最強の門番と、計算された絶望 4 〜箱庭の最強と、絶対的な死の気配〜
4.
不気味な紫色の液体と、小瓶に入った透明な丸薬が完成した直後。
調合室の奥にある、闘技場の裏導線へと繋がる分厚い鉄扉が、重々しい音を立てて開いた。
「――老師。薬はできているか」
「お、来たか!」
入ってきたのは、額に控えめに二つの角を生やしたオーガ族の男だった。
無駄な装飾の無い、実用性だけを追求した革鎧。
年は三十代半ばだろうか。筋骨隆々というわけではないが人間族よりもガタイは良く、無駄な脂肪が削ぎ落とされた肉体は、研ぎ澄まされた鋼の刃を思わせる。
闘技場の熱狂に当てられた狂戦士のような雰囲気は微塵もない。
まるで役所の人間が書類仕事の報告に来たかのような、淡々と感情を排した氷のような瞳。
彼こそが、闘技場の運営に飼われ、百連勝を夢見る奴隷たちを最後に確実に始末するお抱えの『職人』のようだ。
「ああ。極上の仕上がりだ!こっちの丸薬が極限まで集中力を高める薬、紫の液体が剣に塗る筋弛緩剤だ。塗布してから効果が出るまでの時間は、いつもより二割ほど早いと思えよ?」
「ふむ、了解した」
職人の男は淡々と頷き、その場で丸薬を水で飲み込むと、抜いた自身の剣の刃に紫色の液体を慎重に塗り込んでいく。
その一切の無駄がない業務的な動作を、コロは木箱に座ったまま退屈そうに眺めていた。
作業を終えた男が、ふとコロの足元に控えるウルの巨体に気づき、ピタリと動きを止めた。
「……ほう。随分と良い面構えの獣だな」
男の氷のような瞳に、微かな『戦士としての本能』と優越感が入り混じる。
「私は以前、魔境の深部でレッサーキマイラを単独で討伐したことがあるが……その従魔のような風貌の狼の魔物は見たことがないな。どうだ、その狼はレッサーキマイラと戦ったことはあるか?」
それは、明らかな『自慢』だった。
自分は恐ろしい高位の魔物を屠ったことがあるという、絶対的な自信からくる格下への問いかけ。
ウルは退屈そうに欠伸を噛み殺し、黄金の瞳で男を一瞥して、低く喉を鳴らした。
『ん?……いや。戦ったことは、一度もないな』
「ない?だよね。ウルは戦ったことがないってさ」
コロが淡々と通訳すると、職人の男は口角を僅かに上げ、フッと鼻で笑った。
「そうか。まあ、そうだろうな。……獣といえど、己より遥かに格上の存在が相手では、戦う機会すら得られずに逃げるしかないか。賢明な判断だ」
自分の方が圧倒的に『上』だと完全に勘違いし、一人で勝手に悦に浸る職人の男。
そのあまりにも滑稽な姿に、コロとウルは顔を見合わせてしまう。
『阿呆だな……。何か不愉快な勘違いをしたぞ』
「……だね」
ウルの姿を見たレッサーキマイラが、恐怖のあまり戦うことすら放棄して逃げ出しただけだという事実を知る由もなく、男は満足げに鉄扉の向こうへと去っていった。
「……さてさて、コロにウル!俺たちの共同作品の効き目を確かめに行くぞ!」
呆れる一人と一匹をよそに、老師が立ち上がり、裏導線へと繋がる扉の方へと歩き出した。
老師に案内され、裏導線の薄暗い通路を進んだ先。
そこには、すり鉢状の大闘技場の砂舞台を特等席で見下ろせる、分厚い鉄格子と硝子が嵌められた監視部屋があった。
硝子の向こうでは、地鳴りのような歓声が巻き起こっていた。
『ガロズ!ガロズ!!ガロズ!!!』
大闘技場の砂舞台では、九十九連勝を成し遂げた満身創痍の大男――鉄腕のガロズが、自由への切符を掴むために必死の形相で剣を振るっているところだった。
対するオーガ族の職人は、薬の効果で極限まで集中力を研ぎ澄ませながらも、あえてガロズの渾身の一撃を紙一重でかわし、時には浅く受けて見せていた。
