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好きと言えなかった初恋の春樹くんが、大学で私を見つけてくれました  作者: ちょこまろ


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最終話 初恋の続きを、君と

春樹は、もう一度走ることを決めました。


美雨もまた、誰にも見せられなかった物語を、最後まで書くことを決めます。


五年前には渡せなかった手紙。

伝えられなかった「好き」。

そして、二人とも胸の奥に残していた想い。


雨のグラウンドで、止まっていた初恋がついに動き出します。


最終話です。

 記録会の日は、朝から雨だった。


 強い雨ではない。

 細く、静かに降る雨。


 美雨は大学のグラウンドへ向かう前に、何度も鞄の中を確認した。


 中には、二つのものが入っている。


 一つは、中学時代の古いノート。

 もう一つは、大学に入ってから書き始めた新しい小説の原稿。


 題名は、雨上がりのグラウンド。


 春樹と再会してから、美雨は毎晩少しずつ書いた。

 中学時代の初恋を、そのまま書いたわけではない。

 でも、遠くから見ているだけだった女の子が、少しずつ自分の言葉を取り戻していく話になった。


 まだ完璧ではない。

 むしろ、直したいところだらけだ。

 読まれたら恥ずかしい。


 それでも、最後まで書いた。


 春樹が走ると決めたから。

 美雨も書くと決めた。


 グラウンドに着くと、すでに多くの学生が集まっていた。

 雨を避けるためのテントが並び、選手たちが体を温めている。


 美雨は観客席の端に座った。


 心臓が落ち着かない。


 春樹は出られるのだろうか。

 足は大丈夫だろうか。

 無理をしていないだろうか。


 そんな不安ばかりが浮かぶ。


 しばらくして、春樹の姿が見えた。


 黒いユニフォーム。

 膝には薄いサポーター。

 表情は硬い。


 中学時代、春樹はいつも堂々として見えた。

 けれど今の春樹は、少し怖そうだった。


 それでも、逃げなかった。


 春樹がふと観客席を見上げる。


 目が合った。


 美雨は胸の前で両手を握りしめ、小さく頷いた。


 春樹は少しだけ笑った。


 その笑顔を見た瞬間、美雨は思った。


 やっぱり、私は春樹くんが走っているところが好きだ。


 速さだけじゃない。

 勝ち負けだけじゃない。

 怖くても、それでも前を向こうとする姿が好きだ。


 スタート位置に選手たちが並ぶ。


 空気が張り詰める。


 雨の音が、少し遠くなる。


 号砲が鳴った。


 春樹が走り出す。


 最初の数歩、美雨は息を止めた。

 右足をかばっていないか。

 表情が歪んでいないか。


 春樹は少し遅れていた。

 昔のような鋭い加速ではない。


 でも、止まらなかった。


 カーブに入る。

 雨粒がトラックに跳ねる。

 春樹の腕が大きく振られる。


 中学時代の校庭が、美雨の中で重なった。


 二階の窓から見ていた春樹くん。

 泥のついた運動靴。

 夕方の光。

 言えなかった「頑張って」。


 美雨は立ち上がった。


「春樹くん!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。


 春樹の肩が、ほんの少し動いた気がした。


「頑張って!」


 言えた。


 中学の頃、何度も胸の中で叫んでいた言葉。

 ずっと声にできなかった言葉。


 春樹は最後の直線で、もう一度前を向いた。


 順位は一番ではなかった。

 記録も、春樹が望んでいたものには届かなかったのかもしれない。


 でも、春樹は最後まで走りきった。


 ゴールした瞬間、春樹は膝に手をつき、深く息を吐いた。

 コーチが肩を叩く。

 チームメイトが声をかける。


 春樹はしばらく顔を上げなかった。


 美雨は胸がぎゅっと痛くなった。


 悔しいのだと思った。


 それでも、春樹は顔を上げた。

 そして、観客席の美雨を見た。


 笑っていた。


 泣きそうなほど、きれいな笑顔だった。


 記録会が終わったあと、美雨はグラウンドの外で春樹を待った。


 雨はほとんど上がっていた。

 濡れた葉の間から、淡い光が差している。


 春樹は着替えを済ませ、少しゆっくり歩いてきた。


「おつかれ」


「ありがとう」


「足、大丈夫?」


「大丈夫。ちゃんと最後まで走れた」


「うん」


「記録は全然だった」


「うん」


「順位も微妙」


「うん」


「でも、走ってよかった」


 春樹の声は静かだった。


「美雨の声、聞こえた」


「……恥ずかしかった」


「俺は嬉しかった」


 春樹はまっすぐ言った。


