43.約束の場所から、歩き出す
翌日。私は庭仕事の合間にお花を摘んで、執務室の窓辺にその花を生けた花瓶を置いた。セドリック様がお仕事をするときに、必ず目に入る位置だ。
「……いい香り。セドリック様も、喜んでくださるかしら」
立ち上った甘い香りに目を細める。梢で遊ぶ鳥の歌を聞きながら、今はまだ遠くにいる愛しい人に想いを馳せた。もう少しで帰ってこられると分かっていても、寂しさが膨らむのを抑えられない。
「ああ奥様、こちらにいらしましたか。少しよろしいですか?」
ドアが開いた。部屋に入ってきて私に呼びかけてきたのは、エルンスト様だった。
◆
「薬草畑の視察、ですか?」
お仕事の話だと言われて背筋を伸ばした私に、エルンスト様は頷いた。
「ええ。急な話で申し訳ありませんが、お願いできますか?」
「わかりましたが……どのように振る舞えばよろしいでしょうか? その、お恥ずかしながら何もわからなくて」
薬草畑に行ったことはあるけれど、そこでついた知識はお花の名前くらいだ。お仕事をしろと言われても、何をどうすればいいのか想像もつかない。
「何も堅苦しいことはありません。先日、旦那様とそうされたように花を愛でつつ歩いてくだされば」
セドリック様のことを『旦那様』と呼んだことにどきっとする。そうよね、私が奥様なら、セドリック様は旦那様だ。そのまま早鐘を打ち始めた心臓をなだめるために、大きく息をする。
「ルシア様、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですっ……ですが、それで良いのですか?」
エルンスト様は頷く。
「はい。それで構いません。私も同行しますのでご安心を」
銀色の目がすっと優しげに細められた。エルンスト様と一緒なら心強いと、胸を撫でおろす。
急ぎ部屋に戻って、畑を歩けるように服と髪を整えなおしてもらうと、エルンスト様とともに軽い昼食をとって馬車に乗った。
もう陽は高くなったのに、スカートを揺らす風が少し冷たい。邸を囲む木々も、緑の葉を黄色や朱に着替えてしまった。寂しくなるかもしれないから、セドリック様には寒くなる前に帰ってきてほしいと思う。
私たちを乗せた馬車は規則的な音を立て、のどかな風景の中を進む。しかし、私は車窓の景色を楽しむ余裕もなく、ぐるぐると考え事をしていた。
花を愛でるだけでいいとのことだけど、視察は視察。きっとまずは、畑を管理している方にご挨拶しなければいけないわよね? けど、そのあとは? お天気の話とか?
だめだわ、何も思いつかない。
行き詰まって頭を抱えてしまう。そもそも人と話すことを得意としていないのに、仕事となると緊張してしまう。失敗すればセドリック様の顔に泥を塗ることになるかもしれないと思うと、なおのこと。
ちゃんとできるかしら。不安で潰されそうになり、向かいに座るエルンスト様に悟られないように小さくため息をつく。
愛する人の妻になれても無邪気に喜んでいるだけではいけない。領主の妻となれば、うちに閉じこもって好きなことだけしていることは許されないことくらい、物知らずの私にもわかる。
勢いで婚姻証書に署名してしまったけれど、本当に私なんかで大丈夫だったのかしら。
どんどん悲しくなる気持ち。けれど、やるしかないとエルンスト様の胸を借りるつもりで話しかけた。
「ずいぶん涼しくなりましたよね。ここの冬は寒いのでしょうか?」
「そうですね。そこまで厳しくありませんが、王都よりは冷えると思います。ルシア様は、寒さが苦手なのですか?」
「……強くならざるを得なかったです」
アルヴェン家にいる時に私が過ごしていた部屋には、暖を取れるものはなかった。王都の冬は別に厳しくないからと、そんな理由だったけれど。
そこから先は思い出すのをやめた。もう後ろは振り返らないと決めたけれど、やはり心の底で燻るものがあるから。
「では、とびきり暖かくしましょうね……ああ、着いたみたいですね」
エルンスト様の手を借りて馬車を降りる。
そこは、邸の外に出たのは数えるほどしかなかった私にも見覚えのある場所だった。前に、セドリック様と来たところだ。
それでも私は首を傾げた。
あの日はともかく、今日は視察と聞いているのに……なぜか私たちを迎える人物はいない。お仕事をされている方も誰もいない。不思議に思いながら畑を見下ろした私は、ある光景に声を上げた。
畑の一角が淡い紫色に染まっていて、
そこに黒い服を着た誰かが立っているのが見えた。
「あの……お仕事って!?」
私は後ろに控えている人を見る。
「……どうぞ、ごゆっくり」
エルンスト様はイタズラっぽく微笑むと、私に背を向けてしまった。
私ははやる気持ちを押さえ、ゆるい斜面を注意深く降りる。
『紫の花は、もう少し季節が進めば』
『また連れてきてもいいか?』
頭に浮かんだのは、初めてここに連れてきてもらった時にした約束。小指を結んで、お互いに微笑みあって。
……あの時、あなたはどんな気持ちだったのかしら。
胸の中に熱いものが込み上げてくる。
ふかふかの土に足を取られ転びそうになりながら走るけれど、紫の花まではまだ遠い。もっと、もっと早く走れたらいいのに。足は動かないのに、気持ちばかりが急く。
息も切れ切れでようやく辿り着いた紫色の花畑の真ん中に、
秋の風に黒衣をはためかせている人物が立っていた。
あともう少しで触れられそうなのに、息が上がって前に進めない。
「……綺麗だなあ」
振り返った彼の、紫水晶の瞳が煌めく。この世で一番眩しい光が差す。
私は声を振り絞った。
「おかえりなさいませ……!!」
「ただいま」
セドリック様はそう言って微笑むと、私の方へと歩いてくる。まだ体がつらいのか足取りは重く、私の目の前まで辿り着いた途端しゃがみ込まれてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
私も慌てて膝をつくと、セドリック様は苦笑いした。
「なんで君まで膝を折ってしまうのか……」
その右手には、小箱がしっかりと握りしめられていた。中身にはなんとなく察しがついた。
『話の続きは、帰ってから』
あのときは聞き流した言葉が、温度をもって蘇る。婚姻証書まで用意していた上での『話』なんて、ひとつしかない。
――っ!!
