三つの約束と、泥まみれの新生 1 〜善行の難しさと、夜の逃亡者〜
1.
「……世の中、程よい怪我人って、なかなか居ないもんだね」
『人類にとっては、平和で結構なことなんだろうがな』
軍隊大顎蟻からアダムズ伯爵家の長女を救い、『三つの約束』の一つ目をクリアしてから十数日が経過していた。
次の街へと向かう街道を歩きながら、コロは不満げに口を尖らせていた。
あの後、「怪我人にタダで薬を押し付けてノルマを消化する」という、なんとも簡単に片付きそうな完璧な計画を立てた一人と一匹だったが、現実はそう甘くはなかった。
擦り傷程度の子供に薬を渡しても「重たい誓約」に見合わないし、ようやく見つけた大怪我をしている男は、他人の森に勝手に罠を仕掛けて自滅した密猟者だった。
「あの密猟者を助けたら、森の生態系が不幸になるし、領主の権利も侵害することになるでしょ。……やっぱり『誰も不幸にしない完璧な人助け』なんて、この世に存在しないんだよ」
『ああでもない、こうでもないと……。お前は本当に難儀な性格をしているな』
「人助けって難しいよ。チャーリーは良くもまあそんなにホイホイと善行を積めるよね」
『それはお前、アイツは魔物側の立場など微塵も考えなくていいからな』
「そっか。うっかりしてた。魔物は討伐するものって発想だと、何も難しいことなんてないんだ」
『だな。だからといってな……』
「当たり前でしょ。それで私たちが全面的に人類に肩入れするのは、さすがに違うってことくらい分かってるよ」
不毛すぎる屁理屈をこね回し、悶々としたまま二回目のノルマをクリアできない一人と一匹は、街道を外れて深い森の中へと足を踏み入れていた。
街道の喧騒や刺さるような日差しは鬱蒼とした木々の天蓋に遮られ、ひんやりとした湿った空気が二人の体を包み込む。
足元には幾重にも降り積もった落ち葉が柔らかな腐葉土となり、一歩踏み出すごとに、むせ返るような濃密な緑と土の匂いが立ち上がった。
蓄えが豊富にあるにも関わらず、雨さえ降らなければ欠かさずに薬草を採取しているコロにとって、薬草採取はもはや趣味の一環なのかもしれない。
鬱蒼とした森を半日ほど進むと、やがて開けた場所に出た。
しかし、そこにあったのは人の温もりとは無縁の光景だった。
かつて疫病で放棄されたのだろうか、それとも若者がいなくなり、自然と退廃していったのだろうか。
崩れ落ちた石壁、腐った木材の臭い、そして重苦しい静寂だけが支配する『廃村』だった。
ひび割れた石畳にはびっしりと苔が群生し、かつて人々の生活があったであろう家々の残骸は、背丈ほどもある雑草に飲み込まれている。
傾いた柱や崩れた屋根からは無数のツタが垂れ下がり、まるで森そのものが人工物をゆっくりと消化しているかのようだった。
「今日はここで野営しよっか。屋根が残ってる家もあるし」
『だな』
コロは手頃な廃屋を見つけると、辛うじて使えそうなかまどに火を起こし、採取したばかりの野草と干し肉を使って、いつものように泥臭いスープの準備を始めた。
チロチロと燃え上がる赤い炎が、薄暗い廃屋の土壁に一人と一匹の影を長く揺らめかせる。
やがて鍋からグツグツという音と共に、干し肉の強い獣臭さと野草の青臭さが入り混じった、ひどく野趣あふれる香りが廃村の湿った空気に溶け込んでいった。
すっかり日の落ちた廃村に、パチパチとはぜる焚き火の音と、名も知らぬ夜鳥の鳴き声だけが響く。
「はい、ウルの分」
コロは自身の体よりも大きな木鉢に、たっぷりの干し肉と野草を煮込んだスープを注ぎ、ウルの前にドンと置いた。
ウルは『うむ』と短く喉を鳴らすと、熱々のスープと肉の塊を豪快に平らげていく。
一方のコロは、自分の木椀に注いだスープに、石のように硬い保存用の黒パンを浸していた。
泥臭いスープをたっぷりと吸わせてから齧り付くと、独特の酸味と野草の苦味が口の中に広がる。
