第5話「選んだ理由」
触れた瞬間に流れ込んできた“何か”は、まだ頭の奥に残っていた。
夢見太郎は、その場に立っていられなかった。
膝が崩れる。
視界が揺れる。
何かを“知ってしまった感覚”だけが、はっきりと残っている。
「……っ」
呼吸が浅い。
自分の中に、自分じゃないものがある。
それが何より気持ち悪かった。
「……やったのね」
低い声。
早乙女凛花だった。
その声は怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ——
“分かっていたことが起きた”という響きだった。
「……ごめんなさい」
太郎は、思わずそう言っていた。
何に対しての謝罪か、自分でもわからない。
だが。
謝らずにはいられなかった。
「謝る必要はない」
ミックー・マースが、穏やかに言う。
「選んだのは君だ」
正論だった。
だからこそ、重い。
「これで、君も“こちら側”だ」
その言葉が、静かに現実を固定する。
「……もういいでしょ」
早乙女が言う。
視線はミックーに向けたまま。
「説明は、私がやる」
ミックーは少しだけ考える素振りを見せた。
そして。
「任せるよ」
あっさりと引いた。
「彼は君の“後輩”だしね」
その言い方に、わずかな含みがあった。
だが、それ以上は何も言わない。
「また後で」
そう残して。
ミックーは、音もなく去っていった。
静寂が戻る。
だが、もう“元の静けさ”ではない。
「……立てる?」
早乙女が、静かに手を差し出した。
太郎は少し迷ってから、その手を取る。
温かい。
人の手の温度だった。
それだけで、少しだけ現実に戻る。
そのまま、無言で歩く。
通路を抜け、さらに奥へ。
一般スタッフが入らないエリア。
扉を一つ、二つ、三つ。
やがて、古びた扉の前で止まった。
早乙女が鍵を取り出す。
開ける。
中は、小さな部屋だった。
机と椅子が一つずつ。
窓はない。
外の音も、ほとんど入ってこない。
「ここなら、大丈夫」
そう言って、扉を閉めた。
太郎は椅子に座る。
頭はまだ重い。
だが、少しずつ整理されてきている。
「……何なんですか、これ」
やっと出てきた言葉。
早乙女は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから。
「契約よ」
短く言う。
「あなたは、“維持する側”になった」
やはり、現実は変わらない。
「……早乙女さんも」
恐る恐る聞く。
早乙女は、目を伏せた。
「そう」
あっさりと。
「同じ」
沈黙。
重い沈黙。
だが、それは避けられないものだった。
「……なんで」
太郎は、続ける。
「選んだんですか」
核心に触れる問い。
だが、もう聞かずにはいられない。
早乙女は、しばらく何も言わなかった。
机に手を置いたまま、じっと一点を見つめている。
やがて。
「……昔ね」
静かに、語り始めた。
「妹がいたの」
その一言で、空気が変わる。
過去の温度が、流れ込んでくる。
「小さくて、よく笑う子だった」
淡々とした語り。
だが、その奥にあるものは重い。
「この場所が、大好きでね」
少しだけ、目を細める。
「何度も来た」
楽しそうに笑う姿が、そこにあったのだろう。
「ある日」
言葉が、わずかに止まる。
「迷子になったの」
静かに。
だが確実に、何かが崩れる音がした。
「すぐ見つかると思った」
「スタッフも動いてくれたし、アナウンスも流した」
「でも」
そこで、完全に言葉が止まる。
数秒。
沈黙。
「見つからなかった」
その一言で、すべてがわかる。
「……そんなこと、あるんですか」
太郎の声は、かすれていた。
あってはいけないこと。
ここで。
この場所で。
「あるの」
はっきりと言う。
「“ズレた”場合」
太郎の背中に、冷たいものが走る。
「その時、私は見た」
早乙女の声が、わずかに低くなる。
「“裏側”を」
「キャラクターが、何かをしてた」
「消してたの」
淡々と。
だが、確実に。
「妹の“存在”を」
太郎は、息を呑む。
理解したくない。
だが、理解してしまう。
「名前が、消えていった」
「記録も、記憶も」
「誰も、覚えていないことにされていく」
「……そんな」
「でも、私は見てしまった」
静かに言う。
「だから、“消される側”になった」
太郎の心臓が跳ねる。
「……え?」
「選ばされたの」
ゆっくりと、顔を上げる。
「忘れるか」
「関わるか」
ミックーと同じ言葉。
「……それで」
「私は」
ほんの一瞬だけ、迷う。
そして。
「選んだ」
「忘れないことを」
その言葉は、強かった。
壊れていない。
折れていない。
ただ、重い。
「関われば、消されない」
「少なくとも、“完全には”」
「だから私は、ここに残った」
太郎は、何も言えなかった。
「でもね」
早乙女の声が、少しだけ揺れる。
「代わりに」
「戻れなくなった」
静かに。
確実に。
「妹の名前も、顔も」
言葉が詰まる。
「……思い出せないの」
その一言が、すべてだった。
守るために選んだのに。
守りたかったものは、
もう、思い出せない。
「……それでも」
太郎は、やっと言葉を出す。
「ここにいるんですか」
早乙女は、少しだけ笑った。
初めて見せる、弱い笑顔。
「いるしかないの」
「ここにいれば、まだ“どこかにいる”って思えるから」
その言葉は、祈りに近かった。
部屋の中が、静まり返る。
太郎は、ゆっくりと自分の手を見る。
さっき、触れた手。
契約。
この選択の先にあるもの。
それは。
失うことだ。
でも。
それでも。
もう、戻れない。
「……俺も」
小さく呟く。
「何か、失うんですよね」
早乙女は、迷わず頷いた。
「もう、始まってる」
その言葉に。
太郎は、自分の中にある“違和感”に気づく。
何かが、引っかからない。
思い出そうとすると、
少しだけ空白がある。
「……あれ」
胸がざわつく。
「俺」
何かを、
思い出せない。
ほんの少しだけ。
でも確実に。
“何かが削られている”。




