三つの約束と、泥まみれの新生 3 〜圧倒的な蹂躙と、貴族という名の鎖〜
3.
木々の隙間から見えたのは、苔むした丸太で組まれた古い狩人の小屋だった。
周囲には空になった酒瓶や木箱が無造作に転がり、煙突からは燻った煙が細く立ち上っている。
森の奥深くという立地が彼らの緊張感を完全に削いでいるのだろう。
小屋の中からは、下品な笑い声と酒盛りの喧騒が微かに漏れ聞こえていた。
「……あそこにいますね」
コロは小屋から少し離れた茂みの陰に身を隠すと、足元に落ちていた手頃な石ころを二つ拾い上げた。
「ヘンリエッタさんはここで見ていてくださいね」
「え、ええ……」
「さて、君たちは私があっちの茂みに石を投げたら、その周辺を全力で走り回って音を立ててね。人類の前に姿は見せないように」
『うん、わかった!』
『音だけだね!得意だよ!』
『人類を弄ぶの、好き!』
涎を垂らした口裂け狐たちが、ウキウキとした様子で低く身を構える。
『俺はどうする』
「全員外に出てきたらよろしくね」
『分かった』
「じゃあみんな、行くよ」
コロはひどく無造作なフォームで、一つ目の石を小屋へ向けてふわりと投げた。
――カコンッ。
石は小屋の木の扉に当たり、乾いた音を立てた。
酒盛りの声がピタリと止む。
やがて、「あぁ? なんだ今の音」と舌打ち交じりの声が響き、ギィッと音を立てて粗末な扉が開いた。
出てきたのは、ヘンリエッタから身ぐるみを剥ごうとしたのと同じような、薄汚れた革鎧を着た盗賊の男だった。
男は気怠げに首を鳴らし、濁った目で辺りを見回す。
その瞬間、コロは手の中にある二つ目の石を、小屋から少し離れた茂みの奥へと勢いよく投げ込んだ。
――ガサガサッ!!
男がビクッと肩を揺らし、小屋の中へ向けて声を荒げた。
「おい!茂みで何か音がしたぞ!あの逃げたアマか、魔物かもしれねえ!」
男は腰の剣を抜き放ち、警戒しながら石の落ちた茂みへと近づいていく。
そこへ、コロの指示を受けた口裂け狐たちが一斉に動き出した。
彼らは極めて俊敏な動きで茂みから茂みへと飛び移り、意図的にガサガサと大きな葉音を立てて男を翻弄する。
「クソッ、なんだ!?すばしっこいぞ、おい!誰か加勢しろ!!」
男が声を上げると、小屋の中からぞろぞろと他の人間たちが飛び出してきた。
荒くれ者の盗賊たちだけではない。ヘンリエッタは、その中に混じっていた者たちの姿を見て、呼吸を忘れたように目を見開いた。
「え……?」
盗賊たちに混じって現れたのは、仕立ての良い服を着た見知った身なりの男。
そして、伯爵家の見慣れたお仕着せを着て、短い弓矢を構えた女だった。
「もたもたしないで!もしヘンリエッタなら、絶対に生かして捕まえなさい!」
メイドの女が、ヒステリックな声で盗賊たちに指示を飛ばす。
「奥様からの厳命よ!あの小娘が絶望で顔を歪めるところを直に見たいそうだから、手足の骨を折ってでも生け捕りにするのよ!」
「へいへい、分かってますよ。昨日逃がしちまった分、今日はたっぷり可愛がってから――」
下品な笑いを浮かべた盗賊の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
『――遅い』
地を這うような低い声が響いた直後。
白銀の閃光が、狩人の小屋の前の空間を駆け抜けた。
「あ?」
メイドの隣にいた従僕の男が、間抜けな声を漏らす。
次の瞬間、男の視界がグルンと縦に回転した。
ウルが下から放った無造作な蹴り上げが、従僕の顎を完璧に捉え、その身体を遥か20メートルほどの上空へと蹴り飛ばしたのだ。
「はっ……?」
盗賊たちが状況を理解するより早く、死の蹂躙が始まった。
約束通り、黒雷はいっさい使わない。
ウルは純粋な脚力と質量、そして鋭い爪の物理攻撃だけで、おぞましい速度で敵陣を駆け抜ける。
スパーンッ、と小気味良い音が鳴るたびに、盗賊たちの喉笛が裂け、鮮血が赤い霧のように空を舞った。
頭を丸ごと噛み砕かれる者。
胴体を真横から両断される者。
悲鳴を上げる隙すら与えられない。
上空へ蹴り飛ばされた従僕の男が、ドシャァッ! と重たい音を立てて地面に激突して肉塊に変わる頃には、立っている人類は一人残らず、物言わぬ新鮮な『肉』へと変わっていた。
『わーい! ご飯だー!』
『ねえ!服剥がしてー!』
歓喜の声を上げる口裂け狐たち。
