第3章:赤見の陣と、乾かぬ大炊井戸
上杉軍は足利の地を経て、瞬く間に佐野氏の重要支城である赤見城を無力化し、ここに本陣を置いた。
「赤見」は背後の退路を確保しつつ、大軍を展開して長期包囲を行うための「大局的作戦ベース」として、これ以上ない地であった。
さらに謙信は軍を進め、唐沢山城の眼前に位置する飯守山へ前線陣地を構築した。一気に本城を圧殺する構えを見せた。
赤見の平野を埋め尽くす、上杉の「毘」と「龍」の軍旗。
そこから見上げる唐沢山は、むき出しのチャート岩盤が牙のように連なる、文字通りの天然の要塞であった。
「兄上。天明の職人どもが、面白いものを仕込んでおきましたぞ」
搦手の防備を巡視していた房綱が、不敵な笑みを浮かべて顎で指した。
城内の武器庫から運び出された数挺の鉄砲。
それらは、種子島から伝来した初期の火縄銃とは、明らかに趣を異にしていた。
銃身が太く、肉厚。細工のそこかしこに、茶釜を思わせる重厚な鋳物の肌が鈍い光を放っている。
「天明の鋳物師たちが打った『佐野筒』か」
「左様。奴らは茶釜を打つのも名手ですが、鉄を練り、型に流し込む腕は日ノ本一。この大筒なれば、通常の倍の火薬の爆発にも耐えられます。
軍神の先陣が坂を駆け上がってきたところを、この火の粉で手荒くもてなしてやりましょう」
昌綱はその重々しい鉄肌を、愛おしむように撫でた。
佐野の地には、一族の祖・藤原秀郷の時代から鋳物師の技術集団が定住している。
鍋や釜を作るその同じ手が、今は敵を肉塊に変える凶器を生み出している。
この泥臭い生活の営みと、冷徹な兵器が地続きにあることこそ、佐野の強さの本質であった。
赤見の本陣から峻険な山を睨みつけ、上杉謙信が軍配を振った。
「佐野昌綱、またしても義理を違えて小田原に走るか。神仏の罰、受けるが良い。あの山城、力攻めにて踏み潰せ!」
地鳴りのような咆哮とともに、上杉軍の猛攻が始まった。
急峻な天険の斜面を、白い鉢巻を締めた精強な越後兵たちが、蟻の這い上がるような勢いで殺到する。
「引き付けよ……よし、放てっ!」
昌綱の号令一閃、城壁から火を噴いたのは、天明の炎が産み落とした鉄の咆哮であった。
――ドォン!
地響きのような発射音が、唐沢山の岩肌に激しく反響する。
通常の火縄銃とは比較にならぬ重弾が、押し寄せる上杉の先陣を、防盾ごとまとめて粉砕した。
だが、軍神の軍勢は怯まない。
謙信は前線の飯守山から静かに数珠を繰りながら、この不落の城を見つめていた。
彼にとって唐沢山を落とすことは、もはや単なる領土欲ではない。己が信じる「義」を天下に証明するための、聖戦であった。
敵の猛攻の合間、硝煙の引かぬ本丸で、昌綱は弟に密命を下した。
「房綱、夜陰に乗じて山を下りろ。目指すは天明の里、そしてその先……犬伏だ」
「犬伏」――東西の交通が交差し、各地の物資と噂が集まる重要な集落である。
「犬伏で何をすればよいのです、兄上」
「外交(交渉)だ。上杉を外側から孤立させるべく、近隣の国衆たちに揺さぶりをかけろ。
『佐野はまだ落ちぬ。今、上杉に阿ねて、後で小田原の北条が押し寄せてきたときにどう言い訳をするつもりだ』とな」
昌綱の戦は、常に二枚腰であった。武力で劣るなら、言葉の楔で敵の足をすくう。
房綱の瞳に、兄と同じ冷徹な知略の光が宿った。
「承知。……兄上、この山を、頼みますぞ」
「案ずるな。俺の代で、この唐沢の風を絶やしはせぬ」
房綱は猫のような身のこなしで、夜霧の断崖を滑り降りていった。
この時の彼はまだ知る由もない。己がのちに剃髪して「天徳寺宝衍」と名乗り、京の都で豊臣秀吉の側近として、佐野の血脈を繋ぐために天下を奔走することになる未来を。
翌朝、唐沢山城には再び天明の火を噴く音が響き渡った。
一週間、二週間と、血で血を洗う泥沼の攻防が続く。チャート岩盤の断崖は越後兵の足場を奪い、昌綱が築かせた見事な石垣が兵の行く手を阻む。
だが、山城の攻防において最も恐ろしい敵は、兵の手に握る得物ではなく、乾き――「水」の枯渇であった。
麓を完全に包囲した上杉軍は、水の手を切ったと確信していた。
「そろそろ城内は干上がっている頃だ。兵どもに乾きが回れば、内から崩れる」
そう踏んだ謙信の耳に、前線から信じがたい報告が届いた。
上杉の兵たちが、呆然と山頂を見上げているという。
本丸近くの崖際、敵の陣から最も見えやすい特等席に、佐野の兵たちが馬を引いて現れた。
彼らが立つのは「大炊井戸」の傍ら。厳冬の最中であっても、滾々と清水を湧き出させる不思議な井戸であった。
昌綱はあえて上杉軍の目の前で、馬の背に贅沢に水を浴びせかけ、さらに白米をこれでもかと水で洗い、そのきらめく飛沫を敵の眼下に晒した。
「ふっ、我が大炊井戸の水は、天に通じている。越後の龍がどれほど包囲しようとも、この水が枯れることはないわ!」
昌綱の不敵な笑い声が、山谷にこだまする。
山の下で泥水をすすりながら包囲を続けていた上杉の兵たちは、その圧倒的な光景に言葉を失った。
「あの城には、神仏の加護があるのか……」
「水が切れぬのなら、あと何ヶ月包囲せねばならんのだ」
赤見の本陣に、じわじわと、しかし確実に焦燥の影が広がり始めていた。
力攻めでは落ちぬ。水も切れぬ。そして、犬伏経由で届く不穏な噂――「北条が動く気配あり」――が、上杉の将兵の心を内側から蝕みつつあった。
唐沢の山風が、再び激しく吹き抜けた。




