第11章:北条の影、天徳寺宝衍の出奔
天正十三年(1585年)。下野国の空を覆っていたのは、不吉なまでの静寂であった。
佐野昌綱の跡を継いだ宗綱は、連年にわたる北条方の猛攻に焦りを募らせていた。彼は「唐沢山の天険に籠もれ」という父の遺言を忘れ、己の武勇と城の防衛力を過信して、外の野戦へと打って出てしまう。
そして「須花坂の戦い」において、足利長尾氏の宿敵・長尾顕長との激闘の末、非業の死を遂げた。まだ二十六歳という若さであった。
当主を失い、絶体絶命となった佐野家。
静まり返った唐沢山城を揺るがしたのは、悲嘆以上に重苦しい「家督」という名の火種であった。
「佐野の血を絶やしてはならぬ。そのためには……」
そう唱える一門・老臣たちの背後には、関東の覇者・北条氏政の巨大な影が差していた。
北条は一族の「氏忠」を養子として送り込み、宗綱の次の当主とすることで、佐野の地を内側から完全に飲み込もうと画策していたのだ。
家臣団の多くがその強大な力に屈し、北条への臣従を口にするなか、ただ一人、広間で眼光を鋭く光らせる男がいた。佐野房綱である。
「北条に跪くは、佐野の誇りを捨てるに等しい。今、天下の真の風は、小田原ではなく西(大坂)から吹いているのだ!」
しかし、房綱の決死の叫びは、目先の保身に走る重臣たちの耳には届かなかった。
城内で孤立無援となった房綱。
だが、彼は決して絶望しなかった。房綱は愛刀と数巻の経済の書物を懐に忍ばせ、宗綱の形見となったあの春日岡の「古代の銀板」を強く掴むと、住み慣れた唐沢山城の石垣を背にした。
それは家を捨てるための逃亡ではない。佐野を救うための「攻めの出奔」であった。
彼は自ら髪を剃り、「天徳寺宝衍」という一介の旅の僧へと姿を変えた。
その不敵な知略によって、北条氏が放った暗殺者や執拗な監視の目をすべてすり抜け、険しい関所を越えて、遙か西の大坂の地へと辿り着いた。
大坂の賑やかな片隅で、羽柴秀吉への謁見の機会をうかがう僧形の宝衍。その眼前に、数十年ぶりの再会となる、驚くべき男が現れた。
それは、成長した、徳川家康の深い信頼を得つつあった随風である。
「師より新たな号を授かり、随風から天海と名乗ることにした」
天海は、宝衍が懐から取り出した「古代の銀板」を見て、不敵に微笑んだ。
「天徳寺殿、あなたの、そして昌綱公の遺志は未だ生きておりますな。よいでしょう、私からこの銀板の権威を豊臣秀吉公へと繋ぎ、北条を滅ぼすための『大義名分』をお貸しいたしましょう。
その代わり……佐野家が生き残った暁には、必ずあの春日岡の古墳に移るという、あの日の約束を果たしていただきますぞ」
当時、北条を過度に刺激することなく、北関東の国人領主たちを徳川陣営に引き込みたいと考えていた徳川家康は、足利学校に深い人脈を持ち、関東の地勢に卓越した天海の智謀に惚れ込んでいた。
家康は天海を公式な臣下ではなく「対等の知恵袋」として、極秘裏に天下の絵図を相談していたのだ。
その天海からの強い要請なればと、家康が間に入り、宝衍の存在を秀吉へと繋いだのである。
天海に案内され、たどり着いた大坂城の広間。
そこには、日の出の勢いで天下を掌握しつつあった天下人、関白・豊臣秀吉が座していた。
宝衍は一介の亡命浪人の身でありながら、堂々とその前に平伏した。
「佐野は北条の門前にありながら、未だ、心までは売っておりませぬ」
宝衍が淀みなく語る関東の緻密な地勢、北条の防衛網の弱点、そして唐沢山城が誇る「関東一の要害」としての真の価値。
その圧倒的な理知と、故郷を想う静かな情熱に、秀吉は爛々と目を輝かせた。
「面白い。その小気味よき目、まさに宝の如き衍りよ! 気に入った!」
秀吉は、この「算盤と地勢を操る知恵ある僧」を深く信頼し、来るべき小田原征伐の「最大の鍵」として手元に置くことを決めたのである。