ウルは血に濡れた前足の爪を軽く振って汚れを落とすと、欠伸をしながらコロの元へ戻ってきた。
『終わったな。身包みひっぺがしてやれ』
「はい、お疲れ様。さてと。終わりましたね、ヘンリエッタさん」
コロが茂みから立ち上がり、何事もなかったかのように振り返る。
しかし、ヘンリエッタは魔物たちの凄惨な食事風景には目もくれず、ただ、血だまりの中に沈んだメイドや従僕の死体を、虚ろな目で見つめていた。
「どうして……」
ヘンリエッタの手から、ポロリと小剣が滑り落ちる。
「エマにダン……。この人たちは、私が幼い頃からずっと傍にいてくれた……私に、優しくしてくれた人たちだったのに……」
信頼していた者たちの口から放たれた、自分を折って嬲り者にしようとする呪いの言葉。
彼女は別の意味で唖然とし、完全に心が折れたように、その場に崩れ落ちたのだった。
だが――
「さて。身ぐるみを剥がしますので、ヘンリエッタさんはウルの側で待っていてください」
令嬢の悲痛な呟きは、コロのひどく事務的な声によってあっさりと遮られた。
コロはヘンリエッタの絶望など一ミリも気にする様子もなく、涎を垂らして待機している口裂け狐たちに向かって手を上げた。
「はい、ちょっと待っててね。今、邪魔な布とか硬いところを取り除くから。それから食べていいよ」
『はーい!』
『待ってるー!』
尻尾を振って『お座り』をする異形の魔物たちを横目に、コロは血だまりの中へとトコトコ歩いていく。
そして、息絶えた盗賊や、つい先程までヘンリエッタの従僕だった男の死体の前にしゃがみ込んだ。
「えっと……この服は使えそうかな」
コロは独り言を呟きながら、従僕の着ていた上質な布地の服を、血が付かないように器用に、かつ丁寧に脱がしていく。
さらに隣の盗賊の死体を転がし、装備品を物色し始めた。
「うん、この胸当ては使えそう。サイズも調整できそうかな」
カチャカチャと留め具を外し、使い込まれた革と鉄の胸当てを丁寧に引き剥がす。
その手つきは、獲物の解体や薬草の選別を行う時と何ら変わらない、熟練の採取家のそれだった。
「……あ、これはいらないや。血の跡が残っちゃうし、ちょっと上等過ぎて目立つかな」
次にメイドの死体へ移ると、コロは面倒くさそうに首を振った。
彼女が取り出したのは、普段の採取で使っている鋭いナイフだ。
コロは一切の躊躇なく、血と泥で汚れたメイド服に刃を立てると、ビリビリと乱暴に切り裂いていく。
魔物たちが『肉』を食べやすいように、無価値な布切れをただのゴミとして削ぎ落とすだけの、極めて合理的な作業。
『その人類、美味しそう!』
「そうだね。もうちょっとだからね。所持品はまぁ……うん」
「あ……あぁ……」
ウルの側でへたり込んだまま、ヘンリエッタはその光景を呆然と見つめていた。
自分が幼い頃から慕っていた者たちが、ただの『物資』と『餌』として解体されていく。
冷たいナイフの刃がメイド服を切り裂くたびに、ヘンリエッタの中に残っていた『貴族令嬢としての甘い思い出』も一緒に切り裂かれ、跡形もなく解体されていくようだった。
「よし、こんなもんかな。ほら、もう食べていいよ」
『やったー!』
『いただきまーす!』
コロの許可が出た瞬間、待ちわびていた口裂け狐たちが一斉に死体群へと群がった。
グチャリ、バキバキと、骨と肉が噛み砕かれる生々しい咀嚼音が森に響き渡る。
「さてと。服も装備も、役に立ちそうな所持品やお財布もいくつか回収できたし、上出来かな」
小銭入れや剥ぎ取った防具を一箇所にまとめ、コロは血の付いたナイフをその辺の草で適当に拭ってから、ヘンリエッタの元へと戻ってきた。
そして、顔面を蒼白にして震えている令嬢の足元に、先ほど剥ぎ取ったばかりの『胸当て』と『上着』をドンッと無造作に放り投げた。
「はい、これ。ヘンリエッタさんの分です」
「え……?」
コロの氷藍色の瞳が、ヘンリエッタを真っ直ぐに見下ろしていた。
そこには慰めなどない。
ただ、「泣いてる暇があるなら武装しろ」という、強烈な生存への強制力だけがあった。
「まだ貴族令嬢として生きたいと思いますか?このまま屋敷に戻って、また命を狙われる毎日に戻るんですか?」
「……それは」
「今、見繕ったものを身に纏って髪を切れば、ヘンリエッタ様は別の人生を送ることが出来ますよ。逆に言えば、これが最後のチャンスかもしれません。今ならまだ、流れの傭兵になりたくて旅をはじめた貧乏な自由民に見えますからね」
