第1章:鉄の音、山の牙
「カン」、と高い音がした。
それは夜の静寂を切り裂く、冷たい金属の響きであった。
下野国安蘇郡、佐野――。
天明の里にある鋳物師の作業場では、夜通し火の粉が舞っていた。
炉から溢れ出す橙色の猛火が、職人たちの煤けた顔を赤々と照らし出す。
彼らが打っているのは、優美な茶釜ではない。乱世を生き抜くための狂気――鉄砲の銃身、あるいはそれを受け止める堅牢な金具であった。
「……良い音だ。硬く、そして粘りがある」
闇の中から、低く通る声がした。
火光に浮かび上がったのは、頑丈な体躯でありながら、知性を湛えた精悍な顔立ちの男。
佐野家第十五代当主、佐野昌綱である。
越後の龍・上杉謙信の猛攻を幾度も跳ね返し、相模の巨象・北条氏を翻弄し続ける、「北関東の知恵袋」と恐れられる男だった。
その傍らには、まだ十代半ばの瑞々しさを残す青年が立っている。
後に「天徳寺宝衍」として天下にその名を轟かせることになる、弟の佐野房綱であった。
「兄上。この天明の火は、いずれ天下を焼き尽くすものになりましょうか」
房綱の問いに、昌綱は細められた視線を炉の奥、沸き立つ湯鉄へと向けた。
「焼き尽くすのではない。この火が、佐野を生かすのだ。房綱、見よ。上杉も北条も、この地そのものが欲しいのではない。
この唐沢山の峻険と、天明の里が生み出す鉄の力が欲しいのだ。
大国に囲まれた我ら弱卒が生き残るには、牙を研ぎ続けるほか道はない」
昌綱が差した指の先、闇の向こうには、標高二百四十メートルの頂に鎮座する唐沢山城の輪郭が、まるで巨大な獣の牙のように夜空を突き刺していた。
上杉謙信が軍神の旗を翻して攻め寄せれば、昌綱は山に籠もってこれを足止めし、機を見て巧みな弁舌で和を講じる。
北条氏政が数万の兵で包囲すれば、その隙を突いて他国との外交の糸を引く。
佐野という小さな器の中で、彼らは「生き残り」の一点において、天下の怪物たちと対等に渡り合っていた。
しかし、時代の足音は確実に変わりつつある。房綱は兄の背中を見つめながら、己の掌をじっと見つめた。
(兄上がこの城を、この地を守るというのなら……俺は外へ、道を切り開く)
後に房綱が出家して京へ上り、豊臣秀吉という新たな時代の覇者の懐深くへ飛び込むことになるのは、まだ先の話である。
それは、佐野という家を、そして天明の職人たちが命がけで守り抜いた技術を、後世に繋ぐためのもう一つの戦いであった。
「カアン」、と再び鉄を打つ音が響く。
それは戦国という長い夜の深まりを告げる鐘のようであり、同時に苦難に満ちた祝詞のようでもあった。
ふと、昌綱は一族の祖たる藤原秀郷公に思いを馳せる。
かつて平将門の乱を鎮め、関東に覇を唱えた偉大な祖。
中央の権力におもねらず、一族の独立と天明の高度な技術集団を守り抜こうとした昌綱の強靭な意志の根底には、秀郷が体現した「大国に依存せぬ王道」への共感があった。
しかし、昌綱はただ夢想に耽るだけの男ではない。
秀郷の血を引く奥州藤原氏が、平泉の栄華の果てに源頼朝によって滅ぼされた悲劇を、昌綱は痛烈な教訓として胸に刻んでいた。
名門の誇りなど、時勢を見誤れば一瞬で灰になる。
「行くぞ、房綱。夜が明ける。風が変わるぞ」
佐野という地を巡る、熱く、そして哀しい激流が、いま再び動き出そうとしていた。




