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天明の火、唐沢の風  作者: 水川仁


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第5章:唐沢の軍議と、冷徹なる降伏の儀

犬伏から戻った房綱が唐沢山城の城門を潜ったとき、東の空がうっすらと白み始めていた。


急ぎ向かった奥殿では、兄・昌綱がただ一人、蝋燭の火に揺れる地図を広げていた。四方を巨頭に囲まれた弱小国衆の当主として、その肩には一族数千人の命が重くのしかかっている。


「兄上。犬伏にて、随風と名乗る底知れぬ僧に会うて参りました」


房綱が差し出した書状を一通り読み終えた昌綱は、苦い表情のまま、それを容赦なく火鉢の灰の中へと投げ入れようとした。


「……山を降り、平地に城を築けだと? 狂気の沙汰だ。この唐沢山城があればこそ、我らは軍神の猛攻をも凌いでこれたのだ。先祖伝来のこの天険を捨てるなど、佐野の魂を捨てるも同然よ」


昌綱の反論は、中世を生きる武士として、そして山城の領主として極めて正当なものであった。


しかし、房綱の目には、兄が見落としている「冷徹な時代」が見えていた。房綱は静かに、しかし断固とした口調で語り始めた。


「兄上。確かにこの城は不落にござる。なれど、不落であることと、家が栄えることは同義ではございませぬ。この険しすぎる城を維持するための労力、麓との往来に費やす時間……これらはすべて、我が家の力を内から削ぐことにございます」


房綱の言葉には、独特の説得力が宿っていた。


「上杉や北条と渡り合うには、兵の数だけでは足りませぬ。他国に先んじて新しい技術を取り入れ、物流を回し、潤沢な『蓄え』を持つこと。そのためには、この険しい山が今や足かせとなっておるのです。


将来の破綻を避けるため、今のうちに次なる地へ『投資』する。それこそが最良の策かと」


昌綱は弟を凝視した。その瑞々しい瞳の奥にあるのは、単なる臆病などではない。数十年先、数百年先を見据えた恐るべき先見の明であった。


軍議が平行線をたどる中、房綱はふと窓外の夜空を見上げた。そこには、随風が指し示したあの不気味な彗星が、長い尾を引いて不穏に輝いていた。


「……あの星が、ただの凶兆だとは思えませぬ」


夜空の向こうで青白く揺らめく彗星の姿は、まるで古い秩序が崩れ、新しい時代が到来することを告げる「合図」のようだった。


その一瞬の光景を、彼は脳裏に深く焼き付けた。まるで、一瞬の光を紙に切り取る、未来の奇妙なカメラのように。


「兄上、一つだけ提案がございます。城を完全に捨てるのではない。この唐沢を『奥の院』とし、平地に『実務の政庁』を置く。有事と泰平の二段構えの体制を整えるのです」


昌綱の強張っていた表情が、わずかに和らいだ。

「二段構え、か……。房綱、お前の言うその『投資』とやら、夜が明けたら詳しく聞こうではないか」


城下から朝を告げる鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、佐野家の運命を左右する「城下町移転計画」の第一歩が、静かに、しかし確実に踏み出された。



 その頃、赤見の上杉本陣には、一人の若い僧が引き据えられていた。随風である。


本陣の奥、上杉謙信が「佐野の命乞いか」と冷笑を浮かべると、随風は不敵に笑い、堂々とこう告げた。


「足利学校の玉崗庠主ぎょくこうしょうしゅ様は我が師にございます。私はいま足利学校にて学んでおります。


師はこの戦を非常に危惧されており、佐野に上杉殿が居座り続ければ、最高峰の学舎たる足利学校や周辺の領民も巻き添えを食うのは時間の問題。


また、このまま雪が降れば、越後の兵は凍え、小田原の北条が必ず背後を襲いましょう」


数珠を繰る謙信の手が止まる。随風はさらに言葉を重ねた。


「唐沢山の『水』は枯れませぬ。軍神ともあろうお方が、このような岩山で無駄に兵を減らすは天下の損失というもの。」


「今は兵を収め、大義名分を持って越後へお引きくだされ。それがしが昌綱を説き伏せ、形ばかりの降伏の儀を執り行わせます」


このとき随風の脳裏には、犬伏で相見えた房綱の姿がよみがえっていた。

(あの方ならば、兄への説得を必ずや成功させているはず――)


謙信はその若い僧の眼光の鋭さに、ただの坊主ではないと察した。「面白い僧侶よ」と、軍神の唇がわずかに微笑の形に歪む。


力攻めでは落ちず、水も切れぬ。ならば、大義名分を得て引き揚げるのが最善。謙信は心の中で、赤見の陣を払う決意を固めていた。



「殿、上杉の陣より、使者が参りました」


夜、静まり返った本丸に、昌綱は降伏勧告を携えた上杉の使者を迎え入れた。

謙信としても、これ以上この山城に時間を費やすわけにはいかない大人の事情があった。昌綱は使者の前で、これ以上ないほど殊更に神妙な面持ちを作ってみせた。


「おお……謙信公の温情、深く感謝いたします。元より我が佐野家、不本意ながら北条の脅迫に屈したまで。これからは二度と弓を引かず、上杉家への忠義を尽くしましょう」


それは涙ながらの、実に見事な演技であった。

昌綱はその場で、神仏に誓う「起請文」を書き上げると、自らの指を小刀で傷つけ、鮮血の血判を力強く押して使者に渡した。


赤見の本陣でこれを受け取った謙信は、深くため息をついた。

「昌綱め、またこれか……。あの男の誓言が、いかに軽い紙切れかは分かっている。だが、これ以上冬の関東に留まるわけにもいかぬ」


また、謙信には「自ら非を認めて頭を下げてきた者を、執拗に殺すのは義に反する」という強い倫理観があった。それこそが、昌綱の最大の狙いでもあった。


昌綱の「降伏」を受け入れた上杉軍は、一斉に赤見の陣を撤収。越後へと引き揚げていった。佐野の街に、ひと時の平穏が戻る。


――それからわずか数日後のこと。

上杉の軍勢が三国峠を越え、完全に越後へ帰国したという確報がもたらされた。


唐沢山城の大広間。

先ほどまで神妙に飾っていた顔をガラリと変え、昌綱は部屋が震えるほどの豪快な笑い声をあげた。


「引き揚げたか! さすがの軍神も、我が唐沢山の地勢と、この冬の寒さには勝てなんだな!」


昌綱はすぐさま筆を執った。さらさらと激しい筆致で書かれた宛先は、小田原の北条氏政である。


『上杉軍は退散いたしました。我が佐野家は変わらず北条家と共にあります』


「よし、これですぐに早馬を出せ!」


側近たちは、そのあまりの変わり身の早さに呆れ果てつつも、恐怖に近い畏怖の念を抱かずにはいられなかった。


「殿……しかし、これを知れば謙信公は再び激怒し、来春にはまた大軍で押し寄せてまいりますぞ。これで何度目の裏切りですか」


「五度目、いや六度目だったか? ――構わんさ」


遠く越後の空を睨みつけながら、昌綱は不敵に笑った。


来年、またあの赤見の地に「毘」の旗が翻るだろう。そして自分はまた、この城で世界一厚顔無恥な籠城戦を始めるのだ。


この天明の火を絶やさず、唐沢の風を吹かせ続けるために。

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