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最終小節〜The End of DREAM〜



「お姉ちゃん!聞いてる?」


 何度か問い掛けたが返事は無い。そのかわりに海鳥達が声を上げ、飛び立っていく。


 ユイーブはゆっくりと立ち上がり、リビングを抜けレーネの部屋へと足を運んだ。


 その最中、何度も何度も愛しい子がお腹の壁を蹴る。


「あはっ!今から『叔母さん』の所へ……、ん?『お姉ちゃん』って呼ばそ。『お姉ちゃん』に会いに行くよー」


 部屋のドアノブに手を掛けるが、またも激しくお腹を蹴られた。


「あ、お腹すいたのかな?待ってて、ママご飯食べるからね」


 笑顔でドアを開く、すると明け放たれた窓からは海からの風が吹き抜けた。レースのカーテンが風に舞い、潮の匂いが部屋を包む。


「お姉ちゃん、お昼にしよう?」


 問い掛けるが返事はない、レーネはベッドで横になり眠りこけっている様だ。足元に目をやると、仕分けされた衣服やアクセサリーがズラリと並んでいる。


「うわ、可愛い服!凄く綺麗に残ってる!」


 彼女は目を綺羅びやかに光らせ、数々の子供服や女の子用のアクセサリーを手に取り、それらを着せた我が子を想像し始めた。


 が、楽しい時間はすぐに終わる。


 腹の虫がグゥゥと、催促の声を上げたのだ。


「あ、やっぱお腹すくとダメだね。お姉ちゃん、ご飯食べよ?」


 ベッドで横たわる義姉の顔を覗き込むと、彼女は小さく開いた口からだらしなく涎まで垂らしている始末。


「お姉ちゃん!」


 一度軽く肩を揺らす。が、反応がない。


「お姉ちゃんが弱い腰コチョコチョしちゃうぞー」


 悪戯な顔をしたユイーブは、レーネが必ず笑い転げる腰少し下を掻いてみた。


──全く反応が無い。そこで異変に気がついた。


「お姉ちゃん?」


 寝顔を覗き込む。すると……。


──寝息が聞こえない。それどころか、胸が上下していないのだ。


「お姉ちゃん!?」


 だが義姉の身体からは、『いつもの』優しい温もりは伝わってくる。


「お姉ちゃん?え……ウソ……」


 ユイーブは状況が理解できずに、その視線は部屋の至る所へ移り変わった。


 整理された衣服、開きっぱなしの押し入れ。そして、レーネが手に持った羊皮紙。


『買う物


 野菜

 魚

 手ぬぐい


 赤ちゃんのおしめ

 ユイちゃんの出産祝い?←相談』


 ……、全てが生活の延長線上だ。


「え?え……?私……?どうしたら?」


 ユイーブが困惑し、瞳を右往左往していると、またも我が子が暴れた。


「まって……。今はまって」


 それでも胎動は止まらない。


「まってって言ってるでしょ!?お願い、ママの言う事きいて!」


 思わず強い口調に変わる。


 そして、うずくまるユイーブの胎動は激しさを増す。が、その『愛』の叫びを拒否する彼女の瞳からは涙が止めどなく流れ、その思考は迷走していた。


「先生……、レオ先生を呼ばなきゃ……」


 彼女は重い身を起こし、家から足を進める。スト診療所迄はかなりの距離が有る、浜辺の貧民地区から街の中央迄だ。


 荒い息遣いで彼女は歩き出す。暖かい大地からの風や街の中央から聞こえる朗らかな音楽、それに辺りの子供達のはしゃぐ声。それに我が子の胎動。


 ──今は要らない、それよりもお姉ちゃんが……。


 息絶え絶えで歩くユイーブの姿を見つけたのは、貧民街の『釣王つりおう』こと、マントだ。



「ユイちゃん?どうした?」



 彼はボサボサの黒髪に無精ひげ、ボロボロの衣服を継ぎ接ぎした見すぼらしい姿に、『自分で獲って剥いだ』様な動物の毛皮を肩に掛けていた。


 右手にはその辺の木の枝に釣り糸が付いた釣り竿、左手には麻の袋に今日の釣果が重くぶら下がっている。


 彼は必死に歩くユイーブの苦しそうな表情を見た瞬間、竿も麻袋も投げ出した。


「ユイちゃん……?まさか、産まれそうなのか!?産まれるんだな!待ってろ!今すぐ産婆さん連れてくるからな!?」

 

