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天明の火、唐沢の風  作者: 水川仁


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第4章:犬伏の邂逅と泰平の種

唐沢山城を背にした佐野房綱は、湿り気を帯びた夜風を切り裂きながら、南へと馬を走らせていた。


目指すは東山道の要衝、犬伏いぬぶし


のちの世に、関ヶ原の戦いを前にした真田父子が互いの生き残りを賭けて密議を交わす「犬伏の別れ」の舞台である。


また日光東照宮へと続く「日光例幣使街道」の宿場町として歴史に深く刻まれることになる地だが、今はまだ、不穏な静けさに満ちた一画に過ぎない。


犬伏に辿り着いた頃、辺りは濃密な闇に包まれていた。


兵火を恐れる住民たちの気配は無く、軒先に吊るされた提灯が、頼りなげに地面を照らしている。


房綱は兄の密命を帯び、ここを起点として、様々な地へと走り回った。


そしておおかたの用事を終え、房綱は愛馬のたてがみを撫でて落ち着かせると、古びた寺の門を潜った。


そこには、一人の僧が座していた。


使い古された網代笠を傍らに置き、静かに経を唱えている。その姿は一見、どこにでもある旅の托鉢僧のようであったが、房綱は男の背中から立ち上る、尋常ならざる鋭い気配を察知して歩みを止めた。


「……上杉の追手か。それとも、唐沢の風に惑わされた佐野の使者か」


僧が言葉を発した瞬間、本堂の空気がぴたりと凍りついた。

声は低く、そして若い。しかし、驚くほど明瞭に堂内へ響き渡る。


房綱はごくりと唾を飲み込み、自らを名乗った。

「佐野が嫡流、昌綱が弟、房綱にござる。貴殿が、此度の危急を救う鍵を握ると聞き及んだ御仁か」


僧はゆっくりと顔を上げた。

その眼光はあまりに鋭く、まるで乱世の行く末をすべて見通しているかのようであった。


「佐野の命運、それは城の守りの固さにはございませぬ。この地を流れる川の如く、時に形を変え、時に濁流を受け流す『ことわり』にこそございます」


僧は懐から一通の書状を取り出した。そこには、後の世の佐野城の変遷、ひいては豊臣秀吉による小田原征伐をも予感させる、壮大にして怖るべき策が記されていた。


房綱は息を呑んだ。目の前の僧が語るのは、単なる戦術ではない。唐沢山城を捨て、新たな平城ひらじろを築くことまでをも示唆する、一族の根底を揺るがすような「未来」の図であった。


「貴殿……何者だ?」


房綱の問いに、僧はただ不敵な笑みを浮かべた。その背後で一陣の夜風が吹き抜け、本堂の蝋燭の炎が大きく揺らめいた。


僧はゆっくりと網代笠を被り直し、その縁から覗く双眸で房綱を射抜いた。


「拙僧の名など、過ぎ去る風のようなもの。……あえて名乗るならば、『随風ずいふう』とでも呼んでいただきましょうかな。足利学校の、我が師の命を受けてこの地に参り申した」


随風と名乗った若い僧は、持っていた書状を房綱の手へと渡した。そこには一言、峻烈な筆致でこう記されていた。


「唐沢を捨て、平に根を張れ」


「城を捨てよ……だと!?」


房綱の声が、怒りと驚きで激しく震えた。

唐沢山城は、難攻不落を誇る我が佐野一族の誇りそのもの。


現に今、関東管領・上杉謙信の猛攻を幾度も跳ね返している文字通りの不落の要塞を捨てろという提案は、武士として到底受け入れがたい暴論であった。


しかし、随風は動じず、淡々と語り始めた。


「房綱殿、貴殿も薄々気づいているはずだ。これからの戦は、力で押し通す『力攻め』から、富と物流で相手を枯らす『理』の戦へと変わる。


山の上から領地を眺めているだけでは、この先押し寄せる時代の巨大なうねりに飲み込まれるだけです」


随風は床に広げた地図の一点を、細い指で指し示した。

そこは、古代の権力者たちの塚――古墳群が点在する、神聖にしてどこか不気味な丘、秋山川の蛇行が入り込む「春日岡かすがおか」であった。


「春日岡の丘には、古代の王たちの怨念と、この地を鎮める強大な霊気が眠っています。あそこに城を築けば、古代の王たちが天然の障壁となり、城の守護神となりましょう。


しかも、古墳の土を削り、堀を掘ることで、周囲からは『ただの土木工事』か『惣宗寺大改修』にしか見えませぬ。


北条や上杉に『新城を築いて謀反を企んでいる』と疑われずに、極秘裏に要塞化を進めるには、あそこの古墳群を弄るのが一番の隠れみのになります」


房綱は言葉を失い、随風の顔を見つめた。

山を降り、街道を整備することで、人と物の流れをすべて城下へと集中させる。険しい山よりも、見通しの良い平城の方が、これからの戦の主力となる火縄銃の火線を効果的に配置できる。


城を「守りの砦」ではなく「統治の座」に変え、豊穣な地を民に与える――。


「これは、佐野の家を存続させるための『投資』にございます。今、その山城の誇りを捨てれば、百年後の佐野は東国一の栄えを見せるでしょう。


……いずれ天下は静謐せいひつに向かう。


その時、この険しすぎる唐沢山城は、時の天下人から『謀反の砦』として必ず恐れられ、取り潰されます」


冷徹な計算高さと、一族を何が何でも生き残らせるという狂気的なまでの執念。その両方が、房綱の中で激しく火花を散らした。


「……兄上は、昌綱は納得せぬだろうな。あの人は山と共にある男だ」


「左様。ゆえに、貴殿が動くのです」


随風は立ち上がり、静かに本堂を出て行った。

宿場の闇に消えていく僧の背中を見送りながら、房綱は書状を強く握りしめた。


実は、この書状を書いたのは足利学校の師ではない。他ならぬ随風自身であった。


足利学校で『三略』『六韜』といった最高峰の兵学を修めた彼は、自身の若さゆえに侮られぬよう、師の権威を騙ってこの壮大な献策を仕掛けたのだ。


その天才的な戦術眼と先見の明は、すでに一介の修行僧の枠を遥かに超えていた。


房綱が夜空を仰ぐと、そこには、かつて見たこともないほど大きく、不気味な尾を引く彗星が青白くたなびいていた。


乱世の終わりと、新たな時代の幕開けを告げるかのように――。

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