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5話「夜の音」

 

 夜の十一時、屋敷が静まり返った頃、メアリーはベッドから起き上がった。


 服は着替えていない。横になっていただけだ。眠れるはずがなかった。伯爵の濡れた手が、頭から離れなかった。


 ランプを持たないことにした。光があれば外から見える。気づかれる。月明かりだけを頼りに動く。


 廊下に出ると、シンと静まり返っていた。燭台の炎もすでに消えていて、廊下は暗い。窓から入る月光が、床に細長い長方形を作っていた。その光の帯を踏みながら、メアリーは階段へ向かった。


 踊り場を通った時、肖像画は暗闇の中にあった。月光が届かない角度で、ほぼ見えない。でも通り過ぎる瞬間、確かに気配がした。見られている。振り返らなかった。振り返ったら、また目が動く気がして、そのまま一階へ降りた。


 厨房の奥、勝手口のラッチ錠を持ち上げると、扉が音もなく開いた。


 外に出た瞬間、夜の空気が冷たく肌を刺した。秋の終わりの、骨まで染み込むような冷たさだ。月が出ていて、雲の切れ間から白い光が庭を照らしていた。


 薔薇が見えた。夜の薔薇は昼間と違って、赤が黒に変わり、輪郭が曖昧になり、塊のように見えた。それが庭一面に広がっていて、月光の中で微かに揺れていた。風もないのに揺れていた。


 匂いが強かった。昼間より、夜の方が匂いが強い。甘い、濃厚な薔薇の香りの奥に、鉄の匂いが確かに混じっていた。

 勝手口の脇の木の陰に、デイコンが立っていた。


「来ましたね」

「遅くなりました」

「いえ、僕も今来たところです」


 デイコンが懐から布を取り出した。



「手袋です。土を触ることになるかもしれないから」

 用意がいい。メアリーは受け取って礼を言いながら、二人で並んで庭に踏み出した。


 薔薇園は広かった。屋敷の裏手から奥に向かって、扇形に広がっていて、手入れの行き届いた薔薇が等間隔に並び、棘が月光に光っていた。近づくほど匂いが強くなって、甘さの奥の鉄の匂いがはっきりしてくる。


「デイコン、この匂い、何だと思う?」

「薔薇の匂いですよね」

「その奥の匂い」


 デイコンが鼻を上げて少し考え、それから顔が曇った。


「……血、みたいな」

「そう」


 デイコンが言っていた通りだった。あちこちの根元の土が盛り上がっていて、最近掘り返されたような、そういう土の盛り方だ。メアリーは一番近い株の根元に膝をついて、手袋をはめた手で土を触った。


 柔らかかった。よく耕された土のような柔らかさだが、表面だけでなく深い場所まで柔らかい。かなり下まで掘られた跡がある。


「デイコン、この土、掘ってみる」

「ここでですか」

「少しだけ。確認したいことがある」


 デイコンが周囲を確認し、屋敷の窓に明かりがないことを確かめてから、小さなスコップを取り出した。これも用意してきたらしかった。スコップを土に差し込むと、柔らかい土がすぐに動いた。


 五センチ、十センチ、十五センチと掘り進めたが、何もない。もう少し深く掘ろうとした瞬間、メアリーの手袋の指先が何かに触れた。


 柔らかい。土とは違う柔らかさで、布のような感触だ。手袋を脱いで素手で土を払うと、白いものが現れた。布だった。白い布が土の中に埋まっていて、引っ張ると出てきた。


 ハンカチだった。白いハンカチで、縁に繊細な薔薇の刺繍が施されていた。そしてハンカチ全体に、茶色い染みが広がっていた。古い血の色だ。


「これ……」


 デイコンが息を飲んだ。メアリーはハンカチを広げて、刺繍の隅のイニシャルを見た。


 E・C。


 エレナ・クレイブン。

 伯爵夫人の名前は、マーサから聞いていた。エレナという名前だった。


 二人は黙った。土の中に埋まっていた伯爵夫人のハンカチ、古い血の染み。答えは一つしかない。でもその答えを言葉にする前に、屋敷の中から音がした。


 重い足音だった。一階の廊下を歩く音で、一定のリズムで近づいてくる。

 コツ、コツ、コツ、ズッ。コツ、コツ、コツ、ズッ。右足をわずかに引きずる、あの歩き方だった。

 伯爵だ。


「隠れて」


 メアリーが小声で言うと同時に、二人は低くなって薔薇の株の陰に身を潜めた。棘が腕に刺さり、痛みをこらえながら息を殺した。


 勝手口が開いて、伯爵が出てきた。黒いコートを着て、右手に低く構えたランタンを持っていた。そのランタンが足元を照らしていて、伯爵の顔は影の中にあって見えない。


 伯爵が庭に入ってきて、薔薇の間を迷いなく歩く。よく知った道を歩くように、真っ直ぐに。そしてメアリーとデイコンが隠れている株のすぐ横を通った。手が届きそうな距離だった。


