三つの約束と、泥まみれの新生 2 〜因果応報の死体と、狂気じみた親切〜
2.
翌朝。
鬱蒼とした森の天蓋から、細い糸のような朝光が廃村へと差し込んでいた。
降り積もった落ち葉は朝露を吸ってひんやりと湿り、辺りには朝霧の白いモヤが立ち込めている。
「う……ん……」
ヘンリエッタが目を覚ました時、すでに焚き火は綺麗に消され、一人と一匹はいつでも出発できる準備を整えていた。
コロはリュックサックを背負い、ウルは気怠げに大きなあくびを噛み殺している。
「おはようございます」
「あ、ええ。おはようございます……」
「体は動きますか?動くならさっさと行きましょう」
「ええ、そうしましょう。幸いにして、身体は大丈夫そうです」
「お腹が空いたなら、歩きながらこれを齧ってください」
コロから手渡されたのは、昨日も見た石のように硬い黒パンだった。
ヘンリエッタは、まだ全身の節々が痛む体を無理やり起こし、泥と草の汁で完全に汚れてしまったドレスの裾を強く握りしめながら、必死にコロたちの後ろを追いかけた。
廃村を後にし、領都へと続く森の中の獣道を歩くこと、およそ一時間。
朝霧が徐々に晴れ、鳥たちのさえずりが響くのどかな森の空気を切り裂くように、突如として不快な臭いが漂ってきた。
ツンと鼻を突く、生々しい鉄の臭い――血臭だ。
『……フン。どうやら先客がいたようだな』
ウルが鼻を鳴らして視線を向けた先。
街道から少し外れた茂みの根元に、それは転がっていた。
人間族の男の死体だった。
身につけている衣服はボロボロに引き裂かれ、その下にある肉体は、大型の肉食魔物にでも襲われたのだろう、深く鋭い爪痕によって無残に抉られている。
地面の草木は、男から流れ出た赤黒い血を吸って不気味に色を変えていた。
抉られた肉の断面にはすでに羽虫がたかり、朝の冷気の中でも咽せ返るような死臭を放っている。
しかし、周囲の木々はそんな惨劇など気にも留めないかのように青々と葉を茂らせ、木漏れ日が血だまりを無慈悲に照らし出していた。
「ひっ……!?」
短い悲鳴を上げて、ヘンリエッタがその場にへたり込んだ。
恐怖に顔を青ざめさせ、ガタガタと震える指先で死体を指差す。
「こ、この男……!この男です……ッ!昨日、私を捕らえて……らっ、ら、乱暴しようとした……!」
ヘンリエッタを逃がした責任を負わされたのか、はたまた、手分けして捜索したのか。
いずれにせよ、運悪く夜行性の魔物に遭遇して貪り食われたのだろう。
ヘンリエッタにとっては因縁の相手の、あまりにも無残で、あまりにもあっけない末路だった。
「へぇ、この男ですか。じゃあ、自業自得ですね」
『仲間からせっつかれて、夜明け前から一人で探してたのか』
「うん、だろうね。森を近所の藪かなにかと勘違いしていたのかな」
ヘンリエッタが凄まじい衝撃と戦慄に震えているというのに、コロの反応はひどく淡々としたものだった。
死体の凄惨な損壊具合にも、それが昨日の犯人だという事実にも、毛ほどの興味も示さない。
それどころか、コロはトコトコと死体に近づくと、その懐や腰元を冷静に観察し始めた。
「あの、コロ様……? 一体何を……」
「ヘンリエッタさん。この男の服はもうダメだとして、武器や防具、どうしますか?」
「え……?どうって……」
唐突な問いかけに、ヘンリエッタは涙の浮かんだ目を丸くした。
コロは死体の傍らにしゃがみ込み、男が息絶えるまで握りしめていたであろう、血まみれの小剣を拾い上げて言った。
「どうしますかって、剥ぎ取るかどうかってことです。街に戻った後、また同じようなお家騒動になるんですよね?」
「そ、それは……」
「だったら、身を守るために武器の一つでも持っていた方が良いんじゃないですか?ほら、鉄のアームガードもまだ使えそうですね」
ヘンリエッタは、差し出された小剣の冷たい柄を、恐怖に震える手でなんとか受け取った。
ナマクラとはいえ、鉄の重みが彼女の細い手のひらにずっしりと載り、令嬢としての矜持を完全に押し潰していく。
「……それで、ヘンリエッタさん」
コロは衣服の汚れを気にする風でもなく、男の死体の懐を軽く探ってから立ち上がり、何事もなかったかのように下手な敬語で問いかけた。
「この男の仲間は、他にもまだいるんですか?」
「え……ええ、まだ、五、六人はいたはずです。森の奥にある、古い狩人の小屋をアジトにしていて……」
