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7話「白い導き」

 

 夜の十時を過ぎた頃、扉をノックする音がした。三回、間隔が均等な、静かなノックだ。


 メアリーが扉を開けると、エドワードが立っていた。昼間より顔がよく見えた。フードを下ろしていた。


 二十代後半と昼間は思ったが、近くで見ると三十近いかもしれない。顎に薄く無精髭がある。目の下の疲れは昼間と変わらないが、屋内の明かりに照らされるとその目の色がわかった。暗い茶色だ。整った顔だったが、笑っていない。笑い方を忘れたような、そういう顔だった。


「入って」


 メアリーは言った。エドワードが少し躊躇した後で入室し、デイコンがすでに来ていて部屋の隅に立っているのを一瞥してから、メアリーを見た。


「信用できるのか」

「できる」


 即答した。エドワードは何も言わなかった。否定もしなかった。


 メアリーはベッドの下から日記を取り出してテーブルの上に置いた。三人がテーブルを囲んだ。エドワードが日記に手を伸ばしたが、その手が一瞬止まった。表紙の金の文字を見ていた。Elena Craven。エドワードの目が細くなった。何かをこらえているような目だった。


「開けていいか」


 メアリーに聞いた。


「あなたの姉の日記よ。あなたが開けるべきでしょう」


 エドワードは日記を手に取った。

 最初のページは四年前の日付だった。エドワードが声に出して読んだ。静かな声で。


 内容は最初、穏やかだった。庭の薔薇が咲いた。コリンの体調が少し良くなった。夫と夕食を食べた。そういう日常の記録が続いていたが、ページが進むにつれて変わっていった。


 二年前の記録から、文章が変わり始めた。


『夫が変わった。薔薇の話しかしない。夜中に庭にいることが増えた。何を考えているのかわからない』


 一年半前。


『地下で物音がする。夫に聞くと、ただの家鳴りだと言う。でも人の声がする。気のせいではないと思う』


 一年前。


『薔薇の手入れをしていた庭師のオールドが急に辞めた。夫は別の理由があると言うが、オールドは私に何か言いかけて、止めた。口元が震えていた』


 エドワードが読む声が低くなった。デイコンが息をひそめて聞いていた。さらにページが進む。


 八ヶ月前。


『夫の書斎で偶然、日記を見た。私の日記ではなく、夫の日記だ。一ページだけ読んだ。読むべきではなかった。でも読んでしまった。書いてあったことが、信じられない。信じたくない。あれが本当なら、この薔薇は』