 その言葉にユイーブは涙ながらに答えた。


「マントさん、まって。私じゃないの、お姉ちゃんが!」


 その言葉にマントの顔色が変わる、彼はレーネ達が幼い頃からの付き合いだ。彼女の心臓の病は知っていた。


「レンちゃんか!?倒れたのか!?容体は!?」


 ユイーブの瞳からは止めどなく涙が流れる。


「息……、してない……の」


 マントの瞳がこれ以上開かない程見開かれる。


「分かった!スト先生すぐ呼んでくるからな!あと、人も呼んでくる!ユイちゃんはここで待ってな、無理しちゃダメだぞ!」


 マントは肩に掛けていた毛皮をユイーブに掛ける。


「動いてないとまだまだ寒い。ちょっと臭いけど、無いよりはマシだろ?少し待ってな!」


 そう言うとマントは、老年だと言うのに全速力で駆け出した、流石は浜辺で生活しているだけの事はある。


 その沈着なる膂力によって蹴り出された一歩、また一歩は砂を巻き上げ、みるみる内にその姿は遠く離れて行った。


 マントに借りた毛皮の肩掛け、それは正しい処理を施されず、一見は野卑やひな外衣だ。しかし、その命を削ぎ落とした、無作法な慈しみは今のユイーブの心を温めた。


 空から、海鳥達を狙う猛禽類の甲高い鳴き声が突き抜ける。


 ユイーブは息を整え、近くの釣具小屋の椅子に腰掛けた。少し日陰になっており、寒さが襲いかかってきた。


 彼女は毛皮の肩掛けをギュッと握り締め、その暖かさに心の荒波を抑える事が出来た。


「マントさん……。ありがとう……」


 ──すると、遠くから中年女性の声が聞こえた。


「ユイちゃんーー!!どこー!?」


 ふと、先程までうずくまっていた道に目をやると、ふくよかな身体を持った弁当屋の常連女性、ミーリーがそこに立っていた。


「ミーリーさん!ここ!私ここだよ!」


 ユイーブは釣具小屋から手を振り、声を上げると、彼女は大黒柱の如き安定感のある足取りで駆け寄ってくる。


「ユイちゃん、お姉さんが大変なんだってね!?マント爺さんから聞いたよ!とりあえず家に帰ろう?」


 ミーリーはそう言うとユイーブの肩を担ぐ、豊潤なミーリーの身体は肉感的な剛毅ごうきそのもの。自分よりも背が低いはずの彼女は、軽々しくその身重な身体を支えた。


 ──重心が低い。


そうは思うが、ユイーブは思わず言葉を紡ぐ。


「ミーリーさん、私、重くない?」


 その言葉に彼女はその焦げ茶色の瞳を緩ませ、頬に皺が幾重にも浮かぶ。


「なぁに言ってんだい、ユイちゃん。わたしぁ、コレでも五人のやんちゃ坊主共を育て上げたのよ!身重だろうが、女の子一人ぐらい目でもないさ!」


 そして二人はレーネの下へ歩き出す、ゆっくりだが確実に……。



── 一方。ロウェルはマントからの報せを聞き、スト診療所前に馬を留めた。


「先生!レンが!妻が大変なんだ!今すぐ来てくれ!」


 その顔は引きつり、声を荒げる。彼の端麗な面影は一つも残ってはいない。


「分かった、今しがた午前の患者さんが落ち着いたところだよ!すぐに馬車の手配をするから、少し待っていてくれないか?」


 レオハンヌは診察機器を鞄に詰めながら、近くの看護女官に目配せを送る。それは、命の瀬戸際を渡り歩いた、確かな眼力。


 が、ロウェルは今すぐ妻の所へ向かいたかった。逸る気持ちが言葉となる。


「先生、馬車が来るまで待ってられない!俺の馬で来てくれ!」