決して美味とは言えないが、栄養価と腹持ちだけは確かな、採取家の極めて合理的な食事だ。
黒パンを咀嚼しながら、コロは薄暗い廃屋の朽ちた梁を見上げた。
ウルも同じように梁を見上げつつ、口を開く。
『ここはなんで廃村になったんだ?』
「さあね。疫病か、水脈が枯れたか……あるいは、強い魔物の縄張りにでもなって逃げ出したとか?若者がみんな都会へ行ってしまって、維持できなくなったのかも」
『なるほどな、どうでも良かったな』
コロは最後の一口をスープで流し込み、木椀をコトリと置いた。
ウルは木鉢にマズルを突っ込み、味を名残惜しむようにして、入念に舐め始めた。
「どうせ明日の朝まで暇だし、食休みがてら、あとでちょっと散策でもしてみる?ひょっとしたら、なにか使えるものが残ってるかもしれない」
『フン。長らく放置された村だぞ。どうせあってもゴミかガラクタだろうが』
「そうだけどさ。もしかしたら、昔の保存食を入れる壺とか、年代物の硬貨とか落ちてるかもしれないしね」
『お前は本当にブレないな……』
呆れたように鼻を鳴らしたウルが、空になった木鉢から顔を上げた。
――その時だった。
ウルの耳がピクリと動き、黄金の瞳が、漆黒の森の奥へと向けられる。
『……おい、コロ。何かが来るぞ』
「ん?動物?」
『いや……焦りの匂いと、人類の足音だ』
静寂に包まれていた廃村の空気が、微かに張り詰める。
直後、真っ暗な森の茂みを掻き分けるようにして、突如としてその『異物』は転がり込んできた。
漆黒の闇に沈む森の奥から、乾いた枝が次々とへし折れる暴力的な音が響く。
獣道すら無い茂みを這うようにして現れたのは、本来なら夜会のシャンデリアの下でしか見られないような豪奢なシルクのドレスを、泥と自らの血で無惨に汚した若い女だった。
「はぁっ……はぁっ……!」
ボロボロに引き裂かれたドレスの裾を引きずり、泥まみれになった彼女を彩っていたであろう高級な香水の甘い香りは、森の泥と獣の臭い、そして自身の血の匂いに完全に掻き消されている。
盗賊か、あるいは魔物の群れから逃げ延びてきたのだろうか。
満身創痍の彼女は、廃村の広場に倒れ込むようにして膝をついた。
「ああ……もう、ここまでなのね……」
女が絶望の溜息を吐き出した、その時。
『――グルルル……』
廃屋の影から、巨大な銀色の魔狼がゆっくりと姿を現した――ウルである。
音もなく這い出てきた白銀の巨躯。
暗闇の中でらんらんと黄金の眼光が灯り、一歩踏み出すごとに、周囲の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの、濃密で絶対的な『死』の気配が広場を支配する。
黄金の瞳で冷徹に見下ろしてくるアッシュウルフの圧倒的な威圧感を前に、女は悲鳴を上げる気力すら失った。
「そう……ここで食われるなら、それもいいわ。あの連中に慰み者にされて殺されるよりは……よっぽど、マシ……」
彼女は生への執着を完全に手放し、泥水の中に力なく崩れ落ちた。
そんな、悲劇のヒロインのような最期を迎えようとしていた女の耳に――ひどく平坦で、聞き覚えのある幼い声が届いた。
「ん、あれ?ウル」
『おお、チャーリーの約束の一つ目の』
「だね。残念。同じ人に二つ目のノルマっていうのはダメなんじゃないかな」
『フン。二つの『三つの約束』を課せばいいだけだ』
「そっちの方が楽だしね。じゃあ……話を聞いてから考えようか」
そう。この廃村に倒れ込むようにしてやってきた女は、先日、軍隊大顎蟻から守ってあげた、アダムズ伯爵家の長女、ヘンリエッタその人だった。
「あなたたちは、先日の――」
「こんなところで会うなんて奇遇ですね。私はコロ。こっちの相棒はウル。ひょっとして困っていますか?」
ヘンリエッタの満身創痍な様子とは対極にあるような、凪いだ海のように平静なコロの言葉に、ヘンリエッタの目にブワッと涙が溜まる。
「た、助け……助けて……ください……ッ!」
