手数の理論と、百年後の恩返し 2 〜圧倒的な暴力の頂点と、過程をすっ飛ばした鉄の剣〜
お陰様で本作も100話を突破しました。
これからも毎日投稿を続けたいと思います。
2.
霊峰へ続く山道を歩き出してしばらく。
コロとウルは、かろうじて進めそうな獣道のような脇道を見つけ、街道を逸れて岩肌に自生する薬草の採取を始めていた。
「うん、ここなら町の喧騒も届かないね。……っと、ウル、上」
『……ああ。分かっている』
コロが視線を上げると、上空を旋回していた大きな影が、バサバサと羽音を立てて岩場に降り立った。
見事な赤褐色の羽を持つ、巨大な鷹の魔物『荒野の注視者』だった。
知能の高い上位の鳥類特有の、鋭くも知性的な目がコロたちをじっと見つめている。
『強そうな狼の旦那と、随分と奇妙な匂いのする人類だねぇ。この辺りじゃ見かけない顔だ』
「こんにちは。薬草を採るために、少し通らせてもらってるだけだよ」
コロが淡々と挨拶を返すと、鷹の魔物は『ああ、構わないよ。この岩場は特に誰の縄張りでもないからね』と嘴を鳴らした。
『それにしても、昨日はこの下が随分と騒がしかったねぇ。例のでっかいトカゲのせいかい?』
「みたいだね。人類の男が単騎で仕留めたって、人類の町じゃ大騒ぎだよ」
『ああ、それなら僕も空から見てたよ。あのオオトカゲが人類に狩られるところをね』
「へえ、見てたんだ。どんな人類だった?」
コロが尋ねると、鷹の魔物は少し首を傾げた。
『どんなヤツかって言われてもねぇ。空からじゃ、人類の顔の違いなんて分かんないよ。ただの小汚い人類みたいだったけど』
『チッ……また人類どもの妄想か。天を穿つ魔剣だの、黄金の鎧だの、いい加減なものだ』
『魔剣?黄金?ないない。本当にただの鉄の剣を持った、ただの人類だったよ。……ただ、少しおかしなことがあってね』
鷹の魔物は、パタパタと翼をたたみながら不思議そうに首をひねる。
『僕の目は、地上のネズミの髭の揺れすら捉えられるくらい良い方だと自負してるんだけど……。あの人類が、でっかいトカゲを倒した『瞬間』だけは見えなかったんだよね』
「……見えなかった?」
『ああ。でっかいトカゲに向かって人類が歩いていって……次の瞬間には、もうでっかいトカゲの眉間に剣が突き刺さってたんだ。まるで、そこだけ時間がポーンと飛んだみたいにさ』
その物理的でフラットな証言に、コロとウルは顔を見合わせた。
人類の下らない噂話には一切耳を貸さなかった一人と一匹だが、魔物の純粋な視覚情報の欠落という事実には、非常に興味深く耳を傾けている。
「……なるほど。やっぱり、何か特別な力を持つ人類なのは間違いなさそうだね」
『フン。そのようだな』
「まあ、私たちには関係ないけど」
『あはは、そうだねぇ。無駄な諍いは避けるに限るよ。でっかいトカゲの肉、食べたかったんだけどねぇ』
そう言いながら陽気に首を左右にゆらゆらと揺らしている荒野の注視者。
コロは採取する手を止め、そんな陽気な荒野の注視者に視線を向けた。
「そういえば、ここらの空を飛んでて、デーモンを見かけなかった?人類の町でね、目撃情報が出てたんだけど……」
コロが何気なく話題を振ると、「デーモン?」と驚いたように翼を広げた。
『まさか!ずっとこの辺りの空を縄張りにしてるけど、そんな厄介なヤツ、僕は一度も見たことないよ。もしデーモンなんて現れたら、周辺の魔物はみんな逃げ出して、生態系がめちゃくちゃになっちゃうからね』
「ふうん、そっか。……ウル、やっぱりあの手配書は空振りだよ。ただの見間違いか、せいぜい下級の小鬼だろうね」
『フン。だろうな。これだから人類の不確かな情報はアテにならん』
「それじゃあ、このまま霊峰の頂に近い場所まで行っちゃおうか。鷹さん、情報ありがとう」
『いいよいいよ!気をつけてねぇ』
荒野の注視者が再び空へと舞い上がっていくのを見送り、コロとウルは警戒を解いて、さらに険しい岩場へと足を踏み入れていった。
雲を見下ろすほどの高度。
吹きすさぶ風は氷のように冷たく、生命の気配はひどく希薄だ。
コロは岩肌に張り付くように咲く青白い高山植物をナイフで切り取りながら、ふうと白い息を吐いた。
「よし、これで数は揃ったね。ここならアースドラゴンどころか、魔物じゃない普通の野犬の縄張りからも外れてるし、サクッとテンポよく下山しようか」
『ああ。さっさと下山するぞ。こんな空気が薄くて寒い場所は、俺の毛並みに悪い』
「ふふ、昨日の晩は『静寂と冷たい空気が待ち遠しい』なんて言ってたのに」
『いちいち真似をするな』
ウルが立ち上がり、身震いをして冬毛の雪を払おうとした、その瞬間だった。