『趣味が悪いな』
「……だね。わざと手加減してる」
「ああ。圧倒的な力で一方的に惨殺しては、見世物としてつまらんからな!絶望を与えるには、まず客と奴隷に十分な『希望』を吸わせる必要があるのさ!」
老師が歪な笑みを浮かべる。
その言葉通り、ガロズの剣がオーガの肩を掠め、鮮血が舞った瞬間。
闘技場の熱狂は最高潮に達した。
「いけるぞガロズ!」
「やっちまえ!!」
闘技場は割れんばかりのガロズへの声援で満たされている。
「俺はッッッ!!自由になるんだあああッッッ!!」
勝利を確信したガロズが、歓声に背中を押されるようにして特攻を仕掛ける。
希望に満ちた、会心の一撃。
――しかし、次の瞬間。
オーガの瞳から、完全に『芝居』の熱が消え失せた。
ガロズの剣を最小限の動きで弾き返し、紫色の毒が塗られた刃が、ガロズの腕と足の腱を、正確無比な軌道で撫で斬りにする。
「あ……?」
瞬時に筋弛緩剤が回り、ガロズの巨体が糸の切れた操り人形のように砂の上へと崩れ落ちた。
希望が一瞬にして絶望へと反転し、状況を理解できないガロズの顔が恐怖に歪む。
オーガの職人は一切の感情を交えることなく、まるで事務作業をこなすように、動けなくなったガロズの首筋に剣を突き立て、深く抉った。
熱狂していた闘技場が、水を打ったように静まり返る。
やがて、賭けに負けた市民たちの失望の溜息と、一部の嗜虐的な観客の下劣な歓声が、入り混じって空へ立ち上っていった。
「ハハハ!良いな!素晴らしい!ああ、想像以上に効果が現れたな!」
その惨劇を最後まで見届けた老師は、身を乗り出して満足げに顎を撫でた。
「私が採ってきたあの手の薬草が、実際に薬となって使われる姿を見ることってなかったけど……なかなか凄い効果なんだね」
「そりゃお前、薬の出来ってのは採取家の腕も大いに関わってくるからな!採取家がクソ以下だったら、俺の腕までクソに引っ張られちまう。全く嘆かわしいことだ!」
「あはは、違いないね。でも、おじいさんも相当腕が良かったもん。おじいさん程の手練れ、なかなか会えないよ」
「うはは!そうか?だが!今回は違うぞぉ?お前の極上の薬草が良かったおかげで、集中力が高まりすぎたくらいだ。アイツも最後の手加減の芝居が少し雑になっていたからな!……いやぁ、効き目は完璧だ!」
眼下で命が散ったことなど微塵も気にかけることなく、純粋なプロフェッショナルとして自らの仕事の成果を讃え合う老人と少女。
『見事なまでの作業風景だったな。反吐が出る』
「昂ぶってきたぞぉ!!漲ってきたぞぉ!!」
『コイツ、やはりイカれているぞ』
ウルのため息交じりの唸り声に、コロは肩を竦めて口を開いた。
「だね」
人の命がただの数字として処理されていく狂気のシステム。
コロは硝子玉のような瞳で砂舞台を一瞥すると、興味を失ったように砂舞台に背を向けた。
調合室に戻り、老師が満足げに支配人への報酬申請書にサインをしていると、再び重々しい鉄扉が開いた。
「――素晴らしい薬だった、老師。おかげで完璧な仕事ができた」
まだ生暖かいガロズの返り血を浴び、僅かに高揚した様子でオーガの職人が帰還した。
彼は机に剣を置くと、その氷のような瞳を再びウルへと向けた。
「ところで、そこの獣よ」
「ウルに何か用?」
「先ほどの私の剣技、特等席で見ていたのだろう?……どうだ。レッサーキマイラを屠ったこの腕と、一度あそこの舞台で手合わせしてみる気はないか?」
勝利の余韻と薬の残響が、男の闘争本能を煽っているようだった。
コロが面倒くさそうに溜息を吐きかけた、その時。
