最強の門番と、計算された絶望 1 〜城塞都市の喧騒と、論理的な統治〜
1.
荒涼とした赤茶色の荒野を何日か進み、やがて大きな街道と合流した。
そこから更に数日すると、陽炎の向こうに突如として巨大な影が姿を現した。
二つの主要な街道が交差する交通の要衝を、丸ごと分厚い防壁で呑み込むように築かれた巨大な城塞都市。
城門をくぐり抜けた先には、外の殺風景な荒野が嘘のように、人と物資と熱気に溢れた喧騒の渦が広がっていた。
荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音。
遠くの国の珍しい香辛料の匂い。
そして昼間からエールを煽る荒くれ者たちの怒声。
むせ返るような様々な種族の体臭と熱気が混ざり合い、この街そのものがひとつの巨大な生き物のように呼吸しているかのようだ。
『臭い。ハズレだ』
「先に言われちゃったね。でも、こんなところに『当たり』があるなんて、始めから思ってないよ」
『だな』
だが、この街に入った者が真っ先に目を奪われるのは、それらの空気感でも、活気ある市場でも、立ち並ぶ豪商の館でもない。
街のへそとも言える中心部に、周囲の建物を圧するようにしてそびえ立つ、巨大な円形の建造物――大闘技場である。
見上げるほどの高さまで積み上げられた外壁には、過去の凄惨な戦いを讃えるかのように、魔物や戦士が殺し合う様子が荒々しいレリーフとして彫り込まれている。
その巨大な影は、太陽の光を遮って広場一帯を飲み込み、見ているだけで息が詰まるような異様な威圧感を放っていた。
分厚い石を積み上げて作られたその外壁は、歴史の重みと、そこに染み付いた無数の血の匂いを漂わせているように見えた。
「……随分と大きな建物だね」
『フン。無駄にデカい石ころの山だな。風通しが悪くてかなわん』
「なんだろうね。ヤケに賑わっているけど、お祭りでもしてるのかな」
『あれだけデカいからな。ついにドラゴンが家を建てて、人類を顎で使う時代でも来たか?』
「ふふ、まさか」
コロとウルが足を止め、その巨大な円形闘技場を見上げていると、すぐ隣からジュージューと脂の焼ける芳ばしい匂いと、野太い声が飛んできた。
「おや、旅のお客さんかい?あの闘技場を見るのは初めて?」
声の主は、路肩で魔物肉の串焼きの露店を出している、リザード族の女だった。
緑がかった鱗を持つ彼女は、器用に太い尻尾でバランスを取りながら、香辛料をまぶした分厚い肉を網の上でひっくり返している。
「こんにちは。うん、初めて。……おばちゃん、その串焼き二つちょうだい」
「あいよ!ほれ、熱いから気をつけてな!」
コロは大銅貨を支払い、滴る脂の匂いに喉を鳴らしていたウルに一本差し出すと、自身も熱々の肉に噛み付いた。
粗削りな香辛料の刺激と、濃厚な肉の旨味が口いっぱいに広がる。
「ん、美味しい。……で、あの大きな建物は何なの?」
コロが串焼きを頬張りながら尋ねると、リザード族の女は自慢げに鼻を鳴らした。
「ありゃあ、この街の心臓さ」
「心臓?」
「この国や周辺の属国から、死刑囚やら重罪人から政治犯まで、色んな罪人がこぞってこの街に連れてこられるんだよ。あとは値がつかないような奴隷とかもね」
「罪人や奴隷、ね」
「あのすり鉢状の闘技場の中で、全員が奴隷戦士として毎日殺し合いをさせられてるってわけさ」
「へえ、毎日殺し合い。なんで?」
「ああ。奴隷同士の殺し合いもあれば、飢えた魔物との戦いもある。観客は高いチケット代を払って、どっちが勝つか、誰が生き残るかに熱狂して金を賭けるのさ。毎日お祭り騒ぎだよ」
『……フン。同族の殺し合いを娯楽として消費するか。相変わらず、人類というのは悪趣味な生き物だ』
ウルが忌々しそうに牙を剥き出しにして肉を噛みちぎる。
リザード族の女はウルの言葉が分からないのか、あるいは気にしていないのか、楽しそうに言葉を続けた。
「でもね、ただの殺し合いじゃないところが肝さ」
「そうなの?」
「ちゃあんと『希望』が用意されてる。百回だ」
「百回……」
「そう。あの闘技場で百連勝して生き残った奴隷には、過去の罪をすべて赦免された上で、この街の『市民権』と莫大な賞金が与えられるのさ」
「……へえ、百連勝ね」
