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第九十四小節〜おやすみ〜




 季節は少し進み、灰色の重い雲と鈍い群青の海が、人々の心を濁らせていた時期を少し越えていた。


 天気の良い日には、冷たく吹き荒んでいた風は優しく頬を撫で、その冷たさの中に生命の息吹を感じる匂いがする。


 ──そんなある日の事だ。


「あぅー……。お姉ちゃん今日もゴメンねぇ……」


 ここはかつてレーネとフィリップが二人で住んでいたファウリー家、今ではフィリップとユイーブの新居だ。そのリビングのテーブルに突っ伏したユイーブは、家事を進めている義姉に声を掛けていた。


「ユイちゃん、あまり無理しちゃダメよ?大事な時期なんだから。でも、もう少ししたら運動もしなきゃ!」


 キッチンで今夜の彼女達の夕食を仕込んでいたレーネは、可愛い義妹に笑顔を振りまく。


 それは、最大の期待と愛に満ちていた。


 ユイーブは、自身の愛おしく膨れ上がった下腹部を撫でる。


「あっ!」


「どうしたの?ユイちゃん?」


 突然の事で驚いたレーネはユイーブの肩を撫でるが、彼女は満面の笑みで義姉に答えた。


「あはっ、また蹴られた。暴れん坊さんだなぁ、この子」


 ユイーブはフィリップとの子をその身に授かり、今ではレーネがユイーブの身の回りの世話を焼いている。


「良く動くよね、その子。ね?名前って決めてるの?」


 レーネはユイーブの隣に座り、背中を擦りながら問うと、彼女は薄ら笑いを浮かべた。


「えー?言っちゃおうかな?どうしようかなー?」


「そんなに勿体ぶらないでよー?姉妹でしょ?」


「「ふふっ……」」


 同時に笑う二人だが、ユイーブが急に暗い顔に変わった。それはまるで罪悪感か、それとも……。


「どうしたの?具合い悪くなった?」


 レーネが覗き込むユイーブの頬に一筋、涙が堕ちた。


「私だけ、ゴメン……。お姉ちゃん……、は、レオ先生から止められてるのに……」


 事実、レーネは主治医レオハンヌ=スト医師から、懐妊は避けるようにと診断を受けている。それは彼女の不完全な心臓では、新たな生命を胎内で育む負荷には耐える事が出来ないであろう、との診断だ。


「待って大丈夫よ、ユイちゃん。そこはロウェルと話し合ってちゃんと決めたの。それよりー、決めてる赤ちゃんの名前聞かせてよ!」


 レーネは、現実の残酷さに頬に涙の筋を光らせる義妹に、彼女の心の影を白日の光でかき消す太陽のような笑顔で問い掛けた。


「お姉ちゃん……」


(あぁ、そうだった。アイツの明るさの元となったのは、この女性ひとだ)


「本当、敵わないし、悔しいな……」


 ポソリと、まるで呪言のように呟くが、目の前の義姉の細長い瞳は見開き、期待に満ちている。まるで、目の前に精巧なカットを施されたエメラルドが二つ、意思を持って光を散りばめせているように見えた。