「おやおや、面白そうな話をしているじゃありませんか」
調合室の入り口から、豪奢な絹の服を着て、指にいくつもの宝石を光らせた恰幅の良い男が現れた。
この大闘技場の元締めである、支配人だった。
彼は今回のガロズの敗北によって得た莫大なテラ銭の計算を終え、ホクホク顔で老師の労いに来たらしい。
「ん?おお、支配人か!ちょうど良かったな、コロ!申請書を直接渡せるぞ?」
「それより!素晴らしいじゃないですか!九十九勝の英雄を仕留めた最強の職人と、未知の強そうな魔狼とのエキシビションマッチ!これは客が喜びますよォ!どうですお嬢ちゃん、その魔狼を舞台に出しませんか?報酬は通常の十倍……いや、金貨百枚出しましょう!」
金儲けの匂いを嗅ぎつけた支配人の強引な提案。
しかし、コロは一切の興味を示さず、冷ややかな声で即答した。
「いや、遠慮しておくよ。ウチの相棒は見世物じゃないし、私たち、悪目立ちするのは嫌いだから」
金貨百枚という大金に見向きもしないコロに、支配人は不満げに顔を顰める。
オーガの職人は、フンと鼻で笑って剣の柄に手をかけた。
「臆したか。まあいい、所詮は獣。だが、主人の危機となれば話は別だろう?」
オーガが放つ明確な敵意。
金で動かないのなら、脅して力ずくで舞台に引きずり出そうという算段だ。
「参ったね。……ねえ、ウル」
コロは、オーガの男の動きを見ようともせず、ただ足元の巨大な魔狼に短く声をかけた。
「――穏便にお願いね」
『……フン。仕方ない』
「報酬、まだ貰ってないし、面倒事は避けたいかな」
『言われんでも分かっている』
次の瞬間。
調合室の空気が、凍りついた。
ウルの黄金の瞳が、すっと細められる。
ただそれだけだった。物理的な攻撃も、魔法の行使も一切ない。
しかし、オーガの職人の本能が、そして支配人の脳髄が、けたたましい警鐘を鳴らした。
息ができない。
圧倒的な『死』の重圧が、物理的な質量を伴って彼らの全身を押し潰す。
「あ……がっ……!?」
先ほどまで氷のように冷徹だったオーガの瞳が、極限の恐怖に見開かれる。
喉の奥で引きつった悲鳴を上げながら、彼は腰の剣を抜くことすらできず、操り人形の糸を切られたように、ガクンと膝から崩れ落ちた。
支配人に至っては、完全に白目を剥いて泡を吹き、その場にへたり込んでいる。
強者であればあるほど理解できる、絶対的な『捕食者』との格の違い。
一切の殺戮劇を演じることなく、ただ『殺気』だけで、闘技場最強の職人は完全に心を圧し折られていた。
静まり返る冷たい石室の中、コロはガタガタと震えるオーガの職人を見下ろし、淡々と告げた。
「……おじさんが自慢していたレッサーキマイラだけどね。ウルが戦ったことがないって言ったのは、勝ち目がなくて戦わなかったんじゃないよ」
コロは氷藍色の瞳を細め、冷酷な真実を突きつける。
「ウルの姿を見ただけで、レッサーキマイラが恐怖で逃げ出してしまうから、戦ったことがないんだよ」
オーガの男は歯の根が合わず、ひぃっ、と情けない声を漏らして床に這いつくばっている。
コロはそんな彼を一瞥すると、首を傾げて、不思議そうに問いかけた。
「……ねえ、おじさん。おじさんは今、九十九連勝中なの?」
「ひっ……!」
「おじさんがさっき、あのガロズって人にしてあげたこと。ウルと戦うことになったら、今度は自分がされる番だよ。ウルはね、人類ほど空気を読んで手加減はしてあげられないかも」
希望や慢心が絶望へと反転し、自分より圧倒的格上の理不尽によって無残に蹂躙される。
それがどういうことか、身をもって理解したオーガの男は、ただ涙と鼻水を流して震えることしかできなかった。