――ピタリ、と。 風の音が、消えた。
いや、風だけではない。
自分たちの衣擦れの音も、呼吸の音さえも、世界から唐突に「削り取られた」ような、絶対的な無音が空間を支配した。
「……え?」
コロが振り返るより早く、背後の空間が『ぐにゃり』と歪んだ。
陽炎のように揺らぐ大気の中から、音もなく「それ」は現れた。
一見すると、豪奢な黒い外套を羽織った、長身で痩せた人類の男だった。
透き通るような青白い肌に、整いすぎた不気味な美貌。
しかし、顔にあるべき鼻も口も存在せず、唯一、歪な位置についている硝子玉のような二つの瞳には、生命に対する一切の感情が欠落した『深淵』が広がっていた。
そして背中の閉じられた翼は烏の羽のように黒い艶がある。
「……ッ!」
コロの『器』が、けたたましい警鐘を鳴らす。
魔力、殺気、威圧。
そんな生易しいものではない。
ただそこに立っているだけで、周囲の空間そのものが悲鳴を上げているような、圧倒的な『存在の暴力』だ。
コロは指先一つ動かせず、呼吸すら忘れたようにその場に縫い付けられてしまった。
『……チッ。天文学的な数字を引き当てたか。……ピンキリの中でも、ピンの方のお出ましだ……!』
喉の奥でギリッと牙を鳴らし、ウルがコロを庇うように前へと進み出た。
デーモン。それも、広場の手配書にあったような黒い影や有象無象の類とは次元が違う。
間違いなく、単騎で国一つを滅ぼせるレベルの『災厄』そのものだ。
ウルの全身が小さく震え、毛という毛が逆だっているのが分かる。
『あとで人類に苦情をつけておけ……!少しはマシな情報を書いておけとな……』
デーモンは、コロとウルを一瞥すると、ひどく退屈そうに長い指先をわずかに持ち上げた。
言葉など必要ない。
ただそれだけで、コロたちを『消し去る』つもりだという明確な死の意志が伝わってきた。
「……」
『逃げろ。いいか、逃げろ……!』
「……ウル……」
『それ以上、意見は受け付けん。逃げろ……』
デーモンの身体がゆらりとブレた。
『――させるかァッッッ!!』
ウルが咆哮を上げ、その巨躯からありったけの魔力を解放する。
アッシュウルフの代名詞とも言える、周囲の岩盤をも吹き飛ばすほどの極大の『黒雷』。
それが、必殺の牙と共にデーモンの細い首筋へと容赦なく叩き込まれた。
――バチィィィィンッ!!
閃光が弾け、鼓膜を破るような轟音が霊峰に響き渡る。 しかし。
『――なっ……!!』
ウルの金色の瞳が、驚愕に見開かれた。
直撃したはずの黒雷は、デーモンの肌に触れる寸前で、見えない壁に阻まれたように霧散していた。
ウルの鋭い牙もまた、薄い外套の布一枚すら裂くことができていない。
デーモンは、首元に食らいつこうとしている巨大な狼を鬱陶しそうに見下ろすと、まるで羽虫を追い払うかのように、裏拳で軽くウルの腹を『払った』。
『ガ……ハッ……!?』
――ドゴォォォォンッ!!
たったそれだけの、力みすらない一撃。
それだけでウルの巨躯は砲弾のように弾け飛び、数十メートル後方の岩壁に深々と叩きつけられた。
崩落する岩の破片の中に、銀色の巨体が力なく沈む。
「……ウルッ!!」
硬直が解け、コロが悲鳴のような声を上げた。
相棒が、手も足も出なかった。
昨日、あれほど人類の『特別な力』を鼻で笑っていた絶対的な自信が、まるで赤子のようにあしらわれた。
その事実が、かつてない屈辱と不甲斐なさとなって、ウルの意識を黒く塗りつぶしていく。
デーモンは、岩壁にめり込んだウルにはもう興味を失ったように、再びコロへと向き直り、その細い指先を彼女の心臓へと向けた。
「あ……」
圧倒的な死。
計算も合理性も通じない、純粋な暴力の頂点。
コロが逃げることすら諦め、薄く目を閉じた、その時。
何かが、デーモンの細い指先と、コロの心臓との間に割り込んだ。
それは、唐突に、最初からそこに存在していたかのように現れた。
空間転移による魔力の揺らぎも、高速移動に伴う風切り音すらもない。
ただ、そこに至るまでの『過程』がすっぽりと抜け落ちたかのような、極めて異常で不自然な出現だった。
伝説の魔剣でも、黄金の鎧でも、鍛え上げられた筋肉でもない。
ボロボロの旅装に身を包んだ、どこにでもいそうな人間族の冴えない風貌の男。
そんな男が、使い込まれた鉄の剣を、デーモンの胸元へと深く突き立てていた。
「……ッ?」
デーモンの硝子玉のような瞳が、初めて微かに揺らぐ。
次の瞬間、男が剣をねじり込むと、デーモンの身体はヒビが入ったガラス細工のように、一瞬にしてサラサラと黒い灰となって崩れ落ちた。
吹きすさぶ冷たい風がその灰を虚空へと散らし、霊峰を支配していた絶対的な無音と重圧が、嘘のように掻き消えていく。
