第4話「契約」
通路の空気が、明確に変わった。
ミックー・マースが立っている。
それだけで、世界の“前提”が歪む。
笑っているはずなのに、笑っていない。
そこにいるだけで、“何かがおかしい”と理解させられる存在。
「いい選択だね」
穏やかな声。
だが、逃げ場はない。
夢見太郎は、息をするのも忘れていた。
隣で、早乙女凛花が一歩前に出る。
「……勝手に接触しないで」
低く、押し殺した声。
ミックーは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「接触?」
くすりと笑う気配。
「もうしてるよ。昨日の時点で」
早乙女の表情が、わずかに歪む。
「ルールは守って」
「守ってるさ」
即答だった。
「“見た側”には、選択権を与える。それだけ」
その言葉に、太郎は反応する。
「……選択権って」
ミックーの視線が、ゆっくりと太郎に向く。
「君のことだよ、夢見太郎」
名前を呼ばれる。
それだけで、心臓が強く脈打つ。
「昨日、言ったよね」
一歩、近づく。
「知らないままでいるか、知って戻れなくなるか」
太郎は、言葉を飲み込む。
すでに、答えは出している。
だが。
その“先”がある。
「その続きをしよう」
ミックーの声が、わずかに低くなる。
「知るだけじゃ足りない」
さらに一歩。
「関わるかどうかだ」
「……やめて」
早乙女が割って入る。
「まだ早い」
「早い?」
ミックーは笑う。
「むしろ遅いくらいだよ」
その視線は、冷たい。
「気づいた人間を放置する方が、危険だ」
早乙女は何も言い返せない。
それが、“正しい”からだ。
「ねえ、夢見」
ミックーが、優しく語りかける。
「ここがどういう場所か、少しは理解した?」
太郎は、ゆっくりと頷いた。
「……普通じゃない、ってことは」
「そう」
即座に肯定する。
「ここはね」
一瞬だけ、言葉を区切る。
「夢を維持するために、“現実を調整している場所”なんだ」
意味が、すぐには理解できない。
「調整……?」
「ズレを直す」
淡々とした声。
「不都合な記憶を消す。名前を書き換える。存在を薄くする」
太郎の背中に、冷たい汗が流れる。
「それで、“夢”を壊さないようにする」
昨日、早乙女が言っていた言葉と繋がる。
犠牲。
記憶。
名前。
「……それを、誰がやってるんですか」
震える声。
ミックーは、わずかに笑った。
「僕たちだよ」
あまりにも自然に。
当たり前のように。
「キャラクターはね、“夢の管理者”なんだ」
太郎の頭の中で、何かが崩れる。
キャラクターは、ただ演じられている存在じゃない。
——管理している側。
その事実が、重くのしかかる。
「そこで」
ミックーは、手を軽く広げた。
まるで舞台の上のように。
「君に提案がある」
その瞬間。
早乙女の顔色が変わる。
「……やめて」
「やめないよ」
即答だった。
「これは必要なことだ」
「夢見太郎」
名前を呼ばれる。
逃げられない。
「君は、“気づく側”だ」
ゆっくりと、言葉を置く。
「だから選べる」
一歩、さらに距離を詰める。
「このまま、消される側になるか」
太郎の呼吸が止まる。
「それとも」
ほんの一瞬。
笑顔の奥に、“本質”が見えた。
「維持する側になるか」
「……消されるって」
声が震える。
ミックーは、少しだけ考える素振りを見せた。
「完全に消えるわけじゃない」
優しく言う。
「ただ、“ズレ”が修正されるだけ」
その言葉が、逆に恐ろしい。
「違和感はなくなる。疑問も消える」
つまり。
何も気づかなかった自分に戻る。
——それは、本当に自分か?
「もう一つは?」
太郎は、聞いてしまった。
ミックーは、少しだけ嬉しそうに笑う。
「いいね。その質問」
「維持する側になるっていうのはね」
静かに、告げる。
「僕たちと同じになることだ」
空気が、凍る。
「……同じって」
「役割を持つ」
はっきりと言う。
「夢を守るために、“何かを削る側”になる」
太郎は、言葉を失った。
それが何を意味するのか、理解できてしまう。
記憶を消す側。
名前を書き換える側。
誰かの“何か”を奪う側。
「……やめなさい」
早乙女の声が、震えていた。
「それ以上は——」
「君はどうだった?」
ミックーが遮る。
視線を、早乙女に向ける。
「選んだよね」
その一言で、空気が止まる。
太郎が、ゆっくりと早乙女を見る。
早乙女は——
何も言わなかった。
否定しなかった。
「……私と一緒にしないで」
やっと絞り出した声。
「私は」
言葉が止まる。
続けられない。
ミックーは、再び太郎に向き直る。
「どうする?」
静かな声。
だが、その中にすべてがある。
「消されるか」
一歩。
「関わるか」
もう一歩。
「選んで」
太郎の頭の中で、様々なものが渦巻く。
普通に戻れる。
何も知らなかった頃に。
それは、安全だ。
楽だ。
だが。
それでいいのか?
このまま、何も知らずに。
誰かが消えていくのを。
ただ、見ないふりをして。
「……もし」
震える声で、言う。
「関わったら、どうなるんですか」
ミックーは、ほんの少しだけ間を置いた。
「簡単だよ」
そして、答える。
「戻れない」
その一言で、すべてが確定する。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
太郎は——
「……それでも」
顔を上げた。
「知りたいです」
はっきりと、言った。
恐怖は消えていない。
だが、それ以上に。
目を逸らしたくなかった。
ミックーは、ゆっくりと頷いた。
「いいね」
その声は、どこか満足そうだった。
「じゃあ」
手を差し出す。
白い手袋。
だが、その奥にあるものは——
「契約だ」
太郎は、その手を見つめる。
触れた瞬間、何かが変わると直感する。
もう戻れない。
完全に。
「……やめて」
早乙女の声が、かすれる。
「それは——」
だが。
太郎は、ゆっくりと手を伸ばしていた。
触れた瞬間。
世界が、歪んだ。
音が消える。
光が揺れる。
そして。
頭の中に、何かが流れ込んでくる。
知らない記憶。
知らない名前。
消えていった“何か”。
「ようこそ」
ミックーの声が、響く。
「夢の裏側へ」
その瞬間。
夢見太郎は、
“夢を見る側”から、
完全に外れた。