 そこで文章が途切れていた。次のページに続いていた。


『確かめなければならない。でも怖い。コリンのことが心配だ。あの子を連れて逃げるべきか』


 六ヶ月前。


『夫に、知っていることを話してしまった。話すべきではなかった。夫の目が変わった。あの目を見たことがない。愛していると言った。でもあの目は愛の目ではなかった』


 エドワードが読む声が止まった。ページをめくった。次のページから、文字が変わっていた。震えている。さっきまでの整った文字が、震えて歪んでいた。


『逃げなければ。でも足が動かない。夫が見ている。ずっと見ている。コリンを頼む。あの子は何も知らない。何も知らないまま、幸せでいてほしい』


 最後のページ。日付は四ヶ月前だった。


『薔薇は美しい。それだけは本当だ。でも——』


 文章はそこで終わっていた。終わっていた、はずだった。

 エドワードが日記を閉じようとした。


「次のページ」


 メアリーが言った。


「ない。ここで終わって——」

「もう一度見て」


 エドワードが日記を開いた。最後のページの次、白紙のはずのページに、文字があった。さっきまで、確かになかった文字が。

 三人が同時に日記を覗き込んだ。細い、震える文字で、書かれていた。


『助けてください』


 日付は、今日の日付だった。

 沈黙が落ちた。誰も動かなかった。ランプの炎が揺れる音だけが聞こえていた。


「……今日の日付だ」


 デイコンがかすれた声で言った。


「日記は四ヶ月前で終わってた。なのに」

「誰かが書き足したんじゃないのか」


 エドワードが言ったが、その声に確信がなかった。


「さっきは白紙だった」


 メアリーは言った。


「あなたも見たでしょう。さっきまで白紙だった」


 エドワードが黙った。否定しなかった。

 メアリーは日記の文字を見た。助けてください。肖像画の血の涙と、唇が動いた言葉。助けて。同じだ。


「エレナ夫人は」


 メアリーはエドワードを見た。


「死んでいる。でも、まだここにいる」


 エドワードの目が細くなった。


「そういうことを信じるのか」

「信じるとか信じないじゃない。見てきたことを言ってる」


 エドワードが日記を閉じて立ち上がり、窓の外を見た。その横顔が固かった。


「姉が殺されたのはわかっていた。証拠が欲しかっただけだ。こういう……」


 言葉が途切れた。


「こういう話は、得意じゃない」

「でも見えてるんじゃないの」


 メアリーが言った。エドワードが振り返った。


「何が」

「黒い影。あなたは見えてる。だからずっと隠れて動いてた。正面から歩けないから」


 エドワードの目が動いた。否定しなかった。


「……見える」


 エドワードが短く答えた。苦い声だった。


「ここに来てから見え始めた。最初は気のせいだと思った。でも無視できなくなった」

「白い影は?」


 エドワードが少し黙ってから言った。


「一度だけ。姉に、似ていた」


 室内が静かになった。暖炉の炎だけが音を立てていた。

 三人で今後の方針を話し合った。エドワードが低い声で言った。


「日記だけでは証拠にならない。伯爵が書いたものではないし、死体が出てきたとしても日記との関連を証明するのは難しい。警察に持ち込むなら、もっと直接的な証拠が必要だ」

「伯爵の書斎に、夫の日記があると書いてあった」


 メアリーが言った。


「エレナ夫人が一ページだけ読んで、震えた日記。あれに何が書いてあるか」

「書斎は鍵がかかっている」

「昼間は開いてた。伯爵がいない時間を狙えば」

「伯爵は書斎から出ない。ほぼ一日中あそこにいる」


 デイコンが言った。


「でも夜は庭に出る。昨夜みたいに」


 三人が顔を見合わせた。夜、伯爵が庭に出た隙に書斎に入る。


「わかった」


 エドワードが言った。


「だが俺が書斎に入る。お前たちは見張りだ」

「一人で?」

「俺の方が目的がはっきりしている。動きも速い」


 メアリーは少し考えた。


「今夜は?」

「今夜は遅い。明日の夜に備える」


 エドワードが立ち上がり、扉に向かった。


「待って」


 メアリーが呼び止めた。


「どこで寝てるの。この屋敷のどこに」


 エドワードが止まった。振り返らなかった。


「知らなくていい」

「伯爵は知ってるの?」

「知らない」

「じゃあ何日もここにいて、どうやって」


 エドワードがようやく振り返った。少しだけ、表情が動いた。困ったような、あるいは少し呆れたような顔。


「空き部屋が多いだろう、この屋敷は」

「鍵がかかってるじゃない」

「ピッキングはデイコンだけじゃない」


 デイコンが小声で「同業者だ」と言った。エドワードが扉を開けた。


「明日の夜まで、普通に過ごせ。伯爵に気づかれるな」

「わかった。一つだけ聞いていい?」

「何だ」

「コリンのことを知ってる?」


 エドワードが少し止まった。


「コリン?」

「伯爵の息子。病弱で、ずっと部屋に閉じ込められてる子」

「……姉の子か」


 エドワードの声が、一瞬だけ変わった。硬さの奥に、何か別のものが混じった。


「まだ生きているのか」

「生きてる。でも薬を飲まされてる。伯爵に」


 エドワードの目が細くなった。


「明日、会いに行く」


 それだけ言って、出ていった。扉が静かに閉まった。


 デイコンが帰り、メアリーは一人になった。日記をもう一度手に取った。最後のページを開いた。

 今日の日付と、助けてください、という文字。そのすぐ下に、また文字が増えていた。さっきまでなかった文字が、また現れていた。細く、かすれた文字で。


『地下を見て。でも一人では行かないで』


 メアリーは日記を閉じた。地下。また地下だ。行くな、という警告と、見て、という導き。矛盾しているようで、していない。一人では行くな。つまり、一人でなければ行ける。


 ランプを消した。暗い部屋の中で、窓の外を見た。庭に月明かりがあった。薔薇が揺れていた。その薔薇の向こうに、白い影が見えた。庭の中央に立つ、白い人影。今夜は動かなかった。指差しもしなかった。ただ、屋敷を見上げていた。メアリーの部屋の窓を、見上げていた。


 白い影の輪郭が、風もないのに揺れていた。長い髪が広がるように揺れていた。

 メアリーはゆっくりと頷いた。わかった、と。必ず見つける、と。


 白い影が、揺れた。風に解けるように、少しずつ薄くなって、薔薇の赤の中に白が溶けていった。消えた。庭には月明かりと、揺れる薔薇だけが残った。

 メアリーはカーテンを引かなかった。しばらくそのまま、庭を見ていた。


 E・C。エレナ・クレイブン。あなたの弟が来ている。あなたの息子も、まだ生きている。必ず終わらせる。


 そう、心の中で言った。返事はなかった。でも窓ガラスに、一筋だけ、薔薇の花びらが貼りついていた。内側から。窓は閉まっているのに、内側から、赤い花びらが一枚。


 メアリーはそれを剥がさなかった。朝まで、そのままにしておいた。




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