31.垂れ込める諦念、銀色の証
「ささやかだが、歓迎の席を用意した。どうか楽しんでほしい」
夜になった。私とセドリック様は灯りがふんだんに入れられた食堂に呼ばれ、侯爵様から丁重なもてなしを受けた。
美しく盛り付けられた料理が一皿ずつ運ばれ、銀の食器が静かに取り替えられていく。
貴族令嬢として生まれながらも、改まった会食の場を経験したことがない私は、失礼のないよう振る舞うので必死だった。
テーブルを挟んで向かい側、セドリック様にそっくりな侯爵様の隣には、侯爵夫人、つまりセドリック様のお母様が座っている。
バラのように鮮やかな赤紫の髪に、赤みの強い金の瞳が煌めく。華やかな美貌を、落ち着いた紫紺色のドレスで包んでいる。まるで宝飾品のようにお綺麗で、つい見惚れてしまう。
侯爵様も応接間でお会いしたときとは一転、角の取れた表情をされている。奥様と時折り視線を交わされて、微かに笑い合う。互いを見つめる眼差しは優しくて、お年を召されても仲睦まじいのが見てとれる。
自分には決して訪れることのない未来を見せつけられているようだった。セドリック様の隣にいるべきはやはり私ではないと、嫌でも思い知らされた。
彼と侯爵様との間にはほぼ会話はなく、奥様が話しかけても短く答えるだけ。ご両親を前に、まるで戦いにでも来たように険しい表情をしていた。
好物のはずのブドウ酒のグラスを黙って傾ける姿を、私は恐る恐る見る。食事の時間にここまで静かにしているのを見たことがない。
私もグラスの中身を舐めるように飲んだ。以前いただいたブドウ酒より、少し甘みがあるように思う。
「……無理しなくていいからな」
「はい、わかりました」
私がグラスを手に取ったからか、セドリック様がやっと私を見て気遣ってくださったけど、向けられた笑顔はどこかぎこちない。胸の中に、ブドウ酒のように渋くて苦い感情が広がっていく。
「ねえ、ルシアさん」
「はいっ……」
ため息が出そうになるのを我慢していると、奥様に名前を呼ばれて肩が揺れる。キラキラとした金色の瞳に見つめられて、自然と胸が騒いだ。奥様は話したくてうずうずしている、というふうに見えた。
奥様は普段のセドリック様を思わせる、明るくておしゃべりな方で、私の髪を見ても何の躊躇もしなかった。そのことは素直に嬉しかったのだけど、私は必死で調子を合わせるか、相槌を打つしかできなかった。
「そうだわ。王都にいらっしゃったのなら、あちらはご存知かしら? 今、若いお嬢さんの間でとても流行っているのでしょう? それと……」
ノイマン侯領は王都からは馬車で三日の距離なのに、事情に詳しいのはさすがだと思う。けれど、話題の全てが私には一切縁のなかった煌びやかなものばかりで、答えに窮してしまう。
私がそれらにどうして縁がなかったかなんて話は、この場にはふさわしくない。けれど嘘で固めるのも気が引けて、必死で言葉を探す。
「い、いつか行ってみたいとは思っていたのですが……そ、その、機会に恵まれなかったのです。ごめんなさい」
「……あら、そうなの?」
私の答えを聞いた奥様は、大きな瞳を不思議そうにぱちぱちと瞬かせる。きっと私のことを詳しくご存知でないのだ。ずっと家に閉じ込められていたなんて想像もしていないのだろう。
「エレノア……若いお嬢さんとご一緒できて楽しいのだろうが、あまり喋りすぎて困らせるのではない。そうも話を続けていては、食事をする暇がないだろう」
侯爵様が嗜めるように言うと、奥様は気まずそうに肩をすくめられた。お二人の間で、また視線が交わされると、奥様は私の方を見て申し訳なさそうに目を伏せた。
「おしゃべりでごめんなさいね。嬉しくって……」
「いいえ。たくさんお話ししてくださって、ありがとうございます」
本当は何も知らないだけだと知られたら、きっとがっかりされてしまうだろう。
セドリック様は相変わらず静かなまま。本当に突き放されたようで、心がずしんと重くなる。
彼のそばから早く離れたいと、初めて思ってしまった。
◆
温かくも居心地の悪い会食をなんとか切り抜け、就寝の準備が終わる頃には身も心も疲れ切っていた。整えられた布団に入っても、枕が変わったからなのか目が妙に冴えて仕方ない。