「五、六人ですか。分かりました。これ、少しですけど、この男が持っていたお金ですから、念のためどうぞ」
古ボケた革の小袋を受け取ったヘンリエッタ。
中には僅かに数枚の銀貨、あとは銅貨と大銅貨が入っている。
「え?お、お金……?」
「それを欲しがるのは人類だけですけど、私は路銀に困っていません。ヘンリエッタさんはお金、持ってないですよね」
「え、ええ……」
「じゃあどうぞ。さて、行きましょう」
コロは小さく頷くと、背嚢の紐をきゅっと締め直した。
ヘンリエッタは、小銭の入った革袋と小剣を胸に抱きしめるようにして、こくこくと頷いた。
しかし、コロとウルが歩き出した方向は、領都へと続く街道ではなく、さらに鬱蒼とした森の奥だった。
「あ、あの……コロ様?街はこちらの方向では……」
「ん?ああ、ちょっと寄り道です」
コロは振り返りもせずに、淡々と獣道を進んでいく。
寄り道というにはあまりにも深い森の奥だ。
人の踏み固めた獣道から外れると、頭上の枝葉はより一層厚みを増し、昼間だというのに薄暗い緑色の帳が視界を覆い尽くす。
足元には太い木の根が蛇のように這い回り、一歩進むごとに、人類を拒絶するような重い湿気が肌に纏わりついてきた。
ヘンリエッタは一抹の不安を覚えながらも、一人で死体のそばに残される恐怖の方が勝り、慌ててその後を追った。
しばらく進むと、茂みの奥からガサガサと何かが動く音がした。
現れたのは、大型犬ほどの大きさの魔物の群れだった。
狐に似た赤褐色の毛並みをしている口裂け狐だ。
その口元は耳まで裂け、ノコギリのような鋭い牙がびっしりと並んでいる。
隙間なく並んだ牙の間からは、粘り気のある黄色い涎が絶え間なく垂れ落ち、チリチリと土を焦がすような微かな酸の臭いを漂わせている。
イマイチ知性を感じさせない、純粋な飢えと殺意を多めに配合して造られたような、愛嬌のない顔つきだった。
本来なら人類を見れば即座に飛びかかってくるはずの狂暴な肉食の魔物だが、先頭を歩く白銀の魔狼の姿を見るなり、キャンッと情けない声を上げて湿った土の上に平伏した。
「ひっ……!」
ヘンリエッタが悲鳴を呑み込み、咄嗟に小剣を構えようとする。
だが、コロはそれを手で制すると、平伏してガタガタと震えている異形の狐たちにトコトコと近づいていった。
『ごめんなさい、間違えた。凄く強い狼様……』
「ねえ、ちょっといい?この森の中にポツンとある、人類の古い小屋みたいなのを知らない?」
魔物たちはウルの絶対的な威圧感に怯えながらも、コロの言葉に反応して互いの顔を見合わせた。
『多分あれじゃない?』
『いつも人類が群れでいるところだ』
『武器を持っていて危ないんだよね』
そんな様子でヒソヒソと相談を始める口裂け狐たち。
『……こいつら、知っているようだな』
「本当だね。じゃあさ、君たち、そこまで案内してよ」
『あそこ危ないから嫌です』
「うーん、報酬は、その小屋にいる人類たちでいいから」
「えっ……!?」
コロの物騒すぎる提案に、ヘンリエッタが息を呑んだ。
しかし、コロはどこまでも平坦な声で、まるで八百屋で野菜を値切るような調子で交渉を続ける。
『どうする……?』
『強い狼様に片付けてもらう?』
「ここにいるこの子がね、あなたたちがすぐ食べられるような形で仕留めてあげる。どう?」
その言葉を聞いた瞬間。
口裂け狐の魔物たちは、耳まで裂けた口をさらに大きく歪めて、喜色満面の表情を浮かべた。
絶対強者への恐怖よりも、労せずして上質な獲物にありつけるという食欲が勝ったらしい。
『全部!?』
「うん、全部綺麗に食べていいよ」
『やった!!案内します!!』
『えへへ、行こう!!』
彼らは今にもスキップしそうな勢いで立ち上がると、ブンブンと尻尾を振りながら、意気揚々と森の奥へ向かって歩き出した。
「よしよし、交渉成立しました。行きましょうか」
「ま、待ってください!コロ様、一体何を……!なぜ、わざわざあのアジトへ向かうのですか!?」
ヘンリエッタは震える声で問いかけた。
街へ逃げると思っていたのに、自ら追手の巣窟へ向かい、あろうことか魔物に「人類を餌として与える」という猟奇的な契約を交わしている。
それは令嬢の理解の範疇を完全に超えていたようだ。
普段は獲物の喉笛を掻き切るための鋭い爪を、カチャカチャと軽快に鳴らし、まるで親鳥についていく雛鳥のように、ウルとコロの前をウキウキとした足取りで先導していく。