「えぇ!?君の馬は戦馬いくさうまだろう!?無茶を言わないでくれよ!」


 レオハンヌは鞄を抱きしめ、恐れる様な眼差しをする。しかし、ロウェルはその初老の薬師の肩を優しく抱いていた。


「大丈夫、先生。ゆっくり走らせるから……」



──その数分後だ。


「ロウェル君?ロウェル君!?これ、全然ゆっくりじゃないよね!?この馬、段差とか跳んでるよね!?」


 レオハンヌはロウェルの背中に抱きつき、馬の速度と跳躍に震えていた。それこそ、『野を越え山越え』だ。


「先生、ゴメン!本当に急いでるから!」


 道すがら、ミーリーの肩を借り歩くユイーブを追い越す。


「ユイーブちゃん!先生連れて来たか……」


 言葉半分でロウェル達は彼女の視界から消えた。


「良かった……レオ先生連れてきてくれたんだ、ロウェルさん」


 ユイーブの瞳から大粒の涙が止め処なく流れると、身体は緊張の糸が切れたかのように膝から崩れ落ちた。


 すると、ミーリーの力強い肩がユイーブを持ち上げる。


「まだよ、ユイちゃんはレンちゃんの……」


 言葉途中で止まる、ユイーブは言葉を濁す彼女の横顔をみた。『何か』を伝えたいが、その『何か』は『今』のユイーブには酷すぎるのだろう。


 ミーリーは吐き出せば劇薬となる言葉を、喉の奥で飼い慣らす。


「さあ、行くよユイちゃん。家はもうすぐ!」


 ミーリーはユイーブの肩を担ぎ上げ、力強く歩く。たとえその先に『絶望』が待っているとしても。


 『歴代の母』として、見せなければならない。


 これから『初めて母』になる彼女に、『命の儚さと、尊さ』を……。



────



 ユイーブが家のリビングを通り抜け、レーネの部屋のドアを開けた。


 レオハンヌはレーネの胸に聴診器をあて、暫く様子を伺っている。ロウェルは簡易的な椅子に腰掛け、項垂れていた。


「先生!?お姉ちゃんは!?まだ……」


 ユイーブの言葉途中に、彼はレーネの顔に射し込む日光を当て、その瞼を開く。


 ……その瞳は、生命の拍動を止めた、ガラス玉の如き虹彩、それは先程まで意思を持っていたエメラルド。

 

 その美しい瞳は、『ただの宝石』へと成り下がっていた。


 レオハンヌは胸の前で十字を切り、レーネの顔に白亜の布を掛けた。


「愛の女神様、ここに貴女様から命の天秤を任されたわたくし、レオハンヌ=ストが恐れながら申し上げます」


 その言葉は実質、「死亡確認」の宣誓だ。


「どうかこの者の御霊が、貴女様の寵愛に抱かれますように……」


 ……沈黙の時間が流れ、ていたのか?ロウェルもユイーブも身体を硬直し、ただ次の秒針のきっかけを待っているようだ。


 だが、世界は残酷だ。窓に掛かったカーテンを揺らす浜風、海鳥達が愛を求める声。それに、ユイーブの胎動達が時の歩みを無慈悲に進める。


 レオハンヌは機材を鞄にしまい、ロウェルに声を掛けた。


「今日は一緒にいてあげなさい。明日、正式な書類を渡すからね」


 事務的な言葉の後に続ける。


「この子は精一杯生きた。幼い頃から診てきたが、この年齢まで生きながらえたのは奇跡だよ。ロウェル君、気に病むことは無い。君がこの子と出会えたのは愛の女神様の思し召しなのだから……」


 レオハンヌの優しい言葉と裏腹に、ロウェルの心の中にはドス黒い感情が渦を巻く。


(この幸せを掴む為に俺は何をした!?)


