6話「庭園」
翌朝、メアリーは手紙をデイコンに見せた。
デイコンは二度読んだ後、少し考えてから言った。
「……誰が書いたんでしょう」
「わからない。でも人間よ。昨夜、廊下に立ってた」
「使用人じゃないですよね」
「使用人なら名乗る。それに廊下から消えた方法がおかしい。扉も窓も全部閉まってたのに、跡形もなく消えた」
「伯爵の知り合い?」
「伯爵なら手紙を書く必要がない。直接禁じればいい。現に昨日、書斎で禁じられた」
朝食の食堂で、マーサに聞こえないよう小声で話していた。マーサは厨房との間の小窓越しに紅茶を運んでくれていたが、その表情はいつも通り明るい。
「お前はまだ何も知らない、知らないうちは安全だ」
デイコンが手紙の文面を繰り返した。
「これ、脅しじゃなくて本当に心配してる文章ですよね」
「そう読んだ」
「だとすると、その人は僕たちの敵じゃない」
「敵じゃないけど、正体は教えてくれない」
メアリーは窓の外の薔薇を見た。朝の光の中でも、薔薇は赤かった。昨夜見た根元の土と、エレナのハンカチが頭にあった。
「今日、閉鎖された庭園に入りたい」
「昨夜あれだけのことがあって、まだ行きますか」
「だからこそよ。伯爵が一番怪しいのはあの庭園だもの」
デイコンが深呼吸してから、頷いた。
「……わかりました。伯爵の居場所を確認してから、にしましょう。午後、書斎にいる時間帯を狙えば」
メアリーは頷いた。その時、食堂の扉が開いた。マーサが入ってきた。いつもの笑顔だったが、目の下にうっすらと隈があった。
「よく眠れましたか、お嬢様」
「ええ、おかげさまで」
嘘だった。ほとんど眠れなかった。マーサがトーストを置きながら、さりげなく言った。
「昨夜、廊下でどなたかとお話しされていましたか?」
メアリーは表情を動かさなかった。
「いいえ。一人で部屋にいたわ」
「そうですか。物音が聞こえたような気がしたので」
マーサはそれ以上聞かなかった。でもその目が、一瞬だけ鋭くなった。
午後、伯爵が書斎に篭ったのを確認してから、二人は庭に出た。
昼間の薔薇園は、夜とはまた違う顔をしていた。秋の薄い日差しの中で、薔薇は静かに燃えるように赤く、棘が光り、花びらが風もないのにわずかに揺れていた。匂いが濃い。昼間でも、この庭に入ると匂いが強くなる。
昨夜ハンカチを掘り出した場所を踏まないようにして奥へ進むと、塀が見えてきた。高い煉瓦の塀、昨夜伯爵が南京錠で閉めた扉。近づくにつれて匂いがさらに強くなって、外の庭とは比べ物にならない濃さだった。甘さが飽和していて、鉄の匂いがはっきりと混じっていた。
扉の前に立った。南京錠がかかっていた。デイコンが南京錠を調べてから、ポケットから針金を取り出した。
「古い型ですね。ピッキングできるかもしれない。細い針金があれば」
「試してみて」
デイコンが針金を差し込んで慎重に動かし始めた。その間、メアリーは扉の隙間から中を覗こうとした。隙間は細く、ほとんど見えないが、気配は伝わってきた。
扉の向こうから、濃密な何かが押し寄せてくるような感覚と、薔薇の匂いだけではない、もっと重い、もっと暗い、何かが。
「メアリーさん」
デイコンが小声で呼んだ。振り返ると、扉の取っ手を示している。南京錠が外れていた。
「開けられた」
デイコンが扉の取っ手に手をかけたその瞬間だった。
メアリーの首筋が粟立った。背後に、気配。昨夜部屋で感じたのと同じ、あの感覚。誰かが、いる。振り返ろうとした。
その前に、首筋に息がかかった。至近距離の息。耳のすぐ後ろに、誰かの口がある距離の息。
メアリーは弾かれたように振り返った。
誰もいなかった。
いや、いた。
人の形をした、黒いモヤが目の前にあった。
でも今回は、近すぎた。手を伸ばせば触れる距離に。輪郭のはっきりしない顔の中に、目だけがくっきりとあった。白目のない、真っ黒な目。それが二つではなかった。三つあった。額に一つ、両目の位置に一つずつ。三つの目が、全部メアリーを見ていた。
