そのあまりの生々しさと血の臭いに青ざめ、胃の腑のものを吐き出していたヘンリエッタだったが――人類とは、そして生存本能とは恐ろしいものである。
三日も経つ頃には、顔に返り血が飛ぼうが、手に獣の脂がこびりつこうが、彼女は眉一つ動かさなくなった。
夜の焚き火の前では、コロに教わった通りに黙々と小剣の刃を研ぎ、泥臭い野草と干し肉のスープを何の躊躇いもなく飲み干す。
数日間の森の旅を通して、豪奢なドレスを纏い、世間知らずだった伯爵令嬢の姿は完全に消失していた。
そこにいるのは、薄汚れた革の胸当てを身に着け、生きるための冷徹な瞳を持った、一人の逞しい新人傭兵だった。
そして、スパルタ教育の総仕上げは、森を抜けた先にある小さな村で行われた。
村のよろず屋の使い込まれたカウンターに、重たい麻袋がドンッと置かれる。
中身は、数日間の狩りで得た魔石や獣の素材、そして――裏切った従僕や盗賊たちから剥ぎ取った、余分な武器や防具の数々だ。
「……ふん。駆け出しにしちゃあ上等な品を持ってるが、所詮は型落ちの中古品と小ぶりな魔石だ。全部まとめて銀貨三十枚ってところだな」
胡散臭そうな目を向けた店主が、いかにも新人相手に足元を見た安い査定額を提示してくる。
だが、カウンターの前に立つヘンリエッタは、少しも動じることなく真っ直ぐに店主の目を見据え、言い放った。
「冗談でしょう。この魔石は山猫のもの。小ぶりとはいえ純度は高く、欠けもない。これだけでも最低、銀貨五枚の価値はある。それに、この胸当ては仕立ての良い硬革製で、留め具も生きている。その辺の死体のお下がりなんかと一緒にしないで欲しい。他のものも加味すれば……全部まとめて、銀貨四十枚はくだらないはず。それ以下なら、もっと都会へ持っていくだけ」
一切の隙を見せない、堂々とした交渉術。
それは、森を歩きながらコロが口酸っぱく教え込んだ『適正相場』と『ナメられないためのハッタリ』だった。
「ちっ……最近の若い奴は可愛げがねえな。舐めて悪かったな、分かったよ!詫びのつもりで銀貨四十三枚だ。持っていきな!」
舌打ちをした店主がカウンターに銀貨を並べる。
ヘンリエッタはそれを冷静に数え、自分の革袋へと収めた。
「うん、完璧な交渉だったね。足元を見られずに適正価格で売り抜けるなんて、初めてにしては上出来だよ」
店を出た後、壁際で大人しく様子を見ていたコロが、パチパチと小さく拍手をして見せた。
「ヘンリエッタは、さすが元貴族だね。基礎の頭が良いから、教えたことを覚えて自分のものにするのが、その辺の平民より、すごく早い方だと思うよ」
「そう言われると悪い気がしないわ」
「これなら、一人でも絶対にぼったくられないよ」
「ふふっ、ありがとう。コロにそう言ってもらえると自信になるわ」
ヘンリエッタは短くなった髪を揺らし、誇らしげに微笑んだ。
自分の手で稼ぎ、自分の力で交渉して得た、確かな生きるための対価。
銀貨の重みが、今の彼女には何よりも愛おしく、頼もしかった。
「じゃあ、特訓はここまでにして、最後の仕上げだよ」
「……最後?」
「うん。この村で一番マシそうな宿を自分で選んで、宿泊の交渉をしてきて」
「ええ、コロの講義はよく覚えているわ。任せてちょうだい」
『フン。数日前まで泥水を啜って泣いていた羽虫が、随分と逞しくなったものだ』
鼻を鳴らしてそう唸り声を上げたウルだったが、みるみるうちに逞しくなっていくヘンリエッタをコロと議論しながら育てるのは、存外楽しかったらしい。
その証拠として、ウルの尻尾は機嫌良さそうにユラユラと揺れている。
一人と一匹が見守る中、ヘンリエッタは迷うことのない足取りで村の大通りを歩き出す。
そして、外観の造りや客層を冷静に観察し、最も治安が良く清潔そうな宿屋を見繕うと、コロの顔を見ないまま口を開いた。
「この宿にするわ」
「へぇ。理由は?」