 思いは巡る。『親友をその手で殺し』、『国家を一つ焼き払い』、さらには『旧友と恩人』まで手に掛け、とどの詰まりに『実の父の首を跳ねた』。


「ふ……ざけんな……」


 ポロリと聞こえたロウェルの独り言が時を進めた。


 ユイーブは涙で溢れる瞳を彼に向ける。そこに座って居るのは信頼し、尊敬する義兄。


 だが、温厚で紳士的な彼が、聞いたこともない荒々しい声を上げ、それは部屋中に響き渡る。


「ふっざけんな!!クソったれがぁぁ!!」


 拳を白くなる程握り締め、その爪は肉にくいこんでいた。


 ロウェルとユイーブの無言の時間。その静謐を破ったのは、くしくもフィリップがレーネの部屋のドアをゆっくりと開けた音だ。


 フィリップは顔面蒼白、その翠の瞳は虚空を舞い、息も絶え絶えだ。


「フィル!お姉ちゃんが!」


 ユイーブは彼に駆け寄り、事の経緯を話そうとするが、フィリップは愛妻を腕で払い除る、まるで「邪魔だ」と無言で現した。


「え?フィル……?」


 それは、情愛の雫一滴すら注がれぬ、荒野の如き仕打ち。彼の視線は、ベッドで横たわる姉にしか向いてはいない。


 静かに横たわり、腹の上で神に祈るように手を握る姉。そして、顔にかけられた引導の白い布。そして、その下の笑みは蒼白い。


「な……んで、だよ……。なんでだよ!?おい!ユイ!なんでお前が側に居るのに姉ちゃん死んでんだよ!?」


 フィリップの怒りの矛先は歪む、ロウェルもユイーブもその言葉に耳を疑った。そして。


「姉ちゃん発作起こったんだろ!?気付薬ならキッチンに置いてあるだろ!何やってんだよ!」


 その責任の在り処を荒げた声と共に、側に居たはずの妻にぶつける、ユイーブは初めて見る夫の鬼の形相にたじろんだ。


「フィル!言い過ぎだ。今すぐユイーブちゃんに謝れ!」


 ロウェルは椅子に腰掛け、レーネの姿を見たたまま義弟を諭す。が、それがフィリップの癇癪に触ったのだろう。


「……おい、兄貴、いやロウェル。てめぇはてめぇで何いつまでもスカシた顔してんだよ、姉ちゃん死んだんだぜ?今まではてめぇの『キャラ』として付き合ってやってたのによ。まだ続けるのかよ!?おぉ!?」


