32.遠いぬくもり、別れの準備
ぐるりと世界が裏返ると、胸の中に木の匂いが満ちた。目を開くと、私とアンナは白の広間からノイマン子爵邸の儀式用の部屋に戻っていた。目の前には長杖を片手にしたエルンスト様が立っている。
「おかえりなさいませ、ルシア様。アンナも」
エルンスト様が当たり前のように言った言葉は耳慣れなくて、くすぐったさに胸がきゅっと音を立てる。こんなとき、なんと返すのだったかしら。
「はい。ただいま戻りました」
アンナが恭しく言ったのを、真似するように私も答える。
「た、ただいま……」
おかえりと言われたのも初めてなら、ただいまと返したのも初めてだ。喉の辺りにむず痒さを覚えていると、エルンスト様は笑ってくださった。
「では、私は外の作業に戻りますので……」
作業ってなんのだろう? エルンスト様はいつも着ていらっしゃる端正な詰襟を脱いで、白いシャツの袖を肘まで捲っている。しかも、なぜかあちこちが土で汚れていた。
「あの……何かあったのですか?」
ドアを隔てているにしても邸の中が妙に静かに思える。胸騒ぎがして尋ねると、エルンスト様は持っていた杖を消して小さく笑う。
「ああ。いったんご覧になられますか?」
外に出ると陽の光が目に刺さり、爽やかな香りの風が吹く。なんだか安心する。私はこの場所がすっかり好きになっている。
「あっ、ルシア様!! アンナ!! お帰りなさい!!」
声のする方を見ると、頬に土汚れをつけたリーネが、手袋をはめた手を大きく振っていた。
「わあっ!! お花が届いたんですね」
私は、目の前の光景に声を上げながら歩みを進めた。さっきまでの胸騒ぎが、一気に高揚感へと反転する。地面に広げられた薄い木箱の中には、様々な種類の花の苗が詰められて、まるで小さなお花畑のようだった。
それを使用人の方がお庭に丁寧に植えている。エルンスト様が、先ほどまで杖を持っていた手にシャベルを握っていた。
「ええ。昨日、ルシア様たちが発たれたあとすぐに届きました。今、手が空いている者で少しずつ作業をしています」
メイドたちだけではなく、料理人のジェリーまで庭にいて、包丁をシャベルに持ち替え、レシピではなく誰かが書いたらしい庭の設計図と睨めっこしている。
サクサクと土を掘る音とともに、湿った土の匂いがあたりに漂う。こういった作業を間近で見るのは初めてだ。
「あの、私もお手伝いしていいですか!?」
思い切って尋ねたけれど、エルンスト様の顔を見上げた瞬間、急に気が遠くなってしまった。おそらく、転移魔法の後遺症が遅れて出たのだろう……回るような眩暈で危うく転びそうになった私を、エルンスト様が素早く支えてくださった。
「す、すみません」
「お手伝いしていただけると助かりますが……立て続けの移動でお疲れでしょうから、今日はお部屋でゆっくりなさってください。アンナも、今日は休んでいいとのことだ」
「ありがとうございます」
素直に部屋に引っ込んだ私は、昼食の時間まで何をして過ごそうか悩む。部屋にひとりになると、急に心細くなる。
……セドリック様に会いたい。
椅子に体を預け、侯爵様からいただいたブローチを取り出した。有力な家の紋章。眩しいほどの輝きは、身寄りのない私を守ってくれることだろう。これをいただけただけでも、お会いした意味があったと思う。
だけど。同時に幸せな時間の終わりを突きつけられもして。
ノックの音がしたので、ブローチを慌てて隠した。入ってきたのはセドリック様だった。たった今戻ってこられたばかりなのか、マントを羽織ったままの姿だった。
「お疲れ様。付き合ってくれて、ありがとうな。父も母も君に会えて喜んでた」
「そうなんですか……」
「向こうでも言ったけど、ずっと、ここにいてくれていい。けど……」
「……けど?」
「いや、なんでもない」
そう言ってセドリック様は、ぎこちない笑顔で首を横に振る。
その態度が、違和感となって心に棘のように刺さった。
◆
翌朝、身支度を整えて執務室に向かった私は、いつも通りドアを開けた瞬間目を細めた。
儀式の間は薄暗く保たれているはずの室内に、朝日がたっぷりと降り注いでいる。
何かがおかしいと呆然としている私に、セドリック様が告げた。