「隣の宿のほうが大きくて綺麗に見えるけれど、エントランスの床が不自然に綺麗すぎるわ。この村は未舗装の道が多いのに、あんなに泥の跡がないのは、客の出入りが少ない証拠。つまり、見た目だけでサービスや食事が悪くて、常連が寄り付かない宿よ」
ヘンリエッタはコロの講義を反芻するように、淀みなく理由を語り始めた。
「それに比べて、こっちの宿は入り口の木枠が擦り減っているし、窓ガラスもよく磨かれている。なにより……さっきから出入りしている客の装備が、手入れの行き届いた中堅の冒険者や行商人ばかり。彼らが定宿にしているということは、値段に見合った治安と食事が保証されているってことよ」
「うん。私もそこを選ぶかな。大正解」
コロは満足げに頷いた。
ただの勘や見た目ではなく、情報を論理的に分析し、生き残るための『安全』を買う。
もう彼女の判断に、危うさは微塵もなかった。
「じゃあ、行ってくるわね」
ヘンリエッタはそう言うと、堂々とした態度で扉を押し開け、自らの宿代の交渉へと向かっていった。
少し待っていると、ヘンリエッタは嬉しそうな顔をして戻ってきた。
「交渉成立よ。相部屋じゃなく個室、夕食と朝食付きで一人大銅貨八枚。従魔は大銅貨五枚。ここから遠く離れた交易都市へ向かう乗合馬車の手配も、宿の主人が良心的な値段で仲介してくれると言っていたわ」
「それは良かった。出発はいつ?」
「明日の早朝よ。……だから、お二人とは、明日の朝でお別れね」
ヘンリエッタの言葉に、少しだけ寂しさが混じる。
しかし、コロはいつも通り、ひどく平坦な声で答えた。
「うん、そうだね。もう立派な『新米の傭兵』に見えるしね。じゃあ今日はゆっくり休んで。明日の朝、馬車が出るまで見送るから」
翌朝。
村の広場には、出立の準備を整えた乗合馬車が停まっていた。
荷台に乗り込んだヘンリエッタは、短くなった髪を朝の風に揺らしながら、見送りに来た一人と一匹に深く、深く頭を下げた。
「コロ、ウル。あなたたちに出会わなければ、私は今頃、森の中で絶望したまま死んでいたわ。……本当に、何から何までありがとう。この命と、教えてもらったこと、絶対に無駄にはしないわ」
その表情は、出会った日の夜とは比べ物にならないほど、力強く、晴れやかだった。
「報酬は――「『旅の途中で困っている奴がいたら、種族を問わず『三人まで』は無償で助けてやってほしい。そして、助けた相手にも同じことを頼んでくれ』――でしょう?」
「うん、そのとおり。それじゃあ、元気でね」
『フン。せいぜい長生きしろよ』
コロは軽く手を振り、ウルは退屈そうに欠伸をした。
やがて御者の鞭が鳴り、馬車がゆっくりと動き出す。ヘンリエッタは姿が見えなくなるまで、ずっと二人に手を振っていた。
馬車が村の門を越え、完全にその影が見えなくなったところで、コロはふぅと短く息を吐いた。
「よし、これでチャーリーのノルマ、三つ達成だね。ここまでやったら、ヘンリエッタが3人分ってことで、チャーリーだって何も文句はないよ」
『フン。随分と手こずった上に、余計な手間をかけた気がするがな』
「でも、たまにはこういうのも悪くないね。この後、どう生きるかまでは知らないけど」
『此処から先はチャーリーの約束の範疇外だ』
「だね。ま、私たちも次の街へ向けて出発しないとね。ここ最近、ちっとも稼いでないよ」
『無理して稼ぐ必要ないだろうが』
「そういう事じゃないよ。適当に採取しながらのんびり行こうか」
『ああ』
コロは背嚢を背負い直すと、ウルの横をトコトコと歩き出した。
一つの理不尽な死から救い出され、逞しく生まれ変わった少女の人生は、もう彼らの関知するところではない。
彼らはただ、いつもの再び気ままな旅へと戻っていくのだった。
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