コロは血の匂いが充満する森の中で、あまりにも平坦な声で告げた。
「ナイフの振り方や、森での過ごし方……ある程度のことは、街に着くまでに私たちが教えますけど。どうしますか?こんな機会、なかなか無いと思いますよ」
ヘンリエッタは、自分の足元に転がる死体の服と胸当てをじっと見つめた。
「実の父親も全く味方してくれない。継母はまだまだピンピンしている。屋敷の中には敵が紛れている。あと数年もしたら、同格の貴族の、適当な次男坊以降が充てがわれて、婿として迎え入れて番となる。そうなる前に、継母はもっと確実な方法であなたを亡き者にしようと躍起になる。……このまま貴族として生き続けられる自信はありますか?私には、それは無理じゃないかと思います」
背後では、口裂け狐たちがかつての従者や追手だったものたちを咀嚼し、骨を砕く音が続いている。
これ以上ないほどのおぞましい光景の中で、ヘンリエッタの瞳から、すっと絶望の涙が引いていった。
「……ナイフを貸してください」
ヘンリエッタは震える手を伸ばし、コロからナイフを受け取った。
そして、泥と血にまみれた豪奢なドレスを自ら引き裂いて脱ぎ捨てると、従僕の服と革の胸当てを身に着ける。
盗賊から回収した防具も身に着け、最後に、美しく波打っていた金色の長い髪を束ね、一切の躊躇なくナイフで切り落とした。
バサリと、貴族としての身分を象徴していた髪が血だまりの側に落ちる。
「……もう、アダムズ伯爵家のヘンリエッタは死にました」
「もう貴族じゃないね。よく似合ってるよ。ただの駆け出しの傭兵って感じ。じゃあ、ヘンリエッタの路銀を増やすために、ちょっと小屋の中を物色しようか」
「ええ……いや、うん」
不器用な肯定とともに顔を上げた彼女の横顔には、もう貴族令嬢としての未練はない。
ただ生き延びるという原始的な意志だけが、日に照らされて晴れやかに輝いていた。
苔むした狩人の小屋の中は、男たちの染み付いた汗と安酒、そしてカビの臭いが重苦しく充満していた。
薄暗い室内に踏み込んだ二人は、手分けして金目のものを探し始める。
やがて、コロが部屋の隅にある不自然に浮いた床板を剥がすと、その下から厳重に鍵の掛けられた木箱が見つかった。
「ウル、これ開けて」
『フン。造作もない』
ウルの前足が軽く振り下ろされると、頑丈な鉄の錠前が飴細工のように砕け散る。
中に入っていたのは、ズッシリと重い銀貨や金貨の袋。
そして、アダムズ伯爵家の後妻――ヘンリエッタの継母の紋章が封蝋として押された、数枚の羊皮紙だった。
「あったね。暗殺の指示書と、連中を雇った報酬の記録。これを持っていって告発すれば、その継母を破滅させられるかもしれないよ?」
「……いいえ」
コロの問いかけに、ヘンリエッタは静かに首を振った。
彼女の瞳には、つい先程まで宿っていたドロドロとした復讐の炎はもう無い。
「その女への復讐に囚われているうちは、私は結局、貴族の鎖に繋がれたまま。私が自分の人生を生きるために……こんなものは、もう必要ない」
ヘンリエッタは迷うことなく、部屋の隅で燻っていた暖炉の残り火に、指示書を放り込んだ。
チリチリと音を立てて燃え上がり、継母の紋章が黒い灰へと変わっていくのを冷ややかな目で見届けると、彼女は木箱の中の金貨の袋だけをしっかりと腰に結びつけた。
「路銀としては十分すぎるわ。これで、遠い別の街へ行く」
「うん、合理的でいいと思う。じゃあ、外に出ようか。狐たちが食べ終わっていればいいんだけど」
二人が小屋の外へ出ると、ちょうど血まみれの食事が終わったところだった。
口裂け狐たちは満腹そうに腹をさすりながら、地面に寝転がっている。
しかし、小屋から出てきたコロたちの姿を見るなり、彼らは鼻をひくつかせ、嫌悪感を露わにして立ち上がった。
『あ、お姉ちゃん!なんか、すっごく臭いのが来る!』
『アイツら言葉通じないし、すぐ襲ってくるから嫌い!』
狐たちが一斉に牙を剥いて森の奥を睨みつける。
ウルの耳もピクリと動き、低く喉を鳴らした。
直後、茂みがガサガサと大きく揺れ、現れたのは三体の醜悪な小鬼――ゴブリンだった。
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