ヘンリエッタは泥まみれの地面に這いつくばったまま、コロの足首にすがりついた。
「私を追っている連中が……!どうか、どうか私を街まで……!」
「街まで護衛してほしいってことですか?いいですよ」
そう言ったコロとウルの視線が一瞬交わる。
一人と一匹はニヤリと僅かに口角を上げていた。
あれだけ難しいと思っていたチャーリーの『三つの約束』のノルマのうちの二つ目が、あちらから縋りつくようにして舞い込んできたのだ。
「あ、ありがとうございます……!ありがとうございます……!!」
コロのあまりにもあっさりとした即答に、ヘンリエッタは安堵のあまりボロボロと大粒の涙をこぼした。
「……とりあえず、そこの焚き火のところにある丸太にでも座っててくだい。追手が来たらウルが適当に追い払います」
『ああ。食休み前の軽い運動にはなるだろう』
コロはヘンリエッタを丸太に座らせると、自分用の木椀に新しく泥臭いスープを注ぎ、ドンと無造作に手渡した。
「お腹が空いたでしょう。これをどうぞ」
「え……? あ、あの……これは……」
「スープです。貴族様のお口には合わないかもしれませんが」
「いえ、そんなことは……!いただきます……!」
ヘンリエッタは震える両手で木椀を受け取ると、恐る恐るスープを口に含んだ。
野草の強い青臭さと、干し肉の獣臭さ。
高級な食事しかしたことのない彼女にとっては、泥水をすするような強烈な味だったが、不思議と冷え切った胃の腑に熱がじんわりと広がっていくのを感じた。
泥水と冷や汗で芯まで凍えていたであろう両手に、ざらついた木椀の確かな温もりが伝わっていく。
喉を通る野草の苦味と獣の脂の強烈な熱が、恐怖で強張っていた彼女の胃の腑から全身の血管へと、暴力的なほどの生命力をもって染み渡っているようだ。
「……あの、先日も。本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。あれはこっちの都合もありましたので。……で、なんで、こんなところで泥だらけになっているんですか?」
コロが木杓子で鍋をかき混ぜながら尋ねると、ヘンリエッタは木椀を強く握りしめ、泥と涙で汚れた顔を歪ませた。
「……私は、父であるアダムズ伯爵と亡き本妻との間の一人娘です」
「ふぅん、本妻……」
「母が亡くなった後、後妻としてやってきた継母には、出来の悪い腹違いの弟が二人います。このままだと家督は私に渡ってしまう。それが面白くないのか、継母からはずっと陰湿な嫌がらせを受けてきました」
「ああ、よくある貴族のお家騒動ってやつですね」
「……ええ。ですが、私が成人を迎える時期が近づき、あの方も流石に焦ったのでしょう。過激な手段に出始めました。先日、あなた方に助けていただいたあの魔物の襲撃も、今思えば……」
「まぁ、偶然にしては都合が良すぎましたね。あの蟻たちはもっと辺鄙な岩場を好みますから」
「……父は、完全に継母の虜になっています。父の前では完璧な淑女を演じるあの女を、少しも疑っていない……」
ヘンリエッタの目に、暗く、ドロドロとした憎悪の火が灯る。
チロチロと燃える焚き火の赤い光が、彼女の青ざめた顔と、対照的にまったく感情の読めないコロの横顔を照らし出している。
崩れかけた廃屋の土壁に二人の影が大きく揺らめき、深い夜の森の静寂が、彼女のドロドロとした血生臭い独白をひっそりと吸い込んでいった。
――そしてついに今日。
彼女は、継母に買収されたと思しき使用人の手引きで、盗賊たちに連れ去られたのだという。
「――あと僅かというところで……傷物にされそうになり……っ!」
彼女の肩が小さく震える。
ドレスの胸元をかき抱くようにしながら、ヘンリエッタはギリッと唇を噛み破るほどの力で言葉を絞り出した。
「隙を見て、覆い被さってきた男の股間を思い切り蹴り飛ばして……無我夢中で、ここまで逃げてきたんです」