 メアリーは息を止めた。伯爵の足元が目の前にある。黒い靴の右足首のあたりに、黒い染みがあった。乾いた血の色だ。


 伯爵は気づかずに通り過ぎ、庭の奥へ向かっていった。閉鎖された庭園の塀に向かって歩いていき、塀の前で鍵を取り出して扉を開けた。中から薔薇の匂いが溢れ出し、鉄の匂いと混ざった濃密な香りが漂ってきた。伯爵が中に入り、扉が閉まった。


 メアリーはデイコンを見た。デイコンが首を横に振った。今夜は追うな、という意味だ。メアリーも頷いた。でも塀の上端から覗いている薔薇の先端が、外の薔薇より色が濃かった。暗黒に近い、深い深い赤が、ほとんど黒に見えるほどの色が、そこにあった。


 どのくらい経っただろう。伯爵が塀から出てきて、扉を閉めて南京錠をかけ、ランタンを低く持って屋敷の方へ歩いてきた。二人は再び低くなった。


 伯爵が横を通った時、左手が見えた。やはり濡れていた。黒光りする液体が手のひらを覆っていて、ランタンの光に照らされると赤黒い色をしているとわかった。


 血だ。

 あるいは薔薇の樹液か。


 どちらにしても、人が普通に薔薇の世話をしたのでは、こんなふうに手が濡れない。


 屋敷に戻った伯爵の足音が遠くなり、やがて消えた。二人は薔薇の陰から出た。


「デイコン」

「はい」

「伯爵夫人は、失踪したんじゃない」


 デイコンが黙って続きを待った。


「殺された。そしてここに埋められた」


 言葉にすると、現実が重くなった。伯爵夫人の遺体が、この薔薇の根元に。薔薇はその上に植えられた。だから薔薇が赤い。だからあんなに美しく咲く。


「確信、ありますか」


 デイコンが静かに聞いた。


「ない。でも確かめる方法がある。塀の中の庭園に入る。あそこの薔薇は外のより色が濃い。もっと最近、誰かが埋められた可能性がある」

「鍵がかかっている」

「昼間なら、伯爵がいない時に壁を越えられるかもしれない」


 デイコンが少し考えてから頷いた。


「……わかりました。でも今夜は戻りましょう。伯爵がまた出てくるかもしれない」


 その通りだった。二人は静かに勝手口へ向かったが、途中でメアリーが振り返った。


 薔薇の株の間、暗い場所に、白い、フワッとしたシルエットが立っていた。こちらを向いていて、指を差してはいない。ただ、そこにいた。そのシルエットが、肖像画の女性に似ていた。細い輪郭、長い髪。


 白い影は数秒そこにいてから、ゆっくりと薔薇の中へ沈んでいくように消えた。土の中へ、薔薇の根元の土の中へ、吸い込まれるように。


 メアリーは動けなかった。デイコンが振り返った。


「メアリーさん?」

「……今の、見えた?」

「何が?」


 見えなかったらしい。白い影は、メアリーだけに見える。


「なんでもない」


 メアリーは歩き出した。手の中のハンカチを握りしめた。


 E・C。エレナ・クレイブン。


 あなたは今も、薔薇の根元にいるのか。そしてあの白い影は、あなた自身なのか。


 部屋に戻り、ハンカチをナイトテーブルの引き出しにしまった。証拠だ。捨てるわけにはいかない。でも伯爵に見つかれば、まずい。


 窓の外を見ると、庭は静かで、薔薇の揺れも止まっていた。深呼吸をしながら考えをまとめた。伯爵夫人は殺された可能性が高い。遺体は薔薇の根元に埋められた。閉鎖された庭園の中に、特に色の濃い薔薇がある。そこにも何かが埋まっている。


 地下には行くな、と花びらに書かれていた。伯爵にも言われた。でも伯爵の言葉は、隠すためだ。花びらの警告は、本当の危険を知らせるためかもしれない。


 白い影が何者なのか。死者の残留だと、メアリーは感じていた。説明はできないが、そう感じた。

 目を閉じようとした時、扉の下の隙間から何かが滑り込んでくる音がした。白いものが見えた。便箋が一枚、扉の隙間から押し込まれていた。


 立ち上がって拾い上げ、開くと、文字が並んでいた。震えた筆跡ではなく、整った、はっきりとした男の字だった。


『薔薇に触れるな。土を掘るな。お前はまだ何も知らない。知らないうちは、安全だ。』


 署名はなかった。メアリーは扉を開けて廊下を見た。左右、誰もいない。足音も聞こえない。でも廊下の端、暗がりに人影があった。白くも黒くもない、実体のある、人間の影だ。背が高く、細身で、黒い服を着ているように見えた。顔は見えなかった。


 その人影が、こちらを見ていた。一秒、二秒。そして暗がりの中へ、溶けるように消えた。


 メアリーは廊下に飛び出してその場所まで走ったが、誰もいなかった。逃げ道になりそうな扉は全部鍵がかかっていて、窓も全部閉まっていた。どこへ消えたのか、わからなかった。


 手の中の手紙を見た。白い影でも黒い影でもない、人間だ。この屋敷に、正体不明の人間がいる。


 そしてその人間は、メアリーの行動を知っていた。薔薇に触れたことを、土を掘ったことを、全部知っていた。




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