ベッドを抜け出して、バルコニーに出てみる。夕方まで吹き荒れていた嵐は跡形もなくやみ、北の土地は穏やかな夜を迎えていた。雲ひとつない空で月が銀色に輝き、緩やかに吹く風が寝衣の裾を揺らす。
美しく整った庭園の向こうで、城を守るための高い塀が、夜の闇の中に沈んでいる。剛健な石造りのそれを見ると、自分を囲む壁の存在を思い出してしまった。
セドリック様は、高い壁の向こうにいる。
侯爵様の前で、灰色と何度も繰り返されたことを不意に思い出す。そう言われることは慣れていたはずなのに、大好きな声で言われたことに、心が明らかに痛んでいる。
あなたは、あなただけは、そのことを気にしていないのかもと思っていた。
夜会に大勢いた令嬢の中から、眠る魔力を見出して選んでくださったあなたなら。温かな居場所を与えてくれて、私の刺繍を喜んで受け取ってくださったあなたなら。
私の恋心を、受け入れてくださるかもしれないと。
だけど、侯爵様に娶るのが筋だと詰められたあなたは、腹の底から絞り出すように言った。
『結婚は考えられない』
と。これが私たちの関係を表す全て。
やっぱり……あなたにとって私はただの道具でしかなく、覆ることはないのだと。
当たり前じゃない。最初から、道具だって言われていたのに。
けれど、私に話しかけてくれる優しい声に、私に触れる温かい唇に、手に、屈託のない笑顔に勝手に夢を見て、勝手に打ちひしがれて。
なんて滑稽なんだろうと思ったら。『もしかしたら』なんてありえないのに。
手すりを力一杯握りしめると、涙を吹き飛ばすように強い風が渡った。
「きゃっ……」
まとめていない髪が容赦なく暴れる。いっそ、この風に乗って、どこかに遠くに飛んでいってしまいたい。私を包んでいた甘い夢が、追いかけて来られないところまで。
「あら、ルシア様、こちらにいらっしゃいましたか。風邪を召されますよ」
夜風で体が冷えていくのを受け入れていると、いつの間にかアンナが背後に立っていた。私の肩にショールをかけて体を包みながら言った。
「眠れないのでしたら、温かい飲み物をお持ちしましょうか?」
「ありがとう。お願いしたいわ……」
しばらくして、アンナが部屋に戻ってきた。部屋の中に、花のような香りが満ちる。
「あら、この香りって……」
セドリック様が真夜中に淹れてくれたお茶と同じだ。アンナがポットを持ち上げながら、にっこりと笑った。
「ええ、いつものものと違うでしょう? このお茶はハーブで作ったもので、茶葉で作ったものと違って目が冴えないのです。セドリック様も、お休みの前に好んで飲まれますよ。さあ、どうぞ」
差し出されたカップに、ゆっくりと口をつけた。ほんのりと甘く、あの時の苦味を一切感じないのが、少し物足りない。セドリック様が淹れてくれたからこその味だったのだと気づき、また胸が痛い。
とても大切にはされている。それは痛いほどによくわかっている。けれど、魔術師の方が魔道具を大切にするのは当たり前のことで。
だけど、そんな私たちの関係も、終わりを迎えるのかもしれない。魔力の授受は、対等な者同士でなければならない……そう侯爵様に咎められたから、きっと私から離れていく。
だけど、もしこのまま手を離されたって、都合よく使われたなんて思わない。
だって、あなたに出会えなかったら、人のぬくもりを、幸せを知らないままで死んでいっただろうから。
あなたは私の心に明かりを灯してくれた恩人には違いない。
もはや、別れは避けられない。だけど。もし、何かのきっかけで思い出してくれるだとしたら、笑顔の私がいい。
だから、泣くのはこれでおしまいにしよう。
そう心に決めて、お茶と共に涙を飲んだ。 夜は、静かに更けていく。
◆
翌朝。身支度を終えたところにノックの音が響いた。アンナが対応してくれて、ドアが開く。
「おはよう。ゆっくり休めたか?」
「はい。セドリック様、おはよう……」
いつもの言葉を聞いて、少し気まずく思いながら振り返ると、そこに立っていたのは……侯爵様だった。顔が、かっと熱くなった。
「もっ、もももも、申し訳ございません!!」
慌てふためく私を見て、侯爵様は「ははは」と軽やかに笑った。こんなふうに笑顔を見せてくださるなんて、意外だと思った。隙のない鎧のような威厳を脱いだ姿は、セドリック様に重なる。
