第3話「気づいた側」
その夜、ほとんど眠れなかった。
夢見太郎の頭の中では、あの光景が何度も繰り返されていた。
ミックー・マース。
笑っていない笑顔。
そして、“声”。
——見たね。
あの一言が、耳に残り続けている。
ありえない。
そう思うのに、否定できない。
現実感が、壊れ始めていた。
翌朝。
出勤すると、いつも通りの光景が広がっていた。
明るい音楽。
笑顔のスタッフ。
何も変わっていない。
——昨日のことは、幻だったのか?
一瞬、そう思いかけた。
「おはよう、新人」
声をかけてきたのは相沢悠斗だった。
「顔、やばいぞ。ゾンビみたいになってる」
「……寝れてなくて」
「まあ、最初はみんなそんなもんだ」
軽く笑う。
だがそのあと、ふと真顔になった。
「……変なもん、見てないよな?」
太郎の心臓が、跳ねた。
「え?」
「いや、なんでもない」
悠斗はすぐに視線を逸らした。
「忘れてくれ」
その言い方は、“知っている側”のものだった。
だが、踏み込めなかった。
踏み込んだら、戻れなくなる気がした。
午前の業務。
太郎は何度もミスをした。
動きが遅れる。
指示を聞き逃す。
笑顔が崩れる。
集中できない。
当然のように——
「夢見」
呼ばれる。
あの声。
振り向くと、早乙女凛花が立っていた。
「ちょっと来て」
有無を言わせない口調。
太郎は無言で頷いた。
連れてこられたのは、スタッフ用の通路の奥。
人の気配がほとんどない場所。
昨日、あの“声”を聞いた場所に、少し似ていた。
「……どうしたの?」
早乙女は壁にもたれながら、静かに言った。
「ミス、多すぎる」
「……すみません」
「それ、昨日から」
その一言で、空気が変わった。
太郎は顔を上げる。
早乙女は、まっすぐこちらを見ていた。
逃げ場のない目。
「何を見たの?」
心臓が、止まりかける。
「……何も」
「嘘」
即答だった。
冷たい。
だが確信を持っている声。
「“見た側”の顔してる」
太郎の喉が、乾く。
「……意味、わからないです」
「わかるでしょ」
一歩、近づいてくる。
「ここで働いてて、“わからないまま”でいられると思ってるの?」
言葉が刺さる。
逃げたくなる。
だが、逃げられない。
「……俺は、ただ」
言いかけて、止まる。
言ってしまえば、終わる気がした。
だが。
「……ミックーが」
口に出してしまった。
その瞬間。
早乙女の表情が、止まった。
ほんの一瞬。
だが確実に、変わった。
「……何をされたの」
声が、低くなる。
「喋ったんです」
沈黙。
空気が、張り詰める。
「……声を、聞いた」
そこまで言ったとき。
早乙女は、ゆっくりと目を閉じた。
そして——
「……そう」
小さく、呟いた。
諦めたような響き。
あるいは、覚悟のようなもの。
目を開く。
その目は、もう“教育係”のものではなかった。
「もう関わってるのね」
はっきりと、言った。
その言葉は、重かった。
逃げ道を完全に塞ぐ重さ。
「……え?」
「引き返せないところに来てる」
淡々と続ける。
「本当はね」
一歩、近づく。
「見た時点で終わりなの」
太郎の背中に、冷たいものが走る。
「終わり……?」
「うん」
あまりにもあっさりと。
「ここには、“見てはいけないもの”がある」
静かな声。
だが、嘘は一切ない。
「それを見た人間は、例外なく巻き込まれる」
太郎は息を呑む。
「……じゃあ、俺は」
「もう、“普通のスタッフ”じゃない」
断言された。
迷いはない。
「ねえ、夢見」
名前を呼ばれる。
初めて、少しだけ柔らかい声だった。
「昨日、何を言われた?」
太郎は迷った。
だが、もう隠す意味はない気がした。
「……選べって」
「何を」
「知らないままでいるか、知って戻れなくなるか」
早乙女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……あいつらしい」
小さく、呟く。
「じゃあもう、選択は終わってる」
「え?」
「答えてるじゃない」
まっすぐ見つめてくる。
「ここに来てる時点で」
言葉が出ない。
確かに、その通りだった。
逃げていない。
知ろうとしている。
「……なんなんですか、ここ」
やっと絞り出した問い。
早乙女は少しだけ視線を外した。
そして。
「“夢を維持する場所”」
ゆっくりと、言う。
「そのために、いくつかのものは犠牲になる」
「犠牲……?」
「記憶とか、名前とか」
さらりと、とんでもないことを言う。
太郎の理解が追いつかない。
「……人も、ですか」
その問いに。
早乙女は、答えなかった。
ただ、少しだけ沈黙した。
それが、答えだった。
「……なんで、そんなこと知ってるんですか」
太郎の声は震えていた。
早乙女は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「私も、“見た側”だから」
静かに言った。
その一言に、すべてが詰まっていた。
「……いつ」
「ずっと前」
視線が遠くなる。
「その時、私は一つだけ選んだの」
「何を」
「“関わる側”になること」
その言葉の意味が、ゆっくりと理解されていく。
この人は。
知っていて、ここにいる。
逃げずに。
残っている。
「……どうして」
思わず聞いていた。
なぜ、そんな選択を。
早乙女は、ほんの一瞬だけ迷った。
そして。
「守るため」
そう言った。
だが。
その目は、
何も守れていない人の目だった。
「夢見」
名前を呼ばれる。
「これから、何も知らないふりはできない」
はっきりと告げる。
「関わるなら、覚悟して」
一歩、距離を詰める。
「ここは、“夢の国”じゃない」
その声は、冷たくもあり、どこか優しかった。
「夢を守るために、何かが壊れ続けてる場所」
太郎は、言葉を失う。
頭の中で、何かが崩れていく。
子どもの頃の記憶。
憧れ。
すべてが、音を立てて歪む。
「……それでも」
早乙女は続ける。
「働く?」
選択を、突きつけられる。
逃げることもできる。
だが。
太郎は——
「……知りたいです」
答えていた。
震えながら。
それでも、目を逸らさずに。
早乙女は、数秒だけ沈黙した。
そして。
「……ほんと、最悪」
小さく呟いた。
だがその声には、わずかな感情が混じっていた。
「そういう人間が、一番巻き込まれるの」
その時。
通路の奥から、足音がした。
ゆっくりと。
確実に近づいてくる。
太郎の背筋が凍る。
早乙女も、わずかに表情を変えた。
「……来た」
低く呟く。
「え?」
「タイミング、最悪」
足音が止まる。
すぐ近く。
そして——
「いい選択だね」
あの声。
振り向く。
そこには。
ミックー・マースが、立っていた。
完璧な笑顔で。
だが今度は——
隠す気がなかった。




