第2章:不落の牙、軍神の影
「申し上げます! 越後より上杉輝虎、八千の兵を率いて三国峠を越えました! 直ちに当城へ向かう構えにございます!」
物頭の悲鳴のような報告が、唐沢山城の本丸に響き渡った。
城主・佐野昌綱は、手にした扇子をぽんと膝に打ち付け、呆れたような苦笑いを浮かべた。
「また謙信公か。律儀なことよな。こちらがほんの少し小田原に秋波を送っただけで、わざわざ雪国から大軍を引き連れてお出ましになるとは」
「兄上、これで何度目でございますか。上杉公も、よほどこの唐沢山がお気に召したと見える」
昌綱の背後から軽妙な声をかけたのは、房綱である。
兄の昌綱が、静水のごとき「静」の智将であれば、弟の房綱は烈火のごとき「動」の才人。
その瞳には、狭い山城に籠もる者特有の悲壮感など微塵もなく、むしろこの未曾有の窮地をどう切り抜けてやろうかという不敵な光が宿っていた。
数ヶ月前、昌綱は圧倒的な物量で迫る北条氏の圧迫に耐えかね、一時的に小田原への臣従を誓ったばかりであった。
弱小国衆が生き残るための、やむにやまれぬ「便法」である。
しかし、不義理を何よりも嫌う「義の将」上杉謙信が、それを許すはずがなかった。
「兄上、聞き及ぶところによれば、今度ばかりは謙信公の怒りは尋常ではございませぬ。
『今度こそ昌綱の首を撥ね、唐沢山を灰燼に帰す』と息巻いているとか。……お味方となった北条への救援要請は?」
房綱の言葉に、昌綱は冷ややかに首を振った。
「北条は動かんよ。小田原の獅子は、謙信公の軍勢が飢えて引くのをじっと待つのが得策と知っておる。
他人のために血を流す男たちではない。……よいか、皆。今回も『いつも通り』にいくぞ」
昌綱の言う「いつも通り」――それは、この堅牢無比な唐沢山城に籠もり、軍神の猛攻を徹底的に耐え抜くという、文字通り命がけの籠城戦を意味していた。
ここ佐野は、まさに「東国の巨大な十字路」であった。
南には古くから東山道(のちの日光例幣使街道や奥州街道へとつながるルート)が走り、関東平野を支配する北条領から、北関東の宇都宮氏・小山氏、さらには三国峠を越えて越後の上杉領へと抜ける絶対的な軍事・経済の生命線。
北条、上杉、武田――天下の巨頭たちが激突する地政学的な最前線であり、この地を制する者が関東の喉元を握る。
ゆえに佐野は、誰にとっても「絶対に他人に渡してはならない生命線」であった。
「房綱、大手門の守りは任せる。天明の職人たちに作らせた新型の金具、城門の裏に仕込んであるな?」
「はっ。びくともいたしませぬ。上杉の騎馬隊が自慢の蹄を折る姿が目に浮かびます」
房綱は不敵に笑い、腰の刀を鳴らした。
遠く地平の向こうから、地鳴りのような足音が聞こえてくる。それは、義の旗印を掲げた軍神が迫る足音。
唐沢山の木々が、押し寄せる嵐を予感してざわざわと騒ぎ始めた。
「さあ、おいでませ謙信公。この唐沢山の牙、そう容易く折れると思うなよ」
昌綱は静かに立ち上がり、戦雲立ち込める北の空を睨み据えた。
唐沢山の風が、二人の兄弟の陣羽織を激しく揺らしていた。