「中学の時、窓から見てくれてた美雨が、今日は声を出してくれた。それだけで、最後まで走れた」


 美雨は胸が熱くなった。


「私も、春樹くんが走ったから書けた」


 美雨は鞄から原稿を取り出した。


 クリアファイルに入れた、まだ誰にも見せていない小説。


 指が震える。


「これ」


 春樹は驚いたように見た。


「読ませてくれるの?」


「うん。まだ下手だし、恥ずかしいけど。でも、約束したから」


 春樹は両手で受け取った。


 まるで大切なものを預かるみたいに。


 そして、表紙を見た瞬間、少しだけ息を止めた。


「雨上がりのグラウンド」


 春樹が、ゆっくり題名を読む。


 美雨の頬が熱くなる。


「これ……俺のこと?」


「……少しだけ」


「少しだけじゃないだろ」


 春樹は笑った。

 でも、その目は優しかった。


「五年前から、ずっと俺のこと書いてくれてたんだな」


「ずっとっていうか……書かないと、胸の中がいっぱいになりすぎたから」


 言った瞬間、美雨は恥ずかしくなって俯いた。


 けれど、春樹は笑わなかった。


「嬉しい」


 春樹は原稿を胸の前で持った。


「大事に読む」


 その言葉に、美雨は泣きそうになった。


 五年前に渡せなかった手紙。

 誰にも見せられなかった小説。

 どちらも、今ようやく春樹に渡せた。


 春樹は鞄から、小さな封筒を取り出した。


「俺も、これ」


「それって……」


「卒業式の日に、美雨に渡そうとしてたもの」


 美雨の心臓が止まりそうになった。


 春樹は少し照れたように笑った。


「五年前のだから、字も汚いし、内容も短い。でも、捨てられなかった」


 美雨は封筒を受け取った。


 指先が震える。


「読んでいい?」


「うん」


 封筒を開くと、小さなメモが入っていた。


 卒業おめでとう。

 高校は別々になるけど、またどこかで会えたら話したい。

 放課後、いつも見てくれてありがとう。

 俺は、それが嬉しかった。


 美雨の目に、涙が滲んだ。


 五年前。

 美雨が渡せなかった手紙と、春樹が渡せなかったメモ。


 二人とも、言葉を持っていた。

 ただ、渡せなかっただけだった。


「春樹くん」


「うん」


「私たち、本当にすれ違ってたんだね」


「うん」


「でも、捨てなかったんだね」


「捨てられなかった」


 春樹は少し笑った。


「美雨のこと、忘れたくなかったから」


 涙が一粒、頬を落ちた。


 春樹は慌てたように少し身をかがめる。


「ごめん、泣かせるつもりじゃ」


「違う。嬉しいの」


 美雨は涙を拭って、春樹を見た。


 今日、言おう。

 そう決めていた。


 五年前に言えなかった言葉。

 再会してから、ずっと胸の中で育っていた言葉。


 美雨は深く息を吸った。


「春樹くん」


「うん」


「私、中学の時、春樹くんのことが好きだった」


 春樹は黙って聞いていた。


 その静けさが、美雨に続きを言う勇気をくれた。


「放課後の校庭で走ってるところを見るのが好きだった。話したかったけど、話せなかった。名前を呼びたかったけど、呼べなかった」


 声が少し震える。


 でも、今度は止まらなかった。


「卒業式の日も、好きって言いたかった。でも言えなかった。だから、ずっと胸の奥に残ってた」


 春樹の目が、まっすぐ美雨を見ている。


 美雨は息を吸った。


「過去の初恋だと思ってた。でも、大学で再会して、また春樹くんが走ってるところを見て、分かった」


 雨上がりの風が、二人の間を通り抜ける。


「私、今も春樹くんが好き」


 言えた。


 五年前、どうしても言えなかった言葉。


 言った瞬間、怖さよりも先に、胸が軽くなった。


 春樹はしばらく黙っていた。

 でも、その沈黙は不安ではなかった。


 春樹は一歩、美雨に近づいた。


「俺も」


 低く、はっきりした声だった。


「中学の時、美雨のことが気になってた。ずっと窓から見てくれてる美雨に、何度も話しかけたいと思ってた。でも俺も言えなかった」


 春樹は少し苦笑した。


「大学で再会して、また美雨が俺を見つけてくれた時、すごく嬉しかった」


「私が見つけたの?」


「うん。でも今度は、俺が美雨を見つけたかった」


 胸が熱くなる。


 春樹はゆっくり続けた。


「昔の美雨も、今の美雨も好きだよ」


 美雨の涙がまた滲んだ。


「見てるだけだった美雨も、今日、ちゃんと声を出してくれた美雨も」


 春樹は、美雨の原稿を大切そうに持ったまま言った。


「全部、好きだ」


 涙が落ちた。


 春樹の言葉は、短いのに、胸の真ん中へまっすぐ届いた。


「だから、初恋の続きじゃなくて、今からちゃんと始めたい」