「支配人もジャックも気が済んだかぁ?コロとウルが優しいお陰で命拾いして良かったじゃねえか、なっ!」
そう老師はカラカラと笑いながら、申請書に蝋印を施しつつ言葉を継いだ。
「さすがの俺もアッシュウルフに勝てるようになる薬も、灰になった死体を蘇生させる薬も作れんからな!殺されたらもう知らんぞ?ほれ、コロ!受け取れ!」
「申請書ありがとう。その支配人に渡せばいいの?」
「おう。ほれ、支配人!ソイツに色を付けて渡してやれよ?当面は高品質な素材が確保できたからな!」
コロはすっかり興味を失ったように視線を切ると、老師の手から、サインと蝋印が押されている「報酬の申請書」を受け取った。
「採取家の仕事は薬草を採取してくること。報酬、よろしくね」
コロは申請書をヒラヒラと振ると、呆然としている支配人に向かって申請書を手渡した。
泡を吹いてへたり込んでいた支配人は、コロから申請書を突きつけられ、ビクンと肩を跳ねさせた。
ウルの放つ『絶対的な死の気配』はすでに収まっていたが、一度刻み込まれた恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではない。
「あ……ひぃっ……!」
「報酬はいつ貰えるの?」
コロが冷ややかに見下ろしながら促すと、支配人はガタガタと震える手で懐をまさぐり、皮袋を丸ごとコロへと差し出した。
中には、金貨が数十枚と、たっぷりの銀貨が詰まっている。
先ほどの「金貨百枚」には届かないが、薬草の買い取り額としては、相場の三倍近い破格の報酬だった。
「ありがとう。腕のいい薬師の仕事も見られたし、とても効率的に稼げたよ」
コロは皮袋を受け取ると、チャリンと重みを確かめ、満足げに背中の鞄へとしまい込んだ。
「じゃあね、おじいさん。また機会があったらよろしくね」
「おう!この街へ来たら顔を出せよ!」
「うん」
床に這いつくばったまま涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている『最強の職人』と、震えが止まらない支配人。
そして、彼らなど視界にも入っていない様子で、ご機嫌でフラスコを振り始める『狂った老師』。
一人と一匹は、完全に恐怖で凍りついた闘技場の心臓部を後にし、何事もなかったかのように、いつもの淡々とした足取りで螺旋階段を上っていくのだった。
※ ※ ※
その日の夜。
街の安宿で深い眠りについたコロは、真っ白な女神の領域で、いつものように報告を行っていた。
「――というわけでね、今日、とっても自信満々な人類に会ったよ」
「自信満々な人類?」
首を傾げる女神に、コロは呆れたような、それでいてどこか哀れむような表情で今日のできごとを語った。
「人類ってね、自分たちが作った狭い箱庭のルールの中で一番になると、世界中のルールが自分を中心に回ってるって勘違いしちゃうみたいなんだ。……あのオーガ族のおじさんは、箱庭には外の世界があるってことを、すっかり忘れていたのかもしれないね」
コロの残酷な言葉に、女神は少しだけ寂しそうに微笑み、コロの銀髪を優しく撫でた。
「ふふ……。それはね、コロ。気づかないまま死ねることが、彼らにとっての唯一の幸せだったのかもしれないわ」
「……昼間、私が言ったことと同じだね」
「ええ。だからコロ、あなたは、その蟻の巣の外側で吹いている『風』の匂いを、どうか忘れないでいてね」
女神の温かい声に包まれながら、コロは闘技場を取り巻く人類たちの狂騒を思い出し、小さく頷いたのだった。
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