カッと見開いた目だ。瞬きをしない目が、ただメアリーを見ている。影の輪郭が揺れていた。人の形を保とうとして、保てなくて、端が煙のように溶け出している。口に見えるものが開いた。縦に裂けるように。声はない。でも裂け目の奥が、黒い。底なしの黒だ。
その黒さを見ていたら、吸い込まれる気がした。意識が引っ張られる感覚があった。引き込まれる。あの黒に。
「メアリーさん!」
デイコンの声が遠くから聞こえた。肩を掴まれ、強く揺さぶられた。
メアリーは我に返った。目の前に、何もなかった。影が消えていた。
「メアリーさん、しっかりしてください!」
デイコンが青い顔でメアリーを揺すっていた。
「大丈夫、大丈夫よ」
「何が見えたんですか」
「黒い影。でも今日は近くて……」
手が震えていた。影に意識を引っ張られる感覚が、まだ残っていた。あの黒い底なしの暗さが。深呼吸を一回、二回、三回。震えが少し引いた。
「開けた扉は?」
「開いてます。でも今は——」
「行く。ここまで来て引き返せない」
デイコンが唇を噛んだが、それでも頷いた。
扉を押すと、軋む音がして開いた。中に入った瞬間、息が止まった。
薔薇だった。ただ、薔薇だけがあった。外の庭より狭い空間に薔薇が密集して植えられていて、通路がかろうじてある程度で、左右を完全に薔薇が埋め尽くしていた。
色が、違った。外の薔薇は赤だった。ここの薔薇は、黒に近かった。深い暗赤色で、ほとんど黒と赤の境界線上にある色だ。外の光でやっと赤とわかる程度の、重く暗い赤。そして大きかった。
花の一輪一輪が外の薔薇の倍以上の大きさで、花びらが幾重にも重なって牡丹のように丸く開いていた。
匂いが全身を包んだ。甘い、甘すぎる匂いで、頭がくらくらするほどの濃さだった。その奥の鉄の匂いも、外より何倍も強かった。
「すごい……」
デイコンが呟いた。感嘆なのか恐怖なのか、判断できない声だった。
メアリーは通路を進んだ。薔薇の棘が服に引っかかるのを払いのけながら、根元の土を見た。盛り上がっていた。外の庭より明らかに多く、あちこちが盛り上がっていて、少なくとも五か所、最近掘り返された跡があった。
「デイコン、ここに何人埋まってると思う?」
デイコンが顔を上げた。青ざめた顔で土を見ながら言った。
「……数えないようにしていました」
「少なくとも五人。外の庭を入れたらもっと」
デイコンが何も言えなかった。沈黙の中で、薔薇が揺れた。風はないのに全部が同時に、同じリズムで。まるで呼吸するように揺れていた。
通路の一番奥まで進むと、他の薔薇とは違う一株があった。まだ若木で、幹が細く花も小さいが、色は他の薔薇と同じ暗黒の赤だ。根元の土が、一番新しく盛り上がっていた。つい最近、掘られた跡だった。
メアリーは膝をついて、手袋をはめた手で土を掘り始めた。
「メアリーさん、あの昨夜みたいにまた——」
「わかってる。少しだけよ」
柔らかい土がすぐに動いた。五センチ、十センチと掘り進めると、白いものが出てきた。今度はハンカチではなかった。布だった。厚い、白い布が土の中に折り畳まれて埋まっていて、引っ張るとずっしりと重かった。
布に包まれた、何かが入っている。ゆっくりと布を開いた。
中から出てきたのは、黒い革の日記帳だった。古びた、小さな日記帳で、表紙に金の文字が刻まれていた。
『Elena Craven』
エレナ・クレイブン。伯爵夫人の日記だ。
「これ……」
デイコンが震えた声で言った。
メアリーは日記を手に取った。開こうとした瞬間、後ろから声がした。
「それに触るな」
低い、男の声だった。でも伯爵ではなかった。もっと若い声だ。
メアリーは立ち上がり、振り返った。
誰かが、庭園の入り口に立っていた。背が高く、二十代後半だろうか。黒いコートを着て、フードを目深に被っていた。顔が半分、影に隠れていた。でもフードの下から見える目が、鋭かった。強い意志のある目で、その目が、日記に向けられていた。メアリーではなく、日記を見ていた。