「今日は……いい」
「えっ。ですが、昨日は移動をされたりして……魔力が」
「……大丈夫だから。そんなことより、朝飯食おう。な」
セドリック様は何事もないように笑った。
……たまたまなのだと思っていた。しかし、なぜか翌日も、その翌日も。『儀式』は執り行われなかった。
私はここにいるための条件、義務を果たしていないことになる。それでも、セドリック様は今まで通り優しい。一緒に食事をし、仕事も任せてくださる。
ひとりで庭を散歩していると、セドリック様が後ろから走ってきた。
「セドリック様……あの……」
私が何を問おうとしているのか察したのか、セドリック様は目も合わせずに言った。
「大丈夫だ」
紫の瞳がこちらに向いて、けれど、すぐに逸れる。
「いや、ほんと。近ごろは暇でたまらんからな……」
セドリック様はその場にしゃがみ込むと、新しく植えた花の苗を見ながら笑った。
私の目からは朝から晩まで忙しそうにしているようにしか見えない。それでも別にお疲れの様子でもなく、はきはきと話されて、顔色もいい。前に一度だけ見た、魔力が枯れた時の状態とは程遠い。
「おっ、ちゃんと根を張ってきたみたいだな」
その言葉に誘われるように、私も横にしゃがみ込んで苗に視線を合わせた。まだ細く、弱々しいけれど。茎の先端に丸い膨らみがひとつ。
「あら、蕾が……」
「……あっ、ほんとだな」
蕾に目掛けて伸ばした手がぶつかる。セドリック様は、針に触れた時のように素早く手を引っ込める。ずきっと胸が痛む。
「……ごめん」
「いえ、こちらこそ……」
それっきり会話がぷつっと途切れ、私たちの間に静かな空気が横たわった。居心地が悪そうに目を逸らしたセドリック様は「じゃあ、またな」と、邸のほうへ戻っていってしまった。
私も遅れて立ち上がり、黒い背中をぼんやりと見送って大きなため息をついた。梢で歌う楽しそうな鳥の声を聞き流しながら、散歩の続きをする。
セドリック様の態度の理由はきっと、私に触れる必要がなくなったからだ。
侯爵様の前で放たれた、『結婚は考えられない』という言葉が頭の隅で繰り返し鳴っている。
私が応接間を出されたあと、おふたりの間でどんな会話が交わされたのかはわからない。
だけど、『魔力をもらうなら筋を通せ』侯爵様はそうおっしゃった。
今朝も本当なら儀式の日だったのだ。けれど、やはり『大丈夫だから』と言われてしまっている。
私ではだめ。だから……筋を通してもいい、結婚してもいい相手を探すことにしたのだろう。
私には魔力しかないけれど、そのほかの物も兼ね備えた女性なんていくらでもいる。実際、セドリック様には縁談がたくさんきているのを知っている。あの中から、自分に相応しいと思う方を選べる……。
いいえ。前のように倒れたりはしていないと言うことは、もうすでに誰かから魔力をもらっているのかもしれない。
そんな考えを肯定するように、いくら邸の中を探しても、セドリック様の姿は見えなかった。エルンスト様に尋ねたら、今日もお仕事のために王都へと出かけてしまったそうだ。
「今日は、お仕事ありますか?」
「ええ、お願いできますか」
私は主人がいない執務室で、黙々と書類と向き合っていた。部屋の隅に高く積み上がっていた、未整理の箱も随分と減って増えることはない。もうすぐ私のすることもなくなってしまうかもしれない。
そうしたら、もうここにはいられない。
目の前にはセドリック様が書いた文字が並ぶ。それを、切ない気持ちでなぞる。今すぐに触れたい気持ちが溢れてくる。けれど、もしかするともう二度と叶わない。
きっと、道具のくせに一瞬でも夢を見てしまったバチが当たったのだろう。
物語のなかで、可哀想な少女が素敵な王子様に見そめられたように。いつか愛する人と結ばれることを。
もしかしたら、セドリック様から女性として愛される日が来るかもしれないと、夢を見たりなんかしたから。
仕事を終えた私は、ずっと部屋の本棚に置いていた『灰まみれ姫』を書庫の隅の棚に戻した。そこには私のために買ってくださったと思われる本が並んでいる。前に見た時は片手で足りるほどだったのに、いつの間にか読みきれないほどの数になっている。