 その言葉はロウェルの逆鱗に触れた。


「俺がスカシてるだぁ?付き合ってやってるだぁ?調子に乗るのも大概にしろよクソガキが!お前、一回〆(しめ)る必要あるな?」


 ロウェルはゆっくりと立ち上がり、フィリップに向けてその深淵よりも深い蒼の眼差しを刺す。


「もうやめてぇぇ!お願いだから……やめて……」


 ユイーブは膝から崩れ落ち、心の中の雨を全て流したかのようなずぶ濡れの顔をしていた。


 ──男達は顔を下げ、言葉を失った。


 部屋の中に残ったのは、ユイーブのすすり泣きと、窓から吹き込む海風だけだった。


 フィリップはゆっくりと顔を上げる。


 白い布の下で眠る姉。その姿を再度見た瞬間、彼の肩がわずかに震えた。


「ユイ、ごめん。俺、酷いことした。本当に……、ごめん」


「うん、大丈夫。フィルも混乱してたんだよね?私もアンタと同じ気持ちだったから……」


 灯台からは夕刻を報せるラッパが響く。その音を皮切りにユイーブは涙を拭い、言葉を続けた。


「言われてみれば、お姉ちゃん顔真っ青になってきたね……。最後に、とびきりのお化粧してあげなきゃ。ちょっと取ってくるね」


 そう言い残し、彼女は部屋を後にする。


──気まずい雰囲気が流れるが、ただ一人状況を未だに整理出来ない男、フィリップが腰掛けたロウェルの右側に立っていた。


 ロウェルは義弟の素振りが『癖』の左頬を掻く仕草を取ったのをその視界の隅で見えた。だが、今だけは、今日だけは何も言わないでやろう、と瞳を閉じる。


 ──思いは巡る。初めてレーネと会った日、見すぼらしい衣服を纏い市場で項垂れる女性。胸を押さえ、呼吸も乱れていた。


 声を掛ける理由など、彼女の苦しそうな素振りをみればそれで事足りる。


「あんた、大丈夫か?」


「ええ、大丈夫です。それより、私みたいな貧乏人に声を掛けてくれる貴方。とても優しいのですね?」


 そう聞き返す病弱で痩せ細った肢体。だが、そのエメラルドの瞳の輝きは褪せる事なく、対の様なコバルトの瞳を見据えた……。


 ロウェルの意識は妻の横たわる部屋へと戻る。


(懐かしいな……)


 そう思いに耽っていると、ユイーブが部屋のドアを開けた。


「ごめんなさい!遅くなっちゃった。お昼抜いたから赤ちゃんが暴れ……」


 言葉途中で止まる。が、明るい口調が一気に転調する。


「ちょっと!フィル!!何やってるのよ!?ロウェルさん!フィルが隣にいるのにどうしたの!?」


 切羽詰まったその声で、ロウェルは隣の義弟に目をやると……。


「あ゛ーー……あ゛ーーー……」


 フィリップの焦点は虚空を彷徨い、もう姉の姿さえもその瞳には入っては居ない。


 その身体は頻繁に震えが起こり、掻きむしった左頬は真皮に届く程だ。


 床には彼の頬から垂れる『紅』がベットリと張り付いていた。

 