「誰?」
メアリーは聞いた。男は答えなかった。
「ここに何の用?」
また、答えない。
デイコンがメアリーの前に出た。
「あなたが昨夜の手紙を書いたんですか」
男が少し動いた。フードの下で、目が動いた。
「関係ない」
「関係ある」
メアリーは言った。
「あなたはずっとここにいた。昨日の朝も、昨夜の廊下にも。この屋敷の何かを調べてる。怖い……だから正体を教えて」
男が沈黙した。長い沈黙だった。風が吹いて薔薇が揺れ、男のフードが少し上がって顔が見えた。整った顔だった。鋭い目の下に、疲れが滲んでいた。何日も眠れていないような、そういう疲れ。
「それは私のものだ」
男が日記を見ながら言った。
「エレナ・クレイブンの日記よ。あなたのものじゃない」
男の目が、メアリーに向いた。真っ直ぐ見てくる目だった。
「姉のものだ」
静かな声で、言った。
メアリーは息を飲んだ。姉。エレナ・クレイブンの、弟。
「あなた、エレナ夫人の弟なの?」
男が答えなかったが、答えないのが答えだった。
デイコンが口を開いた。
「……ずっと、ここで調べてたんですか。夫人の行方を」
男の目が細くなった。
「失踪と聞いた。でも信じなかった。姉は逃げるような人じゃない」
「それは……」
メアリーは日記を見た。そして庭園の土を見た。五か所以上の、盛り上がった土を。
「あなたに、言わなければならないことがある」
男がメアリーを見た。
「姉の遺体は、おそらくこの庭に」
「わかってる」
男が遮った。静かな、でも硬い声で。
「だから証拠が必要だ。その日記が証拠になる」
「なら一緒に読みましょう」
男が少し黙ってから言った。
「……ここでは駄目だ。伯爵に見つかる」
「どこなら?」
「お前たちの部屋に日記を持ち帰れ。今夜、行く」
「あなたの名前を教えて」
男が少し間を置いた。
「エドワード」
それだけ言って、男は踵を返した。薔薇の陰に消えていき、黒いコートが一瞬見えてから、消えた。
デイコンがぽかんとした顔でその場所を見ていた。
「……どこから来てどこへ行ったんでしょう」
「わからない」
メアリーは日記を胸に抱えた。エドワード。エレナ夫人の弟。ずっとこの屋敷にいて、ずっと調べていた。そして昨夜の手紙も、彼が書いた。
でも自分たちが掘るのを止めなかった。日記を見つけさせた。そういうことだ。
メアリーは庭園を振り返った。黒い薔薇が静かに揺れていて、その根元の土が、風もないのに少しだけ動いた気がした。
庭園を出て扉を閉め、南京錠はかけられないままデイコンと困った顔を見合わせたが、急いで薔薇園を抜けて勝手口へ向かった。
途中、メアリーは一本の薔薇の前で足を止めた。大きな株だった。外の庭の中でも特に大きく育った株で、花が十輪以上開いていた。根元の土が、盛り上がっていた。
メアリーは手を伸ばして薔薇の茎にそっと触れると、棘が指に刺さった。痛みより先に気づいた。茎から何かが滲んでいた。棘の付け根から、赤い液体が一滴。血のように赤い液体が、樹液にしては色が濃すぎた。
指を離すと、赤い液体が茎を伝って土に落ちた。土がすぐに吸い込んだ。跡形もなく。
「メアリーさん、早く」
デイコンが呼んだ。メアリーは歩き出したが、振り返ってもう一度その株を見た。棘の付け根に残った赤い滴が、昼の光の下でも鮮やかに光っていた。これは樹液ではない。でもそれが何なのかを、言葉にしたくなかった。
部屋に戻り、日記をベッドの下に隠した。今夜、エドワードが来る。この日記に、何が書かれているのか。エレナ夫人は何を記録していたのか。
メアリーは窓の外を見た。薔薇が見えた。赤い、あんなにも赤い薔薇が見えた。その赤さの意味を、もうメアリーは知っていた。知っていて、それでも見ていた。綺麗だ、と思う自分がいた。
その感情が、少し怖かった。
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