後日談.黒衣の魔術師の独白Ⅴ
「本当に、このままだとダメになりそうなんだが……」
つい上げてしまった弱音を、銀色の視線がばっさり切り捨てる。
「つべこべ言わずに早くしろ。まだ山のように残ってるぞ。ほら!」
エルは自分の机の上にあった書類を、俺の目の前にどんどん積み上げた。
「ああああー!! それもそうだったか!!!」
王城から帰ってからの俺は執務室に缶詰になり、倒れる少し前から後回しにし続けていた領地関係の書類仕事をやっつけている。
ルシアが頑張ってくれたおかげで、書類は順番通り、期日通りに綺麗に並んでいる。心の中で彼女の働きに感謝を述べながら、一枚ずつ確認をして署名をし、エルに回していく。
しかし。
「げっ、間違えた!!」
「またか! 何をやってるんだ……」
「ああもう仕方ねえだろ。ほんと、なんでこんなクッソ長い名前に……元に戻してえ……」
頭をバリバリとかいた俺を、エルが呆れ顔で見る。
「……セド。あんまり文句言ってると、不敬罪でしょっ引かれるぞ」
……あの捨て身の一撃がもたらしたものはあまりにもデカかった。
あの場には王太子に第二王子、魔術師団の上層部、その他、国内の有力な魔術師たちが集まっていた。俺が刺さなければ、全員が焼き殺されていただろう。
『自らの身の危険を顧みず、国の宝を守った』
俺はそんな功績で陞爵してしまい、国王直々に一等の勲章と一緒に新たな姓を賜ってアステルフォルド伯爵となった。
俺は別に、ルシアのところに帰りたかっただけなんだけどなあ。
「げっ」
また署名を間違えたことに気づいてペンを止めた俺を、エルがすごい顔で睨んでくる。
ちなみに現在、三分の一の確率で署名を間違えている。
……だって、長すぎんか?
全く耳慣れない響きなうえ、綴りもややこしい。初めて聞かされた時は、頭がまだぼんやりしていたせいもあるが何度も聞き返して呆れられた。
「えっ? 何て? もう一度聞かせてもらっても??」
「アステルフォルド、ね。古い言葉でね、『星の守り』って意味なんだよ。かっこいいだろう? 君にぴったりだ」
病床に知らせにやってきたエリオット殿下は、そう言ってニコニコ笑った。
まあなんでも、国を守った若き天才に相応しいものをと気合い入れて考えてくれたらしい。実態は田舎の弱小領主なのに名前だけ立派でもと思ったが、国王に笑顔で迫られたら断れるわけがなかった。
魔術師団にも正式に復帰することになって、療養が明けたら、定期的に王都と領地を往復する生活になる。思い切って住まいを移すことも考えたが、まあ、俺はこの田舎と邸、共に暮らしているものたちのことがとても気に入っているので。
一日中家にいて、机に向かうだけの暮らしは性に合わない。少し前なら頭が腐っていたと思うが、今はそんなことない。頑張れば、ご褒美が待っている。
「セドリック様、今日もお疲れ様でした」
邸に閉じこもってはいたものの、それなりに慌ただしかった一日を終えた。湯を浴びて、寝室に引っ込んだところで、ルシアが訪ねてきた。二人の寝室はまだ整っていないので、こうして彼女は毎晩俺のところに来てくれる。
「ああ、おつかれさん」
髪を撫でてやると、ルシアはとろけるように笑った。彼女と会うのは一週間ぶりだった。
「今回はどうだったんだ?」
「外国語を重点的に……難しいですが、とても楽しいです」
彼女は持っていた本を広げる。北に接する国で主に使われている言葉で、社交の場で必要になることもあるので、北部に住む貴族なら必修の言葉だ。
「セドリック様はどうでしたか?」
「右手が悲鳴上げてる。署名間違えまくってエルには怒られるし、もうペンは持ちたくない……杖振りたい」
「私も間違ってしまいます……」
ごく短期間に三回も苗字が変わった彼女も今は、伯爵夫人となるための勉強に真面目に励んでくれている。
私に、伯爵夫人が務まるのでしょうか。不安そうに言ったルシアに、別に何の役にも立たなくていい、俺の横で笑ってくれていればそれでいい、と言った。
しかし、それを聞いた彼女は少し考え、黙って首を横に振ってはっきり言った。
「あなたの妻になったからには、私は、あなたをきちんとお支えできるようになりたいのです」
彼女は基本的な知識や礼儀は身についているとはいえ、今までまともに教育を受けさせてもらっていないと言うのは調査の過程で知っていた。
幼い頃から貴族に嫁ぐことを想定し、成人するまでに少しずつ覚えていくことを今からまとめて叩き込まないといけない。険しい道になることは明らかだ。俺は正直、彼女にそんな苦しい思いをしてほしくはなかった。誰よりも幸せにしたくて妻にと望んだのに。
しかし、ルシアの決意は堅かった。
現在は月の半分を養父母の家で過ごし、養父母やその縁者を教師として、家政や領地の運営、社交に必要な知識、宗教儀礼や魔法学に薬草学、算術、歴史、外国語。机の上に膨大な量の教科書を積み上げ、時には体を動かし、寝る間を惜しんで学んでいる。
男でも音を上げるのではと思うほど厳しいのに、ルシアは弱音をひとつも吐かない。それどころか、勉強をするのが夢だったからと嬉しそうに笑う。
脆くて儚いとばかり思っていたのに、本当はしなやかで強い人だった。ここに来たばかりの時は、悲しそうだった瞳も、今はいきいきと輝いている。
こんなに美しい人に伴侶にと選んでもらえたなんて、なんと光栄なのだろう。俺も彼女に恥じぬ男にならねば。書類仕事がなんだ。
風呂で温まった肌はほんのりと桃色で、甘い香りをさせていた。彼女を抱き寄せた。ここに来たばかりの時は今にも枯れそうだった体は少し丸みを帯びて、柔らかくなった。
ああ、美味そうだな……大きく開いた胸元に口付けを落とすと、小さく声を上げるとともに身をよじらせる。
あまりにも可愛かったので血が熱くなったが、グッと堪える。
「ごめん。今日はこれだけのつもりだから」
勉強で疲れている彼女を付き合わせるわけにはいかない。隣で眠れるだけで十分幸せだ。
自分に必死に言い聞かせていると、ルシアは俺の寝衣の裾を引っ張って、にっこりと笑った。
「あの。今日は『よくできた』とうんと褒めていただけたのです。だから」
……ごほうびをくださいませんか?
耳元でそっと囁かれ、あっさり理性をぶっ壊された。彼女から誘われるなんて初めてで、嬉しくて頭がどうにかなりそうだった。
結局は……欲じゃなかった、愛が勝つのだ。
〈おしまい〉