きっと、長く大切にしてくださろうとはしていたのだと思う。私には、そのお気持ちだけで十分だ。
セドリック様が奥様を迎える時が来たら足掻かず、潔くここを去ることを決めた。本来の結末を迎えるだけだから大丈夫。
その前に、素敵な夢が見られてよかったと思おう。
書庫を出た。部屋に戻って裁縫箱を開き、刺しかけの刺繍を取り出した。縫い目を指でなぞると、ここに来てからの日々が次々とよみがえる。
季節も変わりきらない間の、ほんのひとときの出来事。だけど、私はちゃんと人並みに食べられるようになって、本も読めるようになった。仕事を教えてもらって、刺繍もできるようになった。
何も与えられず、求めることも知らず、薄暗い部屋の中で膝を抱えるしかなかった空っぽの私にも、好きなことや得意なことができた。笑うことや、人を愛することも覚えた。ほんの些細かもしれないけれど、変われた。
それはあなたが私の手を取ってくれたから。
だから、あの日あなたと出会えたことに感謝しかない。
あなたの記憶から消えてしまっても構わない。
心の中はどこまでも透き通っているのに。
でも。かなしい。
そこからまた数日経った。多忙からか、セドリック様は邸に戻られない日もあった。とうとう朝食の席でも顔を合わせなくなり、たまに会えたとしても会話が続かない。
「セドリック様、私……」
「大丈夫だから……」
セドリック様はそう言って笑うだけで、出て行けとは言わない。ギリギリまでここに置いてくださるということだろうけれど、なんだか生きた心地がしない。
刺繍を教えてもらっていて本当に良かったと思う。針を刺しているときは無心になれる。
お世話になった方達に、少しでもお返しをしたい。
そう考えた私は空き時間を全て刺繍に費やすようになり、食事と散歩、仕事以外の時間は部屋に閉じこもって暮らしていた。時間の許す限り、目をこすりながらひたすら刺繍を続けた。
アンナとリーネには、お揃いの花と鳥の刺繍をしたハンカチとリボンを贈った。
「本当にお上手になられましたね! こんな短い間に、すごいわ。大切にいたしますね」
アンナは目を丸くして、歓声をあげてくれた。
「ありがとうございます……宝物にします」
リーネはハンカチとリボンを胸に抱いて、涙ぐんでくれた。
もちろん、エルンスト様、ジェリーにも。皆さん照れながらも、喜んで身につけてくれた。
大丈夫。私にも、人を笑顔にすることができる。
幸せを知ってしまったから、ひとりになるのは怖いけれど、きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせて。今にも込み上げてきそうな涙を押し込んで。
◆
気づけば、最初に山のように買っていただいた布や糸も、かなり残り少なくなった。あと、何をどれだけ作れるだろうか。そんなことを考えながら過ごすようになっていた。
セドリック様は相変わらず私に触れず、けれど笑って『大丈夫』と言うだけだ。私から踏み込まなければならないとわかっていても、一歩の勇気が出ない。
その一言で、本当に終わりになってしまうのが怖いから。
ため息をつきながら窓辺に立った。外は曇天で、いまにも雨が降りそうだった。どんなに強がっていても、窓ガラスに映る自分はあまりにもひどい顔をしていた。薄暗い部屋にいたあの頃は、ずっとこんな顔だったのかもしれない。ガラスの中にいる自分の頬に触れた時、すぐそばにふっと温かい気配を感じた。
『お嬢様』
アルヴェン家にいた人間で、たったひとり、私に心を寄せてくれたクララの声が響く。
もちろん、振り返っても姿は見えないけれど。離れても、心は私のそばにあると言ってくれたからだと思う。もちろん私の心もクララのそばにある。
そうだ、と思い立つ。クララにも何かを贈りたい。本当に届けることは叶わないかもしれないけれど、それでも。
不意に、雲の切れ間から陽が差し始める。私の目の前も少しだけ明るくなる。
椅子に座って、図案集を開く。クララの笑顔や温もりを思い浮かべながらどんな図案がいいかなと考えていると、喉を焼くような苦しみが少し遠くなる。
私は静かな部屋で、じっと思案に耽った。