「あ゛ーーーーーー!!!!」


 フィリップは足元の整理された衣服類を蹴り飛ばし、自らの部屋へと転がり込んだ。



──フィリップは部屋のドアの前で蹲っていた。極度のストレスが彼の心を蝕み、身震いと頬を掻きむしる行為が止まらない。


 その心理は自責の念が泥流でいりゅうとなり、彼の足首を掴んで底なしの闇へ引き摺り込んでいた。


 この世でただ一人の肉親が死んだ、この世でただ一人と決めた愛妻に暴言を吐いた。さらには、この世でただ一人尊敬する義兄の尊厳を踏み躙った。


「うぅ……。俺は……最悪だ、最低だ……」


 涙が止め処なく流れ、頬の傷口に触っても不思議と痛みは感じない。


 ……。その時だ、部屋の片隅から掠れる様な女性の声が複数、フィリップに話しかけて来た。


「お辛いのですね、私達が癒してあげましょう」

   「気に病むことは有りません、私達と共に歩みましょう」


 「さぁ、こちらへおいでまし」

       「私達と共に、快楽を……」


 フィリップの頭の中に木霊する声たちは優しく、温かさを持ったもの。彼は声にいざなわれ、部屋の片隅の箱を取り出す。


 それは、魔石の欠片を集めた箱。呪われた箱だ。


 フィリップは箱をゆっくりと開ける。すると、今まではくすんでいた欠片達が目を疑う程に光り輝き、その光は太陽の様な暖かさを持っていた。


「さぁ、苦しみから解放して差し上げましょう」

   「手に取って下さい」

  「そのお口でたんと味わいを噛み締めて」

        「どうぞ……」


 頭の中の声達の優しさに触れたフィリップは、欠片の一つを口に含み、奥歯で噛み砕く。その瞬間、快楽という快楽が頭を突き抜けた。


 しかし、その快楽は一瞬で消える。彼はもう一つ、さらにもう一つと口に運んでいく。


 正気を失ったフィリップの瞳は見開き、快楽に溺れていった。

 一つづつ口に含み、噛む。そのペースは徐々に速まり、遂には手で鷲掴みにして口に入れ、噛み砕く。


 次の瞬間、彼は天を仰ぎ、白眼を剥き、涎を垂らしながら叫んだ。


「ぎっも゛ぢい゛い゛ーーー!!」



── レーネの寝室の魔導ランプの光が少し揺らいだ。


 ロウェルはフィリップの血で汚れた床を丁寧に拭き取り、ユイーブはレーネの死化粧を進めている。


「ユイーブちゃん、さっきは怖がらせてごめんね。今度、美味しいケーキ買ってきてあげるからさ」


 ロウェルの顔に笑顔が戻る。踏ん切りは、付いたようだ。


「出来た、お姉ちゃんすごく綺麗。見てあげて!」


 義妹の言葉を聞き、冷たくなった妻を見る。


 血色は良くなり、唇も潤っている。まるで、その閉じた瞳が、どこかの舞踏会で接吻をせがんでいるかの様だ。


「レン……。綺麗だ、また惚れちゃったよ。ありがとう、ユイーブちゃん」


「ううん。お姉ちゃん、こんなお化粧一回もした事無かったから。私も一度見てみたかったの、お姉ちゃんの『本気』の顔」


「ふふっ」

「あはっ」


 二人は思わず笑いをこぼした。


「さーて、明日から大変だな、書類集めて、葬式やって……」


 ロウェルは少し、『肩の荷が下りた』様な顔付きで話している。


「大丈夫。ロ……、『お義兄にいちゃん』。その辺り、私詳しいから」


 ロウェルは軽く息を吐き、笑顔で義妹に礼を言う。


「ありがとう。お願いするね、『ユイちゃん』」


 そのやり取りに二人はまたも笑みをこぼす。


「やっと『ユイちゃん』って呼んでくれた!」

「そっちこそ。俺は君の兄貴なんだぜ?」


 魔導ランプの揺らぎが更に激しくなった。まるで、『何か』に怯えているかのようだ。

 

 すると、それと同調するかの様に、ユイーブの胎動が激しさを増した。


「あ、そうか。ゴメンね、今日のパパ機嫌悪かったね。おチビちゃんもいつものパパに逢いたいよねっ」


 自らの腹部を愛おしく見ていたユイーブは、視線をロウェルに移す。




「お義兄ちゃん、ちょっとフィルの様子見てくる。きっと綺麗なお姉ちゃん見たら機嫌治るよね!?」


 満面の笑みの彼女に、彼のコバルトの瞳は最大に緩む。


「あぁ、無理に来なくても良い、って言ってくれるかい?喧嘩……しちゃったからな。俺も、明日謝りたい」


「うん、言っておくね。ちょっと行ってくる」


 そう言うと、ユイーブは彼女達の寝室へと歩みだした。


 部屋にはロウェルと、冷たくなった妻レーネ。それに、春の前に活気づく羽虫達が、魔導ランプの光に誘われて部屋を飛び交い、羽音が鼓膜を揺する。


 しかし、ロウェルの耳には、二階の部屋へ通じる通路から聞こえる「フィルー!」と、言う義妹の可愛らしい声のほうが良く聴こえた。


 暫しの空白の時間……。静謐とは言い難い、潮騒と春の風の音がロウェルの鼓膜を揺らし続ける。


 そこで異変に気がついた。


 (妙に静かだな……?)