「……セドリックは私の若い時の生き写しだとよく言われるが、そこまでとは。自分ではわからないが、もしや声もよく似ているのか?」
「はっ、はい……とても……」
セドリック様がお年を召されたら、今の侯爵様とよく似たお姿になるのだろうと思う。実際に目の当たりにすることは叶わないだろうけれど。
侯爵様は私を見て目を細めている。恥ずかしい。つい、隠れるところを探したくなってしまった。ところで、侯爵様はどうして私の元に来られたのだろう。
私が尋ねる前に、答えを聞くことができた。
「……息子が本当に世話になった。ありがとう。これも何かの縁だ。今後困ったことがあれば、いつでも私を頼ってくれていい」
「もったいなきお言葉、感謝いたします」
「手を」
言われるがまま出した手に、温かくて大きな手が添えられた。そして、銀色の塊を握らされる。
侯爵様に見守られたままで、手のひらを開く。
空に輝く星を見つめる狼の横顔を模ったブローチだった。星の部分には淡青色の色石が輝いている。まるで、よく晴れた空のような色。
「わあ、きれい……」
つい、目の前の人のことを忘れて声をあげてしまう。宝石を手に取って、こんなに近くでじっくり見たのは初めてだ。小さな石の中で、まるで空に虹がかかるように、さまざまな色が踊っている。
女性が持つにはいささか力強すぎる狼と星の意匠が、この石の煌めきのおかげで和らいでいる。
私はじっとその輝きに見惚れて。そういえば、この形には見覚えがある……と思いながら、侯爵様の顔を見て……。
「……気に入ってくれたようで、なにより」
……応接間、侯爵様の背中側の壁にかけられていた紋章旗。
そうだ、これはノイマン家の紋章だ。
全てが繋がった瞬間、心臓が大きく鳴る。今この手の中にあるのは、とても重要なものだと物知らずな私にもわかったからだ。
……家紋をあしらった品はただの装飾品ではない。血のつながった家族か、その伴侶、もしくは忠実な家臣しか持つことが許されないもの。
私は、生まれ育った家のものすら持っていないというのに。
「あ、あの、こんなに大切なものいただけません!」
「そう言わず、持っていきなさい」
与えられたものを突き返す無礼を働いた私に、侯爵様はあくまで軽く答えた。私の手を受け止めて、再びブローチを握らせる。小さな子に語り聞かせるような柔らかい口調で、侯爵様は続ける。
「いちおう、我が家の名は国じゅうに通っている。いつか何かの役に立つかもしれないから、お守りだと思って持っていなさい」
「お守り……」
手の中で静かに輝くブローチを見つめる。今にも火傷してしまいそうなくらいに美しい。
「そうだ。多少のことはそれで切り抜けられるだろう。どう使うかは、君が決めなさい」
そうか。侯爵様の真意にようやく気がついた。身寄りのない私に、後ろ盾を与えてくださったのだ。セドリック様にそっくりな、お優しい方だ。
私はブローチを握った手を胸に抱き、できるだけ深く頭を下げた。
「お心遣い、感謝いたします。大切にいたします」
「ああ。そうしてくれると嬉しい。次に会うときはきっと……あ」
侯爵様は急に口を閉じ、明らかに言葉を飲み込んだ。
「侯爵様?」
「……すまない、何でもない。とにかく、体には気をつけるように」
「はい。ありがとうございます」
……もしまた会えたら、どんなにいいかと思う。次なんてないということくらい、心得ている。だけど、いただいたご恩は忘れないようにしなければとも。
◆
全ての予定を終えて、再び白の広間に立った私。セドリック様は残った用事を済ませてから帰ってこられるということで、帰りはアンナと一緒だった。
私の隣に立ったアンナは、上着の前を合わせながら深いため息をつく。何かあったのだろうかと首を傾げた私に向かって、力なく微笑んでみせた。
「……魔法で移動するのは、どうも慣れないんですよねえ」
私はここに来た時に感じた……世界が裏返ったような感覚を思い出して、ついお腹を抑えた。
「私もそう思います……」
「ふふ、お仲間がいてよかったわ」
互いに笑い合って目配せをして、どちらからともなく寄り添って体を支え合った。されるがままアンナに身を預けると、何もかもを包んでくれるような柔らかい温もりが伝わってきて、なんだかひどく安心した。