「そうさ!だから奴隷たちも必死に戦うし、客も熱狂する。この街の経済は、あそこで流れる血で回ってるようなもんさね」
誇らしげに語るリザード族の女の話を聞き終えると、コロは最後に残った一口分の肉を飲み込み、串をゴミ箱へと放り投げた。
そして、氷藍色の瞳で再び巨大な闘技場を見上げ、一切の感情を交えない平坦な声でポツリと呟いた。
「……ふぅん。牢屋に閉じ込めて、税金で罪人を養い続けるよりは、よっぽど効率的なシステムかもね。賢いな」
その言葉に、リザード族の女は一瞬キョトンとした顔をした後、「アハハハ!旅の嬢ちゃんは言うことが違うねぇ!」と豪快に笑い声を上げた。
人間の命が娯楽として消費される狂気のシステムを前にして、コロの感想は倫理的な嫌悪ではなく、ただ「コスト管理としての合理性」だけだった。
露店を離れ、先ほどのリザード族の女から聞いた、町の依頼が張り出される中央広場の掲示板へと向かう大通りは、闘技場の開場を前にして奇妙な熱気に包まれていた。
頭上から照りつける容赦のない太陽が、赤茶けた石畳をジリジリと焼き、人々の熱気と混ざり合って息苦しいほどの空気を生み出している。
すれ違う商人や傭兵、この街の市民たちの手には、今日の対戦カードや勝敗の倍率が書かれた安っぽい紙切れが握られており、誰も彼もが血走った目で議論を交わしていた。
道端のあちこちに木箱を置いて木札を配る怪しげな予想屋たちの周りには、小銭を握りしめた男たちが群がり、怒号にも似た歓声を上げている。
強い日差しによって生じた陽炎のせいか、欲望を剥き出しにして笑う彼らの顔は、どれもドロドロに歪んだ醜い魔物のように見えた。
「おい、聞いたか!今日は『鉄腕のガロズ』が、ついに90勝の大台に乗るかどうかを決める戦いだぞ!」
「マジか、あのガロズがもうそんなに勝ったのか?」
「ああ、そりゃあもう破竹の勢いよ!だが、今日の相手は西部の属国から連れてこられた大男らしいからよ、まだガロズに賭けても平気か?ってのが専らの話題よ」
「オッズはかなり下がってるが、手堅く稼ぐならガロズ一択だろ。前座の魔物戦でトチりさえしなければ、間違いなく大儲けさ!」
「へへ、そいつは傑作だ。今日の酒代はガロズに稼いでもらうとするかね!」
「俺も今日は堅実に賭けておこうかなぁ」
あちこちの酒場や路地裏から、欲望と興奮の入り混じった濁った声が吹き荒れる砂埃と共に鼓膜を叩く。
彼らにとって、闘技場の砂舞台で流れる奴隷たちの血は、ただの数字であり、今日一日の娯楽を彩るための最高のスパイスに過ぎないのだ。
『……チッ。どいつもこいつも、他人の命を賭け札にして、随分と浮かれ腐っていやがる』
行き交う人類たちの浅ましい顔を、ウルは嫌悪感を隠そうともせず、低い鼻鳴らしと共に一瞥した。
その黄金の瞳には、同族の殺し合いを消費して肥え太る人類への、冷ややかな侮蔑が満ちている。
「まぁ、ウルが嫌悪感を抱くのも分かるけどさ」
コロは歩調を緩めることなく、飛んできた砂埃を避けるように少し顔を伏せながら言った。
「あの巨大な箱庭が、この街にとって如何に効率的で、完璧な形をしているかって話だよ」
『効率的だと?あんな悪趣味な見世物が、か?』
「そうだよ。たとえばね、何百、何千っていう罪人たちを、ただ大人しく牢屋に閉じ込めておくことを考えてみてよ。毎日毎日、何も生み出さない連中に、税金を使って水や食事を与え続けなきゃいけないんだよ?それってものすごい損失でしょ」
『そうだな。生み出すものといえば、せいぜい罵声と糞尿くらいか』
「だね。まだゴミのほうがマシだよ。ゴミは騒がないし、新たにゴミを生み出さないからね」
コロは淡々と、まるでギルドの帳簿でも読み上げるかのような平坦な声で言葉を継ぐ。
「じゃあ、効率の悪い鉱山や未開拓の土地で強制労働させるかと言えば、それも管理する兵隊の給料や、反乱が起きたときのリスクを考えたら割に合わない。……でも、あの闘技場ならどう?」
『ふむ』
「罪人たちは自由っていう幻のために勝手に殺し合って、勝手に人口調節されていく」
『……』
「その上、人類たちはそれを観るために高いチケット代を払い、外の国からもわざわざ観光資源として見物人が集まるから、街の宿も酒場も大繁盛。おまけに、賭け金のテラ銭はすべて領主の懐に税収としてガッポガッポ入る仕組みだよ」