その光景は、おとぎ話のパロディかと思うほど滑稽で、イマイチ緊張感に欠ける様子だ。
「なんでって……そのままにしておいて、また二度も三度も襲ってきたら大変ですよね?」
「そ、それは……そうですけど……」
「どうせお嬢様を攫って乱暴しようとするような悪人でしょうし、わざわざ生かしておく必要なんてありませんよ」
「し、しかし……」
「それに、あわよくばそのナマクラよりも、もっとマシな武器や防具があるかもしれませんよ。報酬の前金も残っていたら、お小遣いが手に入るかもしれませんし」
まるで「ついでにキノコでも採っていきましょう」とでも言うような、あまりにも軽い口調。
貴族の権力闘争の末に送り込まれた凶悪な盗賊たちを、コロは完全に「動く宝箱」か「魔物への給料」程度にしか認識していなかった。
「……」
ヘンリエッタは言葉を失った。
この幼い少女と魔狼は、自分とは全く違う『理』で生きている。
常軌を逸した恐怖と、それ以上の圧倒的な頼もしさ。
相反する感情に頭をぐちゃぐちゃにされながらも、ヘンリエッタはただ、ルンルン気分で先導する魔物たちと、一人と一匹の背中を追いかけるしかなかった。
さらに森の奥深くへと進むこと数十分。
スキップを踏む口裂け狐たちの嬉しそうな鼻歌のような鳴き声が響く中、不意に、先頭を歩いていたコロがピタリと足を止めた。
「ひっ……!?な、何ですか!? 敵ですか!?」
ビクッと肩を震わせ、泥だらけの小剣を不器用に構えるヘンリエッタ。
だが、コロは緊張感の欠片もない動作でしゃがみ込むと、木の根元に群生していた苔のような植物を無造作にむしり取った。
「いえ、ただの薬草採取です。……はい、これ」
コロはむしり取った葉の半分を、ヘンリエッタへと差し出した。
「止血効果のある『ヨモギゴケ』です。揉んで傷口に当てると血が止まりますから、ポケットにでも入れておいてください」
「え……あ、ありがとうございます……」
拍子抜けしながらも、ヘンリエッタはその青臭い葉を受け取った。
戦闘前の極限状態だというのに、道端の草を拾って渡してくるコロの行動は、やはりどこかズレている。
「それと、ウル」
『ん、なんだ』
「これから向かうアジトでの戦闘だけど、黒雷は使っちゃダメだよ」
コロの突然の指示に、ウルは不満げに鼻を鳴らした。
『チッ……なぜだ。一瞬で終わらせた方が早かろう』
「雷で黒焦げの灰になっちゃったら、この子たちの食べる分がなくなっちゃうでしょ。戦利品だって灰になっちゃう」
コロが足元の口裂け狐たちを指差すと、彼らは『そうそう!』『お肉なくなっちゃう!』と激しく同意するようにブンブンと尻尾を振った。
『……面倒な。では、仕方ない。物理的に噛み砕くか、首をへし折るかしてやる』
『わーい!生肉だー!』
『新鮮なお肉、久しぶりー!』
「うんうん、良かったね。じゃあ、ウルがへし折った端から食べていっていいからね。服とか鉄とか、邪魔なのは剥がしてあげるから、あとは綺麗に食べちゃっていいからね」
もはや、そこに「人類を殺す」という重みや罪悪感は一切存在していなかった。
どうすれば魔物たちが美味しく人間の肉を食べられるか。
そんな「調理方法」の打ち合わせを、ピクニックの献立でも決めるかのように和気藹々と話し合う一人と一匹と狐たち。
「……っ」
ヘンリエッタは、手の中の止血草をギュッと握りしめ、僅かに眩暈を覚えた。
これから死にに行くのは、つい昨日まで自分を攫ってどうにかしようとしていた人間たちのアジトだ。
それが今、狐の餌として「物理的にへし折られる」ことが確定してしまった。
だが、彼らが自分を裏切り、尊厳を奪おうとしたのも事実。
ここで同情などすれば、次に餌になるのは自分。
貴族としての甘さを完全に断ち切るように、ヘンリエッタは小さく深呼吸をし、泥だらけの小剣を強く握り直した。
その時だった。
『あ、そろそろ!匂いが強くなってきたよ!』
『あっち!アイツらタヌキみたいに、みーんな同じとこでマーキングするから、臭いんだよ!』
コロの足元で鼻をクンクンと動かしていた口裂け狐たちが、ピタリと動きを止めて森の奥の一点を指し示した。
「どうやら見つけたようですね」
コロがそちらへ視線を向けると、木々の隙間から、微かに黒い煙が立ち上っているのが見えた。
アジトは、もう目と鼻の先だった。
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