豪奢な外套だけが岩場に残り、その足元に、片手ではとても持てなさそうな大きさの、黒曜石のような魔石がゴトンと重い音を立てて転がった。
「おっと、危ない危ない。いやぁ、間に合ってよかったよ」
男はパラパラと散る灰を払うように剣を一振りすると、カチャリと小気味良い音を立てて鞘に収めた。
そして、呆然と座り込んでいるコロと、岩壁の瓦礫の中から血を流しながら這い出そうとしているウルの方を振り返り、屈託のない笑顔を向けた。
「こりゃ驚いたね。空耳かと思いきや、本当にデーモンがいるなんてなぁ……」
男はそう言って、足元の巨大な魔石を「よっこらしょ」と両手で持ち上げた。
その仕草は、国を滅ぼすレベルの災厄を葬った英雄とは程遠い。
腰の関節を気にするような、酷く生活じみた、ただの平凡な人類のものだった。
コロは、震える手で地面を突き、なんとか立ち上がった。
間違いない。この男が、昨日町で噂になっていたアースドラゴン討伐の『英雄』。
そして、荒野の注視者が言っていた「倒した瞬間だけ見えなかった」という『小汚い人類』だ。
過程をすっ飛ばして結果だけを押し付けるようなその異端の力は、間違いなくサンオセール伯爵や『人肉屋』と同じ、人類の枠組みを外れた変異種のものである。
「ポーションはあるかい?」
「う、うん……」
「ははは、そうかそうか。とにかくさ、間に合って良かったよ」
そう言うと、男はドシンと魔石を地面に落とし、一人と一匹の側にどっかりと座り込んだ。
「あ、そうそう。俺の名前はチャーリー。空にプカプカ浮かぶ雲のように、自由気ままに世界を旅する旅人ってところだ」
「……私はコロ。薬草専門の採取家をしているの。こっちは相棒のウル。助けてくれてありがとう」
コロが名乗ると、チャーリーは興味深そうにコロの銀髪と、ウルの巨体を交互に見比べた。
「コロちゃんにウル君ね?えーと、君はさっきの空耳を飛ばしたりとか、そういう感じの子?」
まるで何を言っているのかわからないコロは、ウルと視線を合わせ、すぐに肩を竦めてしまう。
ウルもまた、癒えきらない傷の痛みに低く唸りながら、目の前の底知れない男から警戒を解こうとはしない。
「何の話か分からないかな」
「まぁ、そうだよなぁ。いや、なんでそんな妙チクリンな事を聞いたかっていうとさ、朝、ここから最寄りの町のバズムを散歩してたらさ、不思議な話で、美人そうな声が響いてきてね。いや、何いってんだって思うかもしれない……いや、思うよね?」
「うん」
「そこはあれさ!俺がピンポイントでここに馳せ参じたってのが証拠と思ってくれよ。ね?で、声に導かれてここまでバババッと来たってな感じだよ。そっかぁ、何だったんだろうなぁ……」
巨大な魔石を胡座をかいた脚の上に乗せ、太鼓のようにポンポンと叩いているチャーリーは、心底不思議そうに苦笑いを浮かべた。
その話を聞いて、コロの中では一つの答えが導き出されていた。
『……女神に救われたな……』
漸く口を開いたウルを見つめ、コロはコクっと頷いてみせた。
そして斜めがけの鞄から最上級の治癒ポーションの小瓶を取り出し、キュポンと音を立てながら栓を開け、ウルの身体にかけていく。
「……何の目的で、私たちを助けたの?」
ウルの身体の様子を心配しながらも、コロは掠れた声で、警戒心を露わにしながら尋ねた。
いつぞやの『人肉屋』みたく、特別な力を持つ人類は、自己中心的で歪んだ魔物寄りの思考になっていく。
コロはこの男も、例外ではないはずだと、そう考えているのかもしれないという警戒心を抱いている。
「え?目的?」
「そう。そんな怪しい空耳で、真っ先に駆けつけてくるなんて、ちょっと変だなって……」
コロの言葉を受け、チャーリーは両腕を組み、ニッコリと笑ってみせた。
その硝子玉のような氷藍色の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「コロちゃんは、人を助けることに深い理由が必要なの?」
「理由……?いや、だって、何も無い可能性だってあるでしょ。空耳の正体が罠かもしれないし、私たちを助けたところで一銭の得にもならないかもしれない」
「何もなかったら、その時は酒の肴になるだけだよ。ま、結果として人助けもできたし、すごい魔石も手に入った。別にそれ以上理由なんていらなくない?」
チャーリーはそう言うと、「ね?」と言って首を傾けてみせた。
コロはチャーリーのあっけらかんとした顔を見つめ、小さくため息をついた。
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