 春樹の声は、まっすぐだった。


「付き合ってほしい」


 美雨は涙をこぼさないように、何度も頷いた。


「うん。私でよければ」


「美雨がいい」


 その一言で、また涙が落ちた。


 春樹は少し慌てたように、美雨の顔を覗き込む。


「また泣かせた?」


「違う。嬉しいだけ」


「そっか」


 春樹は安心したように笑った。


 そして、空いている方の手をそっと差し出した。


 美雨はその手を見つめた。


 中学の掃除当番の日。

 転びそうになった時に掴んでくれた手。


 あの時は、すぐに離れてしまった。

 でも今度は、自分から触れることができる。


 美雨は春樹の手を取った。


 温かかった。


 雨上がりのグラウンドの横を、二人は手をつないで歩いた。


 春樹の手は大きくて、でも力は優しい。

 少しだけゆっくり歩く春樹の歩幅に、美雨は自然と合わせた。


「無理しないでね」


「うん」


「走るの、続ける?」


「続ける。でも、前みたいに記録だけ追うんじゃなくて、ちゃんと自分の足と相談する」


「うん」


「美雨は?」


「私?」


「書くの、続ける?」


 美雨は鞄の中の古いノートと、春樹に渡した原稿を思った。


「続ける」


 今度は、迷わず言えた。


「春樹くんが読んでくれるなら、怖くても書ける気がする」


「読む。何度でも読む」


「つまらなかったら?」


「つまらないって言い方はしない。好きなところをちゃんと伝えて、分からないところは一緒に考える」


「それ、すごく優しい」


「美雨の大事なものだから」


 胸がまた熱くなる。


 初恋は、未完成だったから忘れられなかったのかもしれない。

 言えなかったから、胸に残り続けたのかもしれない。


 でも今、その初恋は思い出ではなくなった。


 今、隣に春樹がいる。

 名前を呼べる。

 手をつなげる。

 好きだと伝えられる。

 自分の書いたものを渡せる。


 グラウンドを出る頃には、雨が上がり始めていた。


 雲の隙間から、淡い夕方の光が差す。


「美雨」


「ん?」


「今度、地元帰らない?」


「地元?」


「中学、見に行きたい。美雨がいた窓も、俺が走ってた校庭も」


 美雨は少し笑った。


「それ、ちょっと恥ずかしい」


「俺も恥ずかしい」


「じゃあ、なんで行きたいの」


「始まりの場所だから」


 春樹の言葉に、美雨は胸を押さえたくなった。


 ずるい。

 そんなことを自然に言うなんて。


「……行きたい」


「決まり」


 春樹は嬉しそうに笑った。


 駅へ向かう道で、美雨はふと空を見上げた。


 雨上がりの空は、少しだけ明るい。

 濡れた葉が光っている。


 中学の頃、好きだと言えなかった春樹くん。


 放課後の校庭を走る背中を、ただ見ているだけだった春樹くん。


 その人が今、隣で手をつないでいる。


 美雨は春樹の手を少し握り返した。


「春樹くん」


「うん?」


「見つけてくれて、ありがとう」


 春樹は一瞬きょとんとして、それから優しく笑った。


「美雨が先に見つけてくれたんだよ」


「そうかな」


「そうだよ。中学の時も、大学でも」


 春樹は美雨の手を握り返した。


「だから今度は、ちゃんと隣にいる」


 美雨は俯いて笑った。


 胸の奥に残り続けていた初恋が、ゆっくりと現在形に変わっていく。


 もう、遠くから見ているだけじゃない。


 もう、名前を呼べずに終わる恋じゃない。


 雨上がりの道を、二人で並んで歩いていく。


 五年前に言えなかった「好き」は、ようやく届いた。


 そして、美雨の初恋は今日、春樹と一緒に新しく始まった。


― 完 ―

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


五年前、美雨は「好き」と言えませんでした。


春樹もまた、美雨に渡そうとしていた言葉を渡せないまま、二人は別々の高校へ進みました。


けれど、その想いは消えていませんでした。


大学で再会し、春樹はもう一度走ることに向き合い、美雨は自分の書いた物語を誰かに見せる怖さと向き合いました。


そして最後には、美雨が五年前に言えなかった「好き」を自分の言葉で伝え、春樹も「昔の美雨も、今の美雨も好きだ」と答えます。二人はようやく、遠くから見つめるだけだった初恋を、今の恋として始めることができました。


「見つけてくれて、ありがとう」


でも本当は、ずっと前から二人とも、お互いを見つけていたのだと思います。


五年間遠回りした二人が、これからは隣を歩いていけますように。


ここまで美雨と春樹の初恋を見届けてくださり、ありがとうございました。

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