街の壁に貼られた、血痕のような赤いインクで書かれた興行のポスターを、コロは氷藍色の瞳で見つめた。
「ただの厄介者でしかなかったはずの罪人を、領地の知名度を上げる客寄せのエサにして、同時に莫大な富を生み出す集金装置に変える」
『金か』
「……ねえウル」
『ん、なんだ?』
「これはね、娯楽の皮を被せておくだけで、人類は喜んで財布を開いて、勝手にガス抜きまでしてくれるんだよ?それに『自分も悪いことをすればあそこで戦わせられる』って犯罪の抑止にも繋がる。これ以上ないくらい、美しくて論理的な統治の仕組みだと思わない?」
徹底して倫理を排除し、純粋な損得勘定だけで世界を切り取るコロの言葉に、ウルは観念したように短く息を吐き出した。
『……フン。お前という器は、相変わらず人類の血も涙もない計算式でできているな。だが……確かに、一理あるのが余計に忌々しい』
「褒め言葉として受け取っておくよ』
『そんな講釈が他の人類に聞かれてみろ。お前は異常なガキとして奇異の目で見られるぞ』
「どうせみんな殺し合いに夢中だから、誰一人聞いてないよ」
『まあな』
「さ、私たちの目的はただ一つ。滞在中の路銀を堅実に稼ぐこと。あんな効率的なシステムの一部になれるなら、ちょっと足を伸ばして採取する薬草の納品仕事も美味しくこなせるってものだね」
一人と一匹は、熱狂に浮かされる群衆を他所に、冷え切った計算を胸に秘めたまま、掲示板へと歩みを進めた。
熱狂的な大通りを抜け、人だかりができている中央広場へとたどり着いた一人と一匹。
広場の中央には、乾燥した風をまともに受けてガタガタと音を立てている巨大な木製の掲示板がそびえ立っていた。
羊皮紙から木板に書かれた、様々な依頼書や手配書が乱雑に並んでおり、一攫千金を狙う傭兵や、日銭を稼ぎたい旅人たちが血走った目でそれらを品定めしている。
いい依頼を巡って小競り合いを起こす傭兵たちの汗臭い体臭と、日焼けしてパリパリになった古い羊皮紙のインクの匂いが鼻を突く。
誰もが他者を蹴落としてでも今日のパンと酒を手に入れようと、ギラギラとした飢えた獣のような視線を掲示板に向けていた。
コロは群衆の隙間を縫うようにして掲示板の前に立つと、硝子玉のような氷藍色の瞳を淡々と走らせた。
『何か良さそうなものはあるか?』
「うーん、ちょっとしたおつかいと……鉱石を求めているのとか……」
『ふむ』
「……あ、これなんてどうかな」
コロの目に止まったのは、他の依頼書よりも少し厚手の羊皮紙だった。
そこには、殴り書きのような力強い文字でこう書かれていた。
『急募:優秀な採取家を求む。闘技場専属調合室。特殊環境下における薬草の定期納品。報酬、要相談。実力次第で長期契約あり』
「闘技場の薬師からの直接依頼だね。報酬の欄に具体的な額は書かれていないけど、この手の公的なお抱え薬師からの依頼は、ギルドの相場よりも二回りは美味いのが普通だよ」
『ふむ。時折ある『美味しい仕事』だな』
「だね。それに、実力次第で長期契約ってことは、ここに暫く滞在して堅実に稼ぐにはうってつけの案件だと思う」
コロが実務的な計算を頭の中で弾きながらそう言うと、足元で退屈そうに尾を揺らしていたウルが、張り紙を見上げてフンと鼻を鳴らした。
『あの巨大な箱庭の中じゃ、毎日けが人をせっせとこさえているわけだ。なるほど、仕事も尽きないというわけだな』
「そういうこと。需要が途切れないってことは、供給する側の立場も強くなる。あそこで流れる血が多ければ多いほど、私たちの懐が潤うってわけだね」
コロは迷うことなくその羊皮紙を掲示板から引き剥がすと、受付へと持っていくためにくるりと背を向けた。
「よし、そうと決まれば、さっそくこの薬師のところへ行ってみよう。どれくらい話が通じる相手か、品定めもしないとね」
『ああ。さっさと手続きを済ませて、美味い家畜肉でも食いたい』
一人と一匹は、引っ剥がした依頼書のチケットを鞄にしまい込み、大闘技場の地下にあるという「心臓部」へ向かって、再び歩き始めた。
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