 彼は立ち上がり、フィリップとユイーブの寝室へと足を運ぶ。すると、二人の寝室からユイーブの右腕が、こちらを手招きする様に伸びていた。


 頻繁に手招きをされる。きっと泣き疲れ、だらしない寝顔を晒したフィリップを二人で見よう。と、催促しているんだろう。


 ロウェルは小声で、「ユイちゃん、来たよ。あの野郎、どんな顔してんだよ?」と、言いながら彼等の部屋を覗き込む。


 すると……。


 寝室一杯に拡がった赤黒い『肉』の塊が、今から部屋を破裂させる勢いで腫れ上がり、ユイーブは、右腕だけを残しその『肉塊』に呑み込まれていた。


「え……?」


 ロウェルの思考は止まった。ユイーブの手招きは、『呼んでいる』ではなく、『身悶えて』いるだけ。


 次の瞬間、周囲の静寂を塗り潰すような、生物としての形が崩壊していく、残酷なまでの質量感を持った音と共に、生暖かい液体が彼の顔を紅に塗りつぶした。


 それと同時に、ユイーブの腕は力なく垂れ下がり、目の前の『肉塊』へと取り込まれて行く。


 不意に脳裏に過る黒竜の声。


「目を覚ませ!石だ!石がおる!ルヴェン!!」


 その言葉にロウェルはヒュッ!と息を吸い込み、左手のグローブに手を掛けた。だが、その刹那の遅れは既に手遅れだった。


 ロウェルの視界は『暴力的な白い光』により爆ぜる。


── 時間にして数分?数秒?


 彼は身体中に走る激痛によって意識を取り戻した。


 家から少し離れたぬるついた石畳の上で突っ伏し、横たわっていた、意識が朦朧とし全身に力が入らない。


(気絶していた?……、頭を打ったか!?)


 家に目をやると、そこにはさらに肥大した『肉塊』が、全てを飲み込み下品に脈動を続けていた。


 何度目かの脈動の後、その『肉塊』の至る所から色とりどりの光が顔を覗かせる、ロウェルは瞬時にそれらが『何か』を理解する。


「魔石の勇者ぁぁ!黒竜!力を貸してくれ!」


 伏臥のまま左手のグローブに手を掛けようとが、身体全体に力が入らない。と、同時に彼は腹部の激痛と共に、その口から大量の血液を吐いた。


「な……、あ……?内臓を……、やられたか?」


 自らの怪我の具合を確かめる為に、腹部に目をやると、石畳は大量の血液で水溜りの様になっており……。


 先程まで両の脚で立っていたその下半身が、ごっそりと吹き飛ばされていたのだ。


──黒竜の声が響く。


「ルヴェンよ、お前はもうここまでだ……。次の身体へと行くぞ……、また、会おうぞ……」


 その言葉を最後に、ロウェルの中から竜の気配が消える。と、同時に寒さが彼を襲い、意識が薄れていった。


 フィリップ『だった』その魔石の勇者は、空に浮かび上がり、怨念と憎悪を光の矢として無数に放ち、アダーの街を焼いていく……。


 その熱が嫌に暖かかった、と感じたのは皮肉だが、失われていく体温には心地良く、ロウェルは虚ろな瞳を開いたまま息を引き取った。

 


 魔石の勇者はさらに激しく街を焼く。耳を劈く様な爆裂音、逃げ惑う人々の悲鳴が木霊している。


 そんな中で、息絶えたロウェルの傍らにはロインが静かに佇んでいた。


 彼は懐から一冊の楽譜の束を取り出し、物憂げな瞳で見据えている。その楽譜の表紙には『Ⅰ』と明記されていた。彼はその『最後の小節』を軽く指差し、柔らかに口を開いた。


「またお会いしましたね、この組曲をご鑑賞の皆様方……。さて、この楽章はここで幕を閉じます」


 するとロインは背中に担いでいたリュートを構える。


 弦が数回響くと、彼は歌いだす。


「優しい声に誘われ、その身を堕としたその男


 甘く、甘い快楽は全てを飲み込んだ


 我は魔石を統べるもの


 我こそは魔石の王者


 我が名は……、『魔王』」


 不穏な短調の旋律を奏でた後、彼はリュートの演奏を止めた。


「さぁ、私達は次の楽譜へと、魔王を屠る男の旋律へと進みましょう」


 ロインは、空からアダーの街を炎の海に変えていく、不気味な『魔王』を慈しむ様な眼差しで見た後に一言。


「それでは、またお会いしましょう。『この過去の未来』の『別のお話』で……」


──世界は暗転し、楽章は幕を閉じた。

 この小節を持ちまして、『紅の鎮魂歌 第一楽章』を完結とさせて頂きます。


 四カ月の間、皆様の貴重な時間を拙作に使って頂き、至極光栄に思います。

 『第二楽章』執筆まで、暫しお待ちくださればありがたき幸せです。


 最後に。本当に、ありがとうございました。

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