「ん?何か言った?」


 その美しい光に圧倒されたのだろう、ユイーブの表情は明るくなり、言葉を続ける。


「ううん。じゃあ発表するね!男の子だったら『フェルディア』、女の子なら『ユイリィ』なの!」


 パッと華が開いたような笑顔を取り戻し、ユイーブは『来たるべき我が子』の名前を紡ぐ。


「わぁ、いい名前!でも、ユイリィちゃんならユイちゃんと呼び方ややこしくならない?」


 率直な意見だ、共に「ユイ」と愛称を付けて混同しそうな案件である。


「そこはね、私の事は『ユイ』って呼ぶけど、ユイリィちゃんは『ユリ』って呼ぶらしいよ?アイツ」


 クスクスとユイーブは笑い、言葉を続けた。


「ユイリィって、『ユイの名前とファウリーって家の名前を繋げた』ってフィルは言ってたよ?バカなくせにその辺センスあるのよね、アイツ」


 その言葉を聞いて、レーネは身を乗り出した。が、半分は呆れ顔をしている。


「あの子、絵を描いたりできるから……。変な感だけは鋭いのよ」


 溜め息を深くはくレーネだが、次は問い掛けた。


「じゃあ、フェルディア君は?何か由来あるの?」


 首を傾げ、問いかけるレーネだが、ユイーブの表情は固く、本人も疑問をうかべているようだった。


「んとね、『俺と、兄貴と、そんでもって色々混ぜたんだよ!』って、意味分かんないでしょ?」 


 彼女は下唇をせり出し、不服そうな顔をしているが、レーネは何かを気付いたようだ。


「あ……」


 脳裏に浮かぶのは、ある日ベッドで打ち明けられた、夫の『本当の名前』。


──『ルヴェン=カロース=エスメラルダ』


 そして、あの日、新聞の号外で討たれたと報じらたのは、ビルデン国騎士団長、『エーウディア=エスメラルダ』。


 レーネの思考は、パズルのピースが精密に揃った気がした。が、その反面、何も聞かされていない筈の弟が、その『真実』を感じ取っていた事に震えが止まらなかった。


「まさか……?あのバカが……?」


 分かってはいた筈だ、弟はバカだ。が、彼の突拍子のないところで発揮される『感』は、誰の追従も許さない程、研ぎ澄まされている。


 波が砂浜をさらいながら、ざらりと引いていく音。そして、海鳥たちの鳴き声が時を進める。


「お姉ちゃん?」


 物憂げに頭を垂れていたレーネに、ユイーブから声が掛かった。


「あ!ゴメンね!ちょっとだけ胸が痛くて……!」


 自らの葛藤を、自らの身体の所為にして、笑顔でその場を取り繕う。


「あ!そういえば……。私の部屋そのままだよね?ユイちゃん。私の子供の頃の服、残ってるかも?産まれたのが『ユリ』ちゃんだったら、お下がり出来るかも!?」


 その言葉に、ユイーブの笑顔が咲く。何故ならば、彼女自身は元々乏しい家庭、そして別の地方から流浪の末にこのアダーに住みついた家庭だ。


 レーネ達の祖父、ガズリュイ=ファウリーが旧フェルダイ帝国の竜討騎士、そして両親も竜討騎士だったのは知っている。幼い頃、ユイーブから見たレーネは『良家のお嬢様』だったのだ。


 その頃の衣服のお下がり、それは期待してもお釣りが出るほどの代物だが……。



「その服、この子がフィルか、お姉ちゃん似だったら……完全に小さいお姉ちゃんじゃん」


「そこは分からないわよ?ユイちゃんに似ても、素敵な色使いな服ばかりだったわよ? ママは黒髪だったし、そのあたり考えて買ってくれてた物だしね!」


 レーネはユイーブのふくよかな頬を撫でたあと、隣接された元自分の部屋へと足を運ぶ。


「ちょっと待ってねー、ユイちゃん。今から探すからー」


「ありがとうお姉ちゃん。私、少し風に当たってくる」


「はーい、足元気を付けてね!大事な時期なんだから!」


 義姉の言葉を背にユイーブはドアを開け、家の海側にあるベンチに腰掛けた。ふと視界を拡げると、辺りは光に満ちあふれている。


 心地のよい海からの風と、かすかな緑の匂いがする。すると、彼女の胎内で愛しい我が子が暴れ回っていた。


「ほーらおチビちゃん、気持ちいいねー。お母さんから出てきたらもーっと、気持ちいいよ!」


 と、愛しい腹部を撫でて語りかけていた。



 ── 一方レーネは。


「さて、はじめますか!」


 その言葉を皮切りに押し入れを開き、その中の棚から幼い頃の衣服を引っ張り出していた。


 どれもこれも懐かしい物ばかり、幼い頃に亡くなった両親が買い揃えてくれたドレスや靴、それにリボン等のアクセサリーも出てくる。


 それぞれが、売ればなかなか良い値段が付きそうなものばかり……。


 祖父は、貧しくとも絶対にそれらに手を出さなかったのだろう、愛する我が子夫婦が、愛しい孫娘の為に買い揃えた品々だ。


「パパ、ママ、お爺ちゃん……、ありがと」


 感傷に浸っていたレーネは、はたと気を取り戻した。


「ダメダメ、チャッチャと整理しなきゃ!紙は……、有った!」


 レーネは羊皮紙に『要るもの』『要らないもの』と書き込み、それらを部屋に置き衣服等を仕分けしていった。


 部屋の外からは、波の満ち引きの音が一定のリズムを刻み、離れた街の中央からは大道芸人達の音楽が微かに聞こえてくる。



「うん、いいね。色々出てきた。でも、産まれたのがユリちゃんじゃなかったら不用品かな?」


 レーネはクスリと笑い、山積みになったかつての服を眺めていた。


「あ……、そうだ。紙があるついでに、今日の買い物リスト作っちゃお。ロウェル、今日はお仕事昼までだったからね」


 などと考え事をしていると、不意に眠気に襲われた。大きな欠伸が出たあと、彼女は元自分のベッドに目をやる。


(ちょっとだけ、横になろうかしら?)


 そう思うと、レーネはベッドに横になり、掛け布団を軽く腹部に掛ける。


 ベッドからは懐かしい匂いが立ち込め、彼女を包み、思わず笑顔になる。


「そう言えば、このベッドも処分だ…よ……ね……」


 言葉半分で彼女は大きく息を吸う、そして、そのため込んだ空気を深く吐き出した。


 その笑顔の緊張が解け、柔らかな寝顔になった後。



 レーネは二度とその胸を上下する事は無かった。


 明け放たれた窓からは、母なる海の豊潤な匂いを含んだ温かい風が、彼女の金色の前髪をかき上げる。


 艷やかなその髪は、苗木が太陽に向けて延びるかのように風に舞い、新たな命が芽吹く期待を膨らませた。


 が、その肉体は既にその苗床へと変化していた。



──灯台からは、正午を告げるラッパが聞こえる。



「あ、お昼だ。お姉ちゃん、もうお昼だよ?ご飯どうしようか?」



 ユイーブの愛らしい声だけが、時を進めていた。



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