立っていられなくなったのではなく、私に跪かれたのね!?
「ご、ごめんなさい!!」
意図に気づいて立とうとしたけれど、セドリック様の両腕にあえなく捕まってしまう。温かい胸の中で、心臓の音が強く耳を打つ。自分のものなのか、彼のものなのか、混ざってしまっているのか区別がつかない。
「これでいい。ずっとこうしたかったから」
セドリック様は私の耳元で囁き、私の汗ばんだ首筋に大きな手で触れる。恥ずかしい。
「一生懸命走ってきてくれたもんな」
「ごめんなさい。早く、会いたかったので」
甘い声に燃えそうになる。その上、触れそうな距離で深い紫色の瞳が輝いている。
セドリック様はにっこりと微笑んだ。
「……俺と結婚してほしい……じゃないな、もう」
「……そうですね」
私たちはとっくに正式な夫婦になっている。
あの日のように土の上に並んで座ると、セドリック様がこちらに左手を差し出した。
「手を貸してくれないか」
「はい」
大事に握りしめられていた小箱の中には、綺麗な紫水晶をあしらった指輪が入っていた。セドリック様はおぼつかない手つきでそれを取り出すと、私の左手を強く握った。
私の手を包み込んだあなたの手は、わかりやすいほどに震えていた。
「大丈夫ですか?」
「ごめん、めちゃくちゃ緊張してるだけだ……だって、こんなこと、一生に一度しかないだろ」
セドリック様は耳まで真っ赤にしている。私もきっと同じ色をしていると思う。
「はっ、はい……」
一生に一度どころか、自分の人生にこんな日が訪れるなんて想像もしていなかった。
もどかしくも幸せな時間を越え、私の薬指に愛しい人と同じ色が宿った瞬間、体じゅうに熱が広がる。
「うれしい……私、この色が大好きです」
胸に収まりきらない熱は涙に変わり、私の頬を容赦なく濡らす。叫びたいほどに心がいっぱいなのに、言葉が少しずつしか出てこない。
「あなたの瞳と同じ色だから、大好きなのです」
「っ……」
嬉しすぎてうまく笑えずにいると、再び大きな胸の中に抱き寄せられた。
もう我慢しなくていいことに気づき、私は力いっぱいセドリック様を抱きしめ返した。涙が止まらなくなる。
「俺の妻になってくれてありがとう。もう傷つけない。必ず幸せにする……だから」
セドリック様は言葉を詰まらせ、代わりに私を抱く力を強めた。そばにいるからこそと思うと、この苦しささえも嬉しい。
「ありがとうございます……私もあなたを幸せに」
全てを言い切る前に、唇を塞がれた。
「愛してる……」
「私も愛しています」
セドリック様の瞳を見て、今度は私から口付けた。
先ほどよりすこし長い口付けの後、彼の深い紫の瞳には、まるで空を映したような薄い青の光が宿っている。私の愛を、受け取ってくださったしるし。
「もらってよかったんだよな?」
赤い顔でそう問われ、私はこくこくとうなずく。
「なんか、すごく満たされた……って、嬉しそうだな」
「あなたとひとつになれたみたいで嬉しいのです……」
セドリック様はさらに赤面し、無言で私の髪を撫でる。
薄紫の花が、私たちを祝福するように揺れている。爽やかな香りに包まれて、私たちは顔を見合わせる。
「そろそろ帰ろうか」
「そうですね」
帰ろう、私たちの家へ。
「疲れてないか? 魔力で満ちたところだから、飛行魔法で飛んでみるか? 君がいてくれるから、なんなら邸までひとっ飛びもできるぞ」
セドリック様が少年のように笑い、流れる雲を追うように空を指でなぞる。
空の散歩に興味がないわけではないけれど、今は地に足をつけていたい。
「とっても楽しそうですが、今は歩きたい気分です。馬車でエルンスト様も待ってくださってますし」
「……そうだな、あいつを待たせたらまた怒られるしな」
そう呟いた少し残念そうな顔さえも、愛おしく思える。
手を繋ぎ、馬車が待つ丘の上を目指して並んで歩く。セドリック様は土の上を難なく歩く私を見て、何かに気がついたように目を丸くした。
「そういえば、ずいぶんと足腰が丈夫になったんだな」
「セドリック様のおかげです。できることも、好きなことも、たくさん増えました」
私が微笑むと、セドリック様は声をあげて笑った。私の大好きな笑顔にまた胸が熱くなる。
「俺は何もしてない。君がここに来てから何かを得たのなら、それは全部君が頑張ったからだ」
背中を押すように、涼やかな秋の風が渡る。
――私の目の前は、どこまでもひらけている。
愛しい人の魔道具として、そして妻として。この広い空の下、続く人生を自分の足で歩いていく。
しっかりと繋いだ手の温もりを確かめながら。
【終】