息を切らし、怒りと絶望で身を震わせるヘンリエッタ。
しかし、その凄惨な告白を聞いていたコロは、ひどく平坦な声でポツリと告げた。
「ふぅん。災難でしたね」
「……え?」
「とりあえず今日のところは安心して寝てください。ウルがいれば絶対大丈夫ですから」
「あ、ありがとう……」
コロはそれだけ言うと、もう彼女の身の上話には一切興味がないとばかりに、再び自分のスープ作りの作業に戻ってしまった。
ヘンリエッタは呆然とコロとウルの姿を交互に見つめ……やがて、自分の手の中にある、泥臭くて温かいスープを、一滴残らず飲み干したのだった。
ヘンリエッタが眠りにつくのには、スープを飲み干し、差し出された毛皮に潜り込んでから、そう時間はかからなかった。
極限の緊張と疲労から解放された彼女は、泥のように深い眠りへと落ちていく。
規則正しい微かな寝息だけが、崩れかけた土壁に響いていた。
コロは焚き火に新しい薪をくべ、パチパチとはぜる赤い火をじっと見つめていた。
周囲の森からは、夜行性の魔物の遠吠えや、風が木々を揺らす不気味なざわめきが聞こえてくるが、ウルの放つ圧倒的な威圧感のせいで、この廃村の敷地内に近づこうとする命知らずはいなかった。
ウルが、寝袋の中で小さく丸まっているヘンリエッタを冷ややかな黄金の瞳で見下ろし、低く地響きのような声で呟いた。
もちろん、彼女を起こさない程度の音量で。
『……おい、コロ』
「ん、なに?」
『この人類を街に連れて行って、それでおしまいか?』
「うん、そうだね。街の門の前まで送り届ければ、それで『一人を無償で助けた』ってことになる。簡単だね」
『フン。まぁ、ただ歩くだけだからな。だが……』
ウルは退屈そうに前足に顎を乗せ、鼻先からふん、と息を吐き出した。
『このヘンリエッタとかいう貴族、随分とお前に恩を感じているようだったぞ』
「だね。そんな感じがした」
『この様子だと、街に着いた後も、あれこれと縋り付いてきそうだが……』
「貴族のお嬢様がね……。でも、確かにあの真っ直ぐな目はちょっと厄介かも。私たちはただの通りすがりだし、チャーリーのノルマをこなしたいだけなのに、勝手に『正義の味方』みたいに思われたら面倒くさいな」
腕を組んで、小さな眉をひそめるコロ。
するとウルが、牙を覗かせてニヤリと不敵に笑った。
『なら、いっそのこと、さらにもう一つくらい約束を押し付けられんものか。どうせ同じ奴に三つの約束を、重複して課してもいいと言ったのはお前だぞ?この様子なら、喜んでこちらの無理難題を聞くだろう』
「……あ」
ウルの身も蓋もない提案を聞いた瞬間、コロの氷藍色の瞳が、焚き火の光を反射して怪しくきらめいた。
木杓子を弄びながら、コロの口角がわずかに持ち上がる。
「……それ、いいかもしれないね」
『む?なんだ、その顔は。なにか妙案でも浮かんだか?』
「うん。ちょっとね。……よし、少しだけお節介を焼こうか」
『お節介?』
ウルの訝しげな問いかけに、コロはそれ以上は答えず、ただ楽しげに目を細めるだけだった。
ウルの言う通り、ヘンリエッタはコロたちに盲目的なほどの感謝と信頼を寄せている。
ならば、その『恩』を最大限に利用して、こちらのノルマを効率よく消化させてもらう。
それがどれほど突き放した、冷徹な『お節介』だとしても。
『フン。まぁ、お前がそう言うなら任せるがな。あまり妙な面倒にだけは巻き込まれるなよ』
「分かってるよ。関わるのは街に着くまで。それ以降は、あちらさんのお家騒動だろうが何だろうが、私たちの知ったことじゃないからね」
消えかけの焚き火が、一人と一匹の影を暗い廃屋の壁に不気味に揺らめかせる。
コロはパチンと小さく薪が爆ぜる音を聞きながら、明日、ヘンリエッタに施すべき「三つ目の善行」の計算を、頭の中で淡々と